小田原市

北條五代が残したもの

北條五代が残したもの

小田原鉢(小田原城天守閣所蔵)

小田原鉢(小田原城天守閣所蔵)

 前回までの十一回にわたる連載によって、戦国時代が初代北條早雲に始まり、五代北條氏直によって幕がおろされたことをみてきた。

 そこで、最終回にあたる今回は、北條五代百年の歴史が後世に何を残したのかを明らかにし、それを締めくくりとしたい。

 まず第一は、何といっても、後北條氏が小田原という町を作り、それを残した点である。


 早雲が小田原に入る前、大森氏頼、藤頼父子によって小田原に城は築かれていた。しかし、大森氏時代の小田原はまだ城下町と呼びうるような都市構造にはなっていなかった。後北條氏が二代氏綱、三代氏康と、代を重ねて小田原を本拠とし続けることによって、それまでの城下集落は、戦国城下町へと発展を遂げたのである。

 後北條氏時代の小田原に、最盛時どのくらいの人口があったかは、史料がなく不明であるが、他の戦国城下町の例から推して、六千人はいたと思われる。しかも、最近の発掘調査によって、城下町には石組み水路、すなわち水道が通っていたことが明らかになった。戦国時代にしては高度に発遠した都市だったことがわかる。

 次に、城下町として発達していたことに由来する事柄であるが、文化面の影響が大きかった点も指摘される。例えば、絵画の分野で「小田原狩野(かのう)」などといわれているのもその一つである。絵画史上名高い狩野派の一派が小田原に定住し、数々の逸品を残し、「小田原狩野」と呼ばれているのである。

 茶の湯釜の一つ「小田原天命(てんみょう)」もその一つである。初代早雲が一時期、大徳寺(だいとくじ)に参禅していたこともあって、小田原は臨済宗大徳寺派と深く関わっていた。しかも、茶の湯は大徳寺と密接につながっており、それと、小田原の鋳物師(いもじ)山田二郎左衛門の存在とが結び付き、下野国(栃木県)の「佐野天命」と並び、「小田原天命」が一世を風靡(ふうび)することになったのである。

 もちろん、小田原は戦国大名としての後北條氏の城下町だったので、軍事都市としての色彩が濃厚だった。そのため、城下町では各種の武具が作られていた。刀で「小田原相州」、甲冑(かっちゅう)で「小田原鉢」がその代表例である。また、「小田原鍔(つば)」も知られているので、鍔工も居たものと思われる。

 軍需品以外であと「小田原」を冠したものとして「小田原染」あるいは「小田原藍」が有名である。これは、後北條氏時代、紺屋の津田藤兵衛がおり、良質な染物を出していたことに由来し、これら戦国時代の職人たちが残した影響は大きなものがあった。

 たしかに、後北條氏は秀吉の天下統一に抗して家を滅ぼしてしまった。情勢判断の甘さ、情報収集能力の不備が致命傷だったことも事実である。しかし、秀吉に対抗しうると考えたその意気、自負はそれなりに評価すべきではないだろうか。後北條氏は、戦国大名として超一流だったのである。
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