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2016年03月25日(金)

待ち遠しい天守リニューアル!(後編)

耐震改修工事中の小田原城天守閣。5月1日のリニューアルオープンが待ち遠しいばかりです。
3月6日の市民向けの内部見学会に私も参加してきました。

摩利支天と天守七尊・諸山十尊

 

摩利支天とは、陽炎(かげろう)が神格化されたインド由来の神

常に太陽の光の前にあるが実体無く、その捉え難いことに例えて、人目から身を隠し、災いを除いて利益を増す神として広く信仰されました

もとは梵天の子・日天の妃とされる女神の姿でしたが、日本では男神としての姿も説かれ、中世以降は特に武士に好んで信仰されました。
もとは梵天の子・日天の妃とされる女神の姿でしたが、日本では男神としての姿も説かれ、中世以降は特に武士に好んで信仰されました。

この摩利支天像は、小田原藩主・大久保忠朝(ただとも)が信仰し天守に奉安したもの

忠朝は、分家の旗本二男に生まれながらも本家を継ぎ、幕府の老中にまで昇った人物で、小田原藩・後期大久保家の初代でもあります

大久保家は1614年に幕府の処罰を受け改易されましたが、この忠朝の代で72年ぶりに小田原藩に返り咲いたのです

彼が出世を遂げたのは摩利支天の利益によるものと考えられ、さらに1703年の元禄地震で天守が炎上した際にも無事に発見された事から、歴代藩主が厚く崇敬しました

明治31870)年に城が廃されてからは大久保家ゆかりの永久寺(市内城山)に預けられ、昭和351960)年に天守閣が復興されると再び最上階に置かれました。

「天守七尊」で摩利支天の両脇にあった仏尊は、阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・地蔵菩薩・如意輪観音・弁才天。

これらは忠朝の子、忠増(ただます)が藩主の時、宝永の再建天守(1706年完成)の守護尊として祀ったものでした。
 
下は、昨年までお土産や休憩コーナーの一角にあった頃撮った写真ですが、摩利支天の隣に永久寺時代の御影(みえい)が、さりげなく展示してありました。
「天守七尊」とあります「天守七尊」とあります
また、天保101839)年頃の書物『相中雑志』(『小田原市史・別編 城郭』にも一部所収)には、これに天満天神を加えた「御天守八尊」が最上階に祀られていたとあります。
加えて、天守から望む箱根連山の
10峰をそれぞれ神仏に見立て(例として、金時山・摩利支天、石垣山・稲荷、など)、「諸山十尊」として併せて武運長久などが祈願されていたようです。

今回のリニューアルでは、この「諸山十尊」の眺望を改善するため、最上階の展望テラスのフェンスを少し低くするなどの配慮もされています。

天守閣の見学を終えて

 

城郭普請には防火や軍学的な縁起をかつぐものが多いですが、最上階にこれだけの祭祀空間を整えた天守閣というのは珍しいのではないでしょうか

個人的には、仏間が西を向いている事に興味を覚えました。普通、神棚や仏壇というのは南か東向きです

最初は摩利支天という天の性格に由来するものかと思いましたが、上の『相中雑志』では、小田原城を「江戸城の坤(ひつじさる)」つまり裏鬼門として見ている節があるので、関東の入口の要衛として西を向いているのかとも思いました

もちろん、個人の勝手な想像でしかないのですが、先に『相中雑志』に目を通しての見学でしたので、実寸の再現を前に思い巡らせるのはまた楽しい一時でした

見学を終え外に出ると、パーテーションに展示されている復興期の天守写真に目が留まりました。
この当時の復興に携わった人達は、どんな思いでこの天守を見上げていたのでしょう。

昭和35年と今とでは世相は大分異なると思いますが、町のシンボルが立ち上がるというのはやはり期待に胸膨らむものだったと思います。

そして、長らく小田原の土に根を張り齢を重ねてきた木が、小田原の人々の手を介して、将軍柱として、かつての守護尊像と共に、復興天守に立った今。

改めて現在の天守を見上げました。

実際の工事現場の様子を目にし、お話を聞いた後では、昭和戦後の器に平成の新たな命を吹き込まれて、違った佇まいに見えるような気がしたからです

何というか、開眼を待つ仏像を眺めているような神社の遷宮のような。そんな気がしました

 

また一つ、平成の小田原城の出来事を目撃できたのは幸いでした

無事に工事が完了し、小田原のシンボルとして、これからも末永く街を見守って欲しいと願います

 (記 そうこ

2016/03/25 15:08 | 歴史

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