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2016年05月20日(金)

「歌舞伎プレセミナー」

「歌舞伎プレセミナー」ポスター「歌舞伎プレセミナー」ポスター
 今年も「松竹大歌舞伎」が小田原へやって来きます。公演日は、7月5日(火)です。歌舞伎公演の前に、昨年に引き続いて、元NHKアナウンサーの葛西聖司氏による「歌舞伎プレセミナー」が5月8日小田原市民会館小ホールで開催されました。昨年も葛西さんのプレセミナーを聴くことで、歌舞伎をより楽しく見ることができました。今年も歌舞伎の本番を観る前の勉強に、プレセミナーへの期待が高まります。

「歌舞伎プレセミナー」

 2時開演時には、用意した席はほぼ満席となりました。会場は、昨年と同じように部屋の中央を通路にして、その両側に座席が向い合せなるように椅子が並べられていました。万雷の拍手で葛西さんが登場すると、葛西さんは、座席の配置を「向かい合った皆さんが、お互いに眠らないように見張るためですよ」と冗談を飛ばして、さっそく観客の笑いを誘っていました。葛西さんは通路を行ったり来たりして、話しを続けます。目の前に葛西さんが歩き、その顔を近づけて語り掛けられると、自分だけに話しかけられているように感じてしまいます。
通路を行き来して語り掛ける葛西さん通路を行き来して語り掛ける葛西さん
歌舞伎「鳴神」
 「鳴神」(なるかみ)とは、漢字を逆に読むと「かみなる」、即ち「かみなり」、雷のことです。雷が鳴ると雨が降ります。つまり、雨を降らす神様のことです。雨を降らすのは、龍神です。「鳴神」の主人公は「鳴神上人(しょうにん)」ですから、神様ではなくお坊さんです。でも、このお坊さんは、普通の人ではなく、修行によって呪術を身に付けた超人なのです。雨を降らせる龍神を、鳴神上人は操る力をもっていました。歌舞伎「鳴神」は、この鳴神上人をめぐる物語なのです。

 時は平安時代の中期、第57代陽成天皇の御代でした。陽成天皇は、父・清和天皇(青和源氏の始祖)の退位で、876年(貞観18年)に、わずか9歳で即位しました。陽成天皇は幼少であったため権力争いに巻き込まれ、884年(元慶8年)、これまたわずか17歳で退位させられてしまうのです。
 
笑顔で行ったり来たりする葛西さん笑顔で行ったり来たりする葛西さん
 陽成天皇が在位していた貞観年間は、日本中が大きな災害に見舞われた時代でした。貞観6年(864年)には富士山が大噴火し、貞観11年(869年)には東日本を震源とする巨大地震と大津波が発生しました。元慶2年(878年)には、京都で大飢饉が発生し、関東地方では大地震が起きました。千年前の日本は、まさに天災が日本中を覆った時代だったのです。

 物語は、このような時代を背景にして展開するのです。陽成天皇は世継ぎがないため、その依頼を受けた鳴神上人は寺院建立を約束にして皇子誕生の願をかけます。すると見事に願いがかない、皇子が誕生しました。ところが、陽成天皇は、鳴神上人と交わした寺院建立の約束を反故にしてしまいます。約束が違うと怒った鳴神上人は、呪術で雨を降らす龍神を滝壺へ閉じ込めてしまいます。滝壺の前には注連縄(しめなわ)で結界をつくってしまいまました。歌舞伎舞台の正面に滝があり、その前に注連縄が張られているのは、そのような状況を示しているのです。

 龍神がいないので、世の中には雨が一滴も降りません。そのため日本中が干ばつに見舞われてしまいました。この辺の背景は、自然災害に見舞われた貞観年間の時代背景を踏まえているようです。困ったのは朝廷です。このままでは日本中の人々が餓死してしまいます。そこで、一計をめぐらしました。絶世の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を使って、鳴神上人を色仕掛けでたぶらかそうとしたのです。実は、この雲の絶間姫はただの美女ではなく、陰陽師(おんみょうじ)でした。陰陽師と云えば、安倍清明(あべのせいめい)が有名ですが、清明が活躍したのは、1世紀ほど後の時代です。
葛西さんの語りに熱が入ります葛西さんの語りに熱が入ります
 舞台となる滝壺は、京都の北・鞍馬山よりまだ山奥の「志明院」という寺の境内にあります。その山奥に雲の絶間姫はやって来きます。そして、言葉巧みに自分の恋物語を語り聞かせると、話に聞き惚れた上人は、身を乗り出して堂から転げ落ちて気を失ってしまいました。それを雲の絶間姫は、滝の冷水を口移しに飲ませると、上人は我に返ります。雲の絶間姫の色気籠絡第一段は見事成功したのです。

 葛西さんはさすがに話術巧みに、聴衆を見事に引き込んでいきました。時折、参加者は葛西さんと配布資料の台詞を全員で声を合わせて読みました。
 自分の声を出して読むと、耳を右から左に抜けてしまう分かりにくい台詞でも理解することができます。更に、葛西さんは白板を使って、登場人物同士の関係についても説明されたので、人間関係が理解できました。

 雲の絶間姫の色気作戦は続きます。二人の小僧(白雲坊、黒雲坊)を里に追い遣って鳴神上人と二人きりになると、いよいよ籠絡の仕上げです。雲の絶間姫は胸が痛いと訴えます。純情な上人は思わず姫の胸元に手を入れて、女人の肌に触れてはならない戒律を犯してしまいます。上人が酒も飲まされて酔いつぶれて眠ってしまうと、雲の絶間姫は注連縄を切って封印を解いてしまいます。たちまち龍神が滝壺から躍り出て、一天にわかに掻き曇り大雨が降り始めたのです。してやったりの雲の絶間姫は、その場から逃げ去ります。大きな雨音に目が覚めた鳴神上人は騙されたと知り、髪の毛を逆立てて怒り狂い、姫の後を追い駆けて幕となります。
講演終了時、観客と握手する葛西さん講演終了時、観客と握手する葛西さん
  葛西さんは絶え間なく通路を動き回ります。大きな笑いを誘うその語り口は、さすが元アナウンサーです。講演の90分はあっという間に過ぎてしまいました。講演終了時に、会場から大きな拍手が送られ、中央の通路を去る葛西さんは、観客から差し出された手に、笑顔で握手をしていました。プレセミナーを聴いて歌舞伎が身近に感じられたのは、葛西さんの語りだけではなく、葛西さんのその気さくな姿もあったからでしょう。このプレセミナーで歌舞伎が難しい古典演劇ではなく、人間らしい物語なのだと知ることができました。7月5日の歌舞伎公演を観ることがとても楽しみになりました。



6月26日の文化セミナー「温故知新・小田原桐座」

 歌舞伎公演に合わせて、6月26日(日)に小田原市民会館で第10回文化セミナーが開催されます。講演は、小田原史談会理事の荒河純氏による「温故知新・小田原桐座」です。江戸時代から明治にかけて小田原にあった歌舞伎の一座の名前が「小田原桐座」です。桐座は、江戸時代の寛文年間に江戸の木挽町の舞台で女歌舞伎を興行して大当たりしたそうです。桐座は明治の初めに廃座となってしまいましたが、街の有力者が資金を出して再興し、明治42年(1909年)に廃業するまで興行されていたそうです。このように、小田原の歌舞伎は長い歴史が重ねられて来ています。
 
 文化セミナーで小田原桐座のような小田原での歌舞伎の歴史を知ると、7月5日の松竹大歌舞伎もまたより深く楽しむことができること請け合いです。是非たくさんの方々が、文化セミナーと松竹大歌舞伎の観劇に来られて、小田原でも歴史を重ねてきた歌舞伎を楽しんでいただきたいと思います。(深野 彰 記)

2016/05/20 11:36 | 芸術

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