載仁親王薨去後に閑院宮第7代となった春仁(はるひと)王は、11歳のとき健康上の理由で小田原へ転地し、小田原中学校(現小田原高校)へ通学されました。小田原に住んで、すっかり健康を取り戻されたそうです。春仁王は軍人となり、戦時中は戦地にも赴きました。戦後、皇籍離脱で「閑院春仁」と改名され、またGHQにより東京の本邸が接収されたため、小田原を本邸として移り住みました。
昭和天皇の皇太子時代の欧州外遊に随伴したのが、閑院宮載仁親王でした。フランス滞在が長かった載仁親王は、皇太子にマナーや語学を指南したそうです。「昭和天皇実録」を編修するにあたって、皇太子の欧州留学関係の資料が不足していました。講師の梶田氏は、元部下であった小田原市役所文化部学芸員・白政晶子氏から閑院宮関連の資料が小田原にあるとの情報を得て、小田原高校同窓会が所蔵する日記や写真などの資料を調査し、「昭和天皇実録」を充実させることができたそうです。これらの資料は、春仁王と小田原とのつながりで遺されたものと云えましょう。閑院純仁(春仁から改名)氏は昭和63年(1985年)に亡くなりましたが、旧閑院宮邸の敷地は小田原短期大学や旧アジアセンターなどとなり、戦後の小田原の発展の礎となりました。