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2015年03月11日(水)

図書館総合歴史講座「載仁親王と昭和天皇」講演会と「閑院宮を知る」展

昭和の初めまで小田原に皇室の御用邸があったことは、意外と知られていません。小田原城の二の丸御殿跡(現二の丸広場)に御用邸はありました。明治34年(1901)に設置されましたが、大正12年(1923)に起った関東大震災で大破してしまい、小田原御用邸は昭和5年(1930)に廃止されました。また、皇族である閑院宮(かんいんのみや)の別邸も小田原にありました。旧城内高校から旧アジアセンターの跡地までの広大な尾根伝いの一帯が、閑院宮家の敷地でした。閑院宮第6代・載仁(ことひと)親王は、明治39年(1906)に小田原に別邸を設けて、晩年はほとんど小田原に住まわれました。春仁王も小田原に住み、小田原中学(現小田原高校)に学びました。閑院宮家は親子2代に渡って小田原と深いご縁があったのです。

 

閑院宮の講演会チラシ閑院宮の講演会チラシ
閑院宮一家 右から3人目・載仁親王、左隣・春仁親王(市HP)閑院宮一家 右から3人目・載仁親王、左隣・春仁親王(市HP)
■「載仁親王と昭和天皇」講演会■
3月7日(土)に、生涯学習センターけやきホールで、閑院宮に関する講演会が開かれました。市立図書館や小田原高校同窓会が所蔵する閑院宮資料と昨年公開された「昭和天皇実録」について、宮内庁書陵部編修調査官の梶田明宏氏が講師となって講演されました。講演会は高い関心を呼び、受付では開場30分以上前から長い行列ができるほどで、会場が満員となる大盛況でした。

 

開場前から長い行列ができた受付付近開場前から長い行列ができた受付付近
閑院宮家とは、江戸時代に第113代東山天皇の皇子直仁(なおひと)親王を祖とする宮家です。四親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)は、天皇家継承の為に置かれた世襲宮家でした。第5代愛仁(なるひと)親王には後継がなかったため、伏見宮邦家王子載仁親王が閑院宮の後嗣となって閑院宮家を継承しました。

 

満席となった講演会の会場満席となった講演会の会場
載仁親王は明治15年(1882)にフランスのサン・シール陸軍士官学校へ留学した後、ソーミュール騎兵学校、フランス陸軍大学校に入学しました。
ソーミュール 騎兵学校は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で有名な秋山好古(あきやまよしふる)が留学した学校です。弟の秋山真之(あきやま さねゆき)は、小田原にあった山下汽船社長・山下亀三郎の別邸で亡くなっています。小田原は秋山兄弟両方にゆかりのある地だと云えます。
■閑院宮家と小田原■
載仁親王薨去後に閑院宮第7代となった春仁(はるひと)王は、11歳のとき健康上の理由で小田原へ転地し、小田原中学校(現小田原高校)へ通学されました。小田原に住んで、すっかり健康を取り戻されたそうです。春仁王は軍人となり、戦時中は戦地にも赴きました。戦後、皇籍離脱で「閑院春仁」と改名され、またGHQにより東京の本邸が接収されたため、小田原を本邸として移り住みました。 
 昭和天皇の皇太子時代の欧州外遊に随伴したのが、閑院宮載仁親王でした。フランス滞在が長かった載仁親王は、皇太子にマナーや語学を指南したそうです。「昭和天皇実録」を編修するにあたって、皇太子の欧州留学関係の資料が不足していました。講師の梶田氏は、元部下であった小田原市役所文化部学芸員・白政晶子氏から閑院宮関連の資料が小田原にあるとの情報を得て、小田原高校同窓会が所蔵する日記や写真などの資料を調査し、「昭和天皇実録」を充実させることができたそうです。これらの資料は、春仁王と小田原とのつながりで遺されたものと云えましょう。閑院純仁(春仁から改名)氏は昭和63年(1985年)に亡くなりましたが、旧閑院宮邸の敷地は小田原短期大学や旧アジアセンターなどとなり、戦後の小田原の発展の礎となりました。

 

「閑院宮家を知る」展を開催中の小田原文学館「閑院宮家を知る」展を開催中の小田原文学館
■小田原文学館にて「閑院宮を知る」展が開催中■
「小田原文学館」は、西海子(さいかち)小路にある田中光顕伯爵の別邸であった瀟洒な洋館です。この小田原文学館を会場に、2月27日〜3月18日までの期間で「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」展が開催されています。

 

講演会のスライドで紹介された資料の他に、載仁王日記や二・二六事件発生時の生々しい動向が分かる新資料、閑院宮家の写真など、小田原図書館と小田原高校同窓会が所蔵している資料が展示されています。講演会を聴きのがされた方も、是非展示会場へ足をお運びください。(深野 彰 記)

2015/03/11 10:26 | 歴史

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