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2015年10月23日(金)

小田原の街でこんな美術展  〜小田原もあ展「三次元の蟻は垣根を超える」〜

小田原もあ展「三次元の蟻は垣根を超える」まずタイトルの意味するところを考えたくなった。「三」が漢字である。なぜ漢字にしたのか。「3次元」とはどう違うのか。蟻はもともと2次元か。「2次元の蟻」は垣根を超えられないのか。夏の暑い日、働き蟻が列になって塀を登っている。彼らは「2」次元の蟻か「三」次元の蟻か。「垣根」の向こうは他人の庭か、それとも見知らぬ世界か。自らを「三次元の蟻」に例え、なかなか「垣根」を超えられない苛立ちか、あるいは「垣根」を超えることのできる自負の表現か。などど、くだらないことを考えるより作品展を訪ねようと、10月11日最終日に小田原は堀之内の「すどう美術館」へ行った。工芸・漆器・陶器・鋳物・装具・装飾・絵画・彫刻など20人の若手作家の作品展「のびゆく予感」だ。
■エントランスでパッと拡げた手に出会う
エントランスには、壁からぐっと突き出た「手」。指がそれぞれの方向に開いている。「パー」だ。思わず「グー」を出したくなるのは、作品に「負けた」証か。5本の指の開き方にデザイン性を求めているとも見えるが、それぞれの方向は作家の心象の何を表しているのだろうか。真上に出した親指はOKかもしれない。対応するように小指は真下を向いている。人差し指はやや下向き加減だ。こころなしか短い中指は曲がっている。薬指は長く掌全体の重みを受けているかのようだ。自分の手を拡げて真似てみたが同じようにならない。その「不自然さ」に作品の意味するものが含まれている。
■無垢の木から彫り出した指輪のぬくもり
清水寛さんのローズウッドのリングやネックレス(左)。つい装身具には金属の輝きを求めてしまうが、これには無垢の木から削り出した繊細なフォルムが見える。使う人のセンスも要求される。岡本順子さん「僕の夢の中の雲」。作家さんは女性らしいが「僕」という。ふつうは明るく軽い「夢」や「雲」のイメージと対置するような黒いどっしりとした塊には、どのような意図が含まれているのか。タイトルは韻「の」を踏んでいる(右・手前)。朝比奈賢さんの「さなぎ」はブロンズの小品(右・中)。幼虫でもない成虫でもない「さなぎ」に自らを例えているのか。柏木照之さんの「上へ、上へ」は、まだこれから積み上げていく作品。作品のなかに「のびゆく予感」をおのずから包含する(右・後)。
■作品と事務用品とが混然として美術館空間
田勝也さんの「帽子掛け」は自然木を帽子掛けに見立てた作品(左)。落書きみたいな塗りが「作品」としての価値を添える。自然食レストランの入り口に似合うかもしれないと思いつつ。白い壁には空間を生かして小品が子気味よく配置されている。すどう美術館の事務スペースはギャラリーの一角にある。雑然(?)とした事務用品と同居して作品が並ぶ。お茶をいただいたテーブルにもさりげなく作品のお皿がある。何の気なしに置いた普段使いの茶碗と岡野里香さんの作品「皿」が一体として作品になった。
■どこかの惑星を思わせる光と影
画廊2階には、波打つ光と闇が織りなすインスタレーション(左)。波打つ砕片がどこかの惑星の岩を思わせる。バックのスクリーンにプロジェクターの光で自分(鑑賞者)の影が映る。吉部祐子さん「無題」は、作品の下部に窓枠様の出っ張りがあり「窓」の風景と見立てさせてもらった(右上)。小棚の上は部屋のなか(内なるもの)、窓ガラスに張り付いたガラクタ(外から入り込もうとする何者か)、窓の外の茫洋とした空間(まだ見ぬ世界)ではないか。その下に、志村のどかさんの「こくーん」が後ろ手をついて窓を見上げている(右下)。コクーンとは繭のこと。赤い頭と細長い手のアンバランスが不気味でもありユーモラスでもある。すこし前に「コクーン」というSF映画があったのを思い出した。
「小田原もあ展」は、市民と市が一体となり「小田原スタイル」を確立し、街の活力向上を目指す「無尽蔵プロジェクト」。その推進テーマのひとつが「ものづくりデザインアート」の活動だ。今年2015年は「すどう美術館」で9月29日から10月11まで開催となった。出展されている作品からは、いわゆる伝統工芸でもなく現代工芸でもない、若者らしいデザインへの挑戦が伝わってくる。なお、すどう美術館では11月に、国内外の作家が連日の創作の場とする「アーティスト・イン・レジデンス」が企画されている。 (ゆきぐま記)
小田原もあ展 三次元の蟻は垣根を超えるVol.4 のびゆく予感
会期 2015年9月29日(火)-10月11日(日) 終了
会場 すどう美術館 小田原市堀之内373 0465-36-0740
主催 ものづくりデザインアート 後援 小田原市

2015/10/23 10:42 | 美術

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