小田原市

市長の日記

2013相馬・双葉地方ほか被災地訪問記

 東日本大震災発生から2年と5ヶ月が経過しようとしている。被災地は現在もなお復興へ向けての努力の只中にあり、また放射能汚染による深い苦悩にあえいでいる。小田原市では、震災発生直後から様々な支援活動を行っているが、昨年度より交流のある被災自治体へ市職員を派遣してきた。今年度は、4月から1年間の職員派遣を相馬市および多賀城市へ、7月から3ヶ月の派遣を宮古市へ行っている。相馬市から、昨年に引き続き「野馬追」観覧のご招待を頂いた機会を捉え、3名の職員への激励を行うと共に、それぞれの被災地がその後どのような状況にあるのか視察するべく、このたび被災地を訪問した。

7月28日(相馬市・南相馬市・浪江町)

 

 長い伝統をもつ「相馬野馬追」は、27日から始まっており、28日は最大のイベントである甲冑競馬と神旗争奪戦が、南相馬市の雲雀ヶ原にて行われた。正午からの開始に間に合うよう、朝一番の新幹線に乗り、福島へ。福島から南相馬へは、一般道を走る高速バスで、約1時間半。

 途中、全村避難が続いている飯舘村を抜けていく。かつて、村民が手塩にかけて丹精してきた美田が連なっていた飯舘の景色は、いまや一変。どこが田畑か判らないほど、丈の高い草々が生い茂ってしまった。ところどころ、除染作業が行われており、表土を剥ぎ取った状態の水田が見える。全村避難のため、除染等に携わる事業者以外、村の中に人影はなく、人家や商店に気配はない。


 

 峠を幾つか越え、南相馬市に入る。南相馬市では、放射能汚染のため、いまだに農地への作付けは行われておらず、田畑に作物が育つ景色はない。東電からの補償により、水田ならば1反あたり7万円が支給されるそうで、通常の米作りを行って得られる利益に近い金額は何とか確保されているらしい。田畑は放置されているわけではなく、草刈や耕運は一定頻度で行われているようだ。

 野馬追の会場は昨年同様、ものすごい観衆の数。昨年は酷暑で大変だったが、今年はうす曇でしのぎやすい。各地からの首長さんやゲストの皆さんと一緒に、観覧席から甲冑競馬に声援を送る。騎馬の数は、全盛期の約600騎には届かず、昨年より少し増えて430騎ほどらしい。やはり、かつての主力だった南相馬・小高地区などが、いまだに避難区域となっており、馬を出せる状態にないためだ。


 

 野馬追の観覧を途中で切り上げ、NPO法人相馬はらがま朝市クラブの高橋代表と合流、南相馬の小高地区へ。小高地区は、昨年4月に警戒区域指定が解除になり、片付けなどで出入りすることができるようになったが、宿泊は許されておらず、依然として誰もいない町のままになっている。昨年の野馬追の際に訪ね、ゴーストタウンさながらの様子に愕然とした記憶がある。今、この小高地区において、何とか人のつながりを取り戻し、やがて住民が帰って来れる日に備えてコミュニケーションを育てていこうと、NPO法人「浮船の里」という活動がスタートしている。ここをお訪ねし、お話を伺うと共に、許可証がないと立ち入れない浪江町などをご案内いただく。


 

 「浮船の里」は、小高地区に住まいを持つ女性ら数人で立ち上げたNPOであり、代表を務める久米さんのご主人が経営する会社の倉庫の一角を、「あすなろ広場」として開放、コミュニケーションの拠点にされている。この拠点に、人が集まる上で必要なベンチやテーブルがなかったことから、報徳の森プロジェクトチームが、小田原の木で作ったテーブルとベンチを寄贈することになった。27日から現地入りしていた鶴井材木店の鶴井さんご夫妻や小田原市民のみなさんを交え、改めて「寄贈式」が行われ、久米さんから小田原の皆さんに感謝状が贈られた。


 

 車に分乗し、国道6号を南下する。途中、かつて耕作されていた田園で、伸び放題になっている雑草が茶色く変色している地帯が続く。話を伺うと、雑草を抑えるために、ヘリコプターで除草剤を散布したとのこと。やがて、昨年は立ち入ることができなかったゲート箇所を通過、浪江町へ入る。


 

 ここから先は、震災発生直後の状態が、ほとんどそのままになっている。揺れで倒壊した家屋や塀はそのままであり、海岸線に近づくと船や車、瓦礫類が、今は背の高い草が生い茂る中にそのまま埋もれている。海岸線に近い住宅密集地であった請戸地区は、まさに時間が止まっており、津波を受けた直後の状況のままだ。


 

 浪江町の中心部は、まったく人気(ひとけ)がなく、全半壊の商店、散らかったままの店内商品、コンビニの中の陳列棚にはおにぎりやお弁当など、全てがそのまま。空間線量は、浪江町駅付近で毎時1.8マイクロシーベルトくらい。更に西へ向かっていくとどんどん高くなり、町外れのコンビニでは、草むらで10近い数値が出ていた。すでに2年半近くが経過してなお、この状態。ここに住民が戻ってくる日があるのだろうか。住民が全国各地に分散避難し、その全容がつかめていないと、以前お会いした浪江町の馬場町長は苦悩されていた。町の再生は、まだその端緒にすらついていない。


 

 浪江町を出るところで、「スクリーニング」検査を受ける。被爆のチェックだ。全身に測定器が当てられ、入念に数値が確認される。同行者全員、問題はなかったが、仮にここで許容値以上の数値が出ると、「除染」ということで、シャワーや着替えを余儀なくされるらしい。


 

 南相馬にもどり、「浮船の里」代表の久米さんの住宅がある小高地区へ。昨年7月に入ったときは、警戒区域解除から間もない段階で、今の浪江町のように、地震発生後時間が止まっているかのようだったが、今回訪ねてみて、宿泊こそできないものの、住民の皆さんがだいぶ手を入れて、片づけが着々と進んでいると感じた。小高駅からのメインストリートは、瓦礫のたぐいはほとんどなく、住民の方が植えたらしいプランターの花などが、人気(ひとけ)のない通りに生気を添えていた。


 

 しかし、久米さんのご自宅で拝見したのは、草が伸び放題になった庭と、親しかったご近所がみんな全国各地へバラバラに避難し、今となっては連絡も取れない、荒れつつある住宅街の様子だった。「これが現実」と言う久米さんの心を塞いでいる、現実の厳しさに言葉を失う。


 

 相馬市に戻り、訪れるたびに様子を見てきた沿岸部の被災エリアに車を回してもらう。集落が津波で壊滅した磯部地区に繋がる程田地区では、海水が押し寄せた田園で稲や野菜が作付けされており、着実に復旧作業が進められたことが窺える。岩子地区に向かう一直線の道路では、被災直後は海水に浸かり、海岸線からなぎ倒されてきた松の木や根が累々と打ち上げられて、ひどい状況だった。今は、道路の西側(山側)は豆類が植えられるなど農地として復原されつつあり、東側(海側)は作付けこそされていないものの、細かな瓦礫も人海戦術で拾い尽くされ、草刈や耕運がなされ、塩害が沈静化するのを待っている。


 

 海水浴場に面し家屋が密集していた原釜地区は、津波で残った住居の土台が累々と見えていた状況から、草が生えて土台が見えなくなりつつあった。以前、原釜を見下ろす高台に茂っていた樹木は伐採され、土工事が行われている。沿岸部から高台に移住するための住宅地造成が進んでいるのである。相馬では、津波で浸水したエリアは、原則として可住地ではなく工業用地とし、市民の住宅は高台へと移転していく計画で整備が進んでいる。


 

 その夜は、小田原からも市民レベルでの様々な支援をさせていただいた「報徳庵」にて、相馬の皆さんと交流会をさせていただいた。辛いことを話せばきりがないが、支援する側・支援される側の区別なく、こうして絆を深められていることを感謝し、交流を深めさせていただいた。4月より1年間の予定で小田原から派遣し、現在市内の道路復旧事業などを手伝わせて頂いている若手職員の西尾君も、すっかり相馬の皆さんと打ち解け、可愛がっていただいているようだ。


7月29日(多賀城市)

 

 早朝は、東北地方沿岸部の夏に特有の「やませ」による濃霧。相馬市の職員さんに、仙台方面への常磐線で鉄道が動いている亘理駅まで送って頂く。道中、災害復旧と新たな地域振興を目的に建設中のサッカーグラウンドなどを視察。かつて多くの観光客で賑わった松川浦の観光産業が、海水の放射能汚染、それに伴う水産業の低迷などから、観光業として成り立たなくなっており、市外からの来訪者をどうやって確保するか、たいへん苦慮されている。その一助になればと、スポーツによる地域振興が目指されているのである。


 

 

 国道6号にそって北上。宮城県に入ると、がぜんトラックやダンプなどの交通量が増える。復興に向けた土木建設事業が大きく動いている様子がヒシヒシと感じられる。原発事故の影響で工事が滞っていた常磐道の延伸は、相馬と仙台を結ぶ路線の整備が着々と進んでおり、来年度には南相馬から仙台までは開通するようだ。一方、鉄道はまだ数年がかかる見込み。

 常磐線、仙石線を乗り継いで、お昼前には多賀城市へ到着。午後一番で市役所を訪問。全国史跡整備市町村協議会(全史協)を通じて昵懇にさせていただいている多賀城市へは、災害発生後に小田原からもトラックで市民の皆さんから集められた救援物資などを届けたほか、津波で浸水被害を受けた各種文化財の保存作業などに文化財課職員を派遣、現在は4月から若手職員を1名、1年間の予定で派遣中。まずは、多賀城市庁舎に菊地健次郎市長をお訪ねし再会。その後、建設部市街地整備課長の根元さん、教育委員会事務局文化財課長の加藤さんに、市内の様子をご案内頂いた。


 市域の中央を流れる砂押川を境に、南側が海抜の低い地域、北側が丘陵地帯となっており、この川が津波被害の境界線となっている。南側は、仙台港に繋がる工場地帯と住宅街が展開しているが、ここが軒並み浸水。多賀城市では188名の方が津波の犠牲になられている。市街地には空き地となった場所も多く、また少なからぬ住宅が新たに建て直されたようで、新築物件が多い。

 

 多賀城市では、瓦礫類の処理は比較的早く進められ、すでにほぼ完了している。仮設住宅にはまだ千件以上の世帯が入居されており、市では公営住宅の建設などが本格化しつつある。一方、津波被害で地区内のほとんどの住居が全壊となった宮内地区では、現地でのコミュニティ再建に向け、区画整理事業などが検討されている。


 

 小田原市から派遣している中道君はこの事業を担当させて頂いており、地権者への丹念な説明と意見交換、プランの構築など、今後いくつものプロセスを丁寧に手がけねばならない、大事な役回り。こうした仕事をさせていただけるのは、小田原にとっても大変貴重なこと。各地で、復興街づくりの取り組みが、住民間の合意形成などの難しさからなかなか捗っていない状況にある中、この地区の取り組みは国からも注目をされているようで、ぜひとも成功させてほしいと思う。


 

 多賀城市には現在、全国各地から30名を超える自治体職員が応援に入っている。津波によって被害を受けた箇所の復旧、区画整理、護岸改修、下水道施設復旧など、震災により生じた土木建設および都市政策の分野に加え、40年来の課題である仙石線多賀城駅周辺の再開発事業や、特別史跡である多賀城跡整備など、いくつもの課題に対し取り組みが進められている。菊地健次郎市長をはじめ、副市長、総務部長、建設部次長、教育長ほか課長さんたちともいろいろ情報交換をさせていただいた。菊地市長からは、「震災を通じた多賀城での経験が、小田原での備えに役に立つなら、いつでも声をかけてほしい」とのお言葉を頂いた。


 

 なお、今回の訪問の中では、私にとっての初めての多賀城訪問ということもあり、国の特別史跡である多賀城跡なども丁寧にご案内頂いた。大和朝廷が現在の東北地方を治めるために設置した多賀城は、東北地方一帯を視野に入れて兵などを展開するための極めて重要な拠点であり、その政庁がこの多賀城市に据えられた。現在、政庁跡は広大な城跡区画の中できれいに表面表示などが施され、仙台平野を見下ろす小高い丘の上で、豊かな緑に囲まれて静かな佇まいを見せている。また、この一角にある「壺の碑(いしぶみ)」など、古くからの歌枕に読まれた場所が市内に数か所あり、古より名跡であった風情が今もなお伝わっている。


7月30日(宮古市)

 朝から雨の降る中、通勤時間帯と重なった仙石線に乗り込み、仙台へ。東北新幹線で盛岡までは近いが、そこから宮古へは、バスで約2時間の道程。自治体としては、盛岡市のすぐ隣が宮古市だが、数年前の大合併で山間部の多い川井村などと一体となり、市域面積約1300km2という広大な市となったため、宮古市に入ってから宮古駅までの区間がとても長い。濃密な緑と、水量豊かな閉伊川流域の渓谷を眺めつつ、宮古駅に到着したのは正午過ぎ。

 宮古に滞在できる時間は、午後3時半頃まで。限られた時間の中で、被災状況及び復興への取り組み視察、市長の表敬訪問や派遣職員の激励などを行うという、タイトなスケジュール。早速、総務省から派遣されている副市長の名越さん、総務企画部長の坂下さん、総務課長の山根さんに御案内頂き、まずは市内各所の被災現場へ。

 

 宮古市を襲った津波の映像として、テレビでも頻繁に放映されたのは、宮古市役所の眼前に流れる閉伊川河口沿いの堤防を真っ黒な津波がごうごうと乗り越えていく場面。あの日はちょうど市議会の開会日だったそうで、津波警報が出た段階で議会を閉会、市長をはじめ多くの職員や議員は庁舎に詰めていたそうだ。最初は、3mの津波との予測だったが、それを上回る規模になりそうだとの情報で、庁舎の3階あるいは4階へ。したがって、津波が市街地に流れ込む悪夢のような光景の一部始終を、皆さんは庁舎から目撃していたとのこと。

 津波が流れ込んだ中心市街地は、広範囲に浸水。多賀城と同じようにところどころが更地になっており、被害に遭って取り壊しになった物件の多さを物語っている。


 

 市役所からほど近いところにある、宮古市の水産業の拠点である宮古漁港および魚市場も激しく被災。古い魚市場の建屋は既に撤去され、広大な更地が次の施設の建設を待っている状態。


 

 隣接する鍬ヶ崎集落は、山手を背負っているため住民の多くが避難、犠牲者の数こそ少なくて済んだようだが、密集していた住宅や水産関係の事務所・店舗、工場などは、軒並み全壊。土台だけを残し、雑草が生い茂る原野の状態となっている。


 

 この地区では、水産業の一大拠点でもあることから、水産加工施設・商業施設・住宅地などを包含した大掛かりな区画整理事業の構想が進んでいる。現在様々な調整を行っており、順調にいけば今年度中には構想が確定、順次まちの再建に向かう予定だ。沿岸には、高さ10m級の護岸堤防建設が検討されている。


 

 

 漁港エリアから一山越えると、有名な景勝地である浄土ヶ浜。ここには、数年前に家族旅行の道中で訪ね、私も子どもたちと一緒に泳いだところで、震災で被害を受けたことを案じていた。訪問した日は7月30日、本来なら夏休みで多くの家族連れなどが押しかけている筈だが、「やませ」の影響や、まだ明けていない梅雨のためか、観光バスなどで訪れる観光客はいるものの、海水浴客はごく僅か。


 

 浄土ヶ浜の景色に大きな変化はないようだが、護岸にあった遊歩道が破壊されており、代わって、護岸をコンクリートで固めた上に新たな歩道が設置されていた。津波で躯体以外を破壊された観光施設は、その後復旧されているが、見上げると地盤から6m以上の高さのところに、津波到達ラインが記されている。


 

 

 そこから、田老地区へ。過去に繰り返された津波被災経験を踏まえ、地区を取り囲む長大かつ堅固な大防潮堤を築いていた地区だ。ここも度々報道されたように、その防潮堤はあえなく津波に破壊され、あるいは乗り越えられて、防潮堤の存在によって安心していた、もしくは防潮堤があったために津波の襲来を視認できなかった多くの住民が犠牲になった地区でもある。


 防潮堤は実際、見上げるほどの大きなものだった。これを乗り越え、かつ破壊した津波の威力・・・。それを想像する上で、現場に立つことの意義は大きい。防潮堤には、複数の見学者の団体が来られており、宮古市の観光協会のボランティアスタッフの皆さんが詳しく説明をされていた。防潮堤の外側には、仮設の水産加工施設などが建てられている。防潮堤の内側は、かつての住宅街であるが、土台だけを残して雑草が生い茂り、被害の痕跡はむしろ見えにくくなっている。今はだいぶ減ったが、ここにはものすごい量の瓦礫が積み上げられていたそうだ。

 

 

 

 


 

 その一角に、1~2階を津波で打ち抜かれたまま、今も立ち続けている、6階建ての建築物がある。「たろう観光ホテル」だ。津波襲来のその時、ホテルの社長は6階に上がり、そこから湾内に来るであろう津波の様子を撮ろうと、ビデオカメラを回していた。現在、その映像を、見学および学習に来た団体だけに、このホテルの6階のもと客間で見せている。私は、ぜひその映像を見たいと思い、丁度戻ってこられたスタッフの元田さんという女性に依頼、無理をお願いして見せて頂いた。


  

 第1波は、3mくらいだろか、海水の水位が上がる形でやってきた。そこまでは住民の皆さんも想定したところだろう。その次の瞬間、湾口から波頭を立て、ものすごい高さを持って津波が押し寄せてきた。しかも速い!津波は、湾口正面に陣取る長大な第2防潮堤に一度はぶつかり遮られるが、そこからの反射波が、ホテルが位置する第1防潮堤へと向かい、津波本体と合流して一気に堤を破壊、あっという間に住宅や事務所を呑み込む。波がホテルにぶつかった衝撃で、カメラを持つ社長も倒れたようで、映像がしばらく乱れる。その後、渦巻く濁流となった津波は嵩をさらに上げ、地区を守る防潮堤を乗り越えて、多くの住宅や住民を巻き込んで行ったようだ。マスコミ等には流されていないこの映像には、私もショックを受けた。と同時に、人間の技術で抑え込むことなど到底できない、大津波のエネルギーの凄まじさを見せつけられ、言葉を失った。


 

 田老地区は、太平洋沿岸から少し入ったところにある入り江に面していて、ここだけが特別に湾口が狭く、津波の高さを押し上げる原因になっているとも思えない。海底の地形が関係しているのではと言われている。それにしても、あれだけの高さの、あれだけの速さの津波が、実際にあったとは。この貴重な映像と、被災したままの建物を防災学習の場として提供されている、たろう観光ホテルの社長さんに敬意を表すると共に、多くの方にこの地が経験した被災の実際を学んで頂きたいと思う。


 

 なお、田老地区でも全体的な区画整理事業の構想が進んでおり、ホテルの裏側に位置する山林を切り拓いて、新たな住宅用地を確保する事業が既に始まっている。やはり、防潮堤の外側には水産関係の諸施設、内側には商業機能、さらに山側に住宅機能を配置、地区を貫いている国道も山側に寄せつつ盛り土をしてかさ上げし、港湾部に設置される護岸堤防、そして既存の防潮堤と併せ、3重の守りを構築する構想だ。まだ数年はかかるだろう。


 

 田老地区で被災した住民の多くが避難生活を送るのが、さらに北部にある「グリーンピア」という施設。小田原にあったスパウザを雇用能力開発機構が設置したのと同じように、年金資金運用基金がかつて設置した労働者向けの広大な保養施設で、やはり国から宮古市が購入していた場所。この広大な敷地内にある駐車場、グラウンドなどを埋め尽くすかのように、仮設住宅と仮設商店街が建てられている。実は、山本市長のご自宅と歯科医院(市長はもと歯科医)も田老地区にあって全壊、今はこのグリーンピア内の仮設に住んでおられるそうだ。歯科医院も、プレハブでこのエリア内に仮設されている。仮設住宅の用地をどこに見込むか、さらにはその後に必要になる公営住宅などの新たな建設用地をどう確保するのか。今回、平地のすくない三陸沿岸部では、このことにたいへん苦労をされている。小田原でも、今からしっかりとした想定をしておかねばならない課題だ。


 

 残された時間で、市役所を訪問。山本市長、山口副市長ほか、教育長をはじめ幹部職員の皆さんに御挨拶をさせて頂くことができた。市の教育委員長を経て市長に就任された山本市長は、直後に東日本大震災に遭遇、ご自身の被災という過酷な状況ながらも精力的に陣頭指揮を執られ、先般無投票で2期目に入られている。「何とか、この任期の中で復興への歩みを確かなものにしたい」と、力強くおっしゃっておられた。ご家族は仮設住宅、ご自身も役所のそばに借りたアパートでの暮らしと行ったり来たりだそうで、ご苦労はいかばかりかと思う。


 

 小田原から派遣している土屋君も同席、少し日焼けが進んだ元気な顔を見せてくれた。小田原市で文化財課の学芸員である彼の宮古での仕事は、復興に伴い発生する新たな住宅用地の確保に必ず伴う、発掘事業とその文化財保護および記録。三陸地方の高台には、縄文の時代からの暮らしの痕跡が至る所に眠っており、国指定史跡となった貝塚も市内には存在する。この膨大な作業を支えるため、文化庁から協力要請があり、小田原市からも派遣の意思を伝えていたところ、宮古市への派遣が決まったという経緯だ。7月から9月までの3か月と言う短期間のため、土屋君は市街地にあるホテルで寝泊まりをしているが、皆さんに可愛がっていただいているようで、すでに宮古への愛着が生まれているようだ。

 宮古からは、JR東日本の山田線で盛岡へ戻り、東北新幹線に飛び乗って、小田原に帰着したのは21:30過ぎ。中身の濃い3日間だった。


総 括

 福島の原発周辺を除いて、東日本大震災による被害、特に津波による沿岸部の壊滅的な状況に関しては、既に片づけが終わり、瓦礫の処理も終盤に入っている。海水に浸かった田園の耕地整理や除塩、作付けの再開も始まっている。一方、震災で住居を失った人たちは依然としてその多くが仮設住宅に住み続けており、本格的な「街」の再建につながる作業は、区画整理事業の計画段階での調整に時間を要している状況のようだ。

 福島の原発周辺および高線量地域については、残念ながら課題はほとんど解決していない。宿泊を伴わない出入りができるようになったエリアは、本格的な帰還を目標に少しずつ住民の皆さんの力が注がれつつあるが、それでもその道のりはまだ険しい、というのが率直な実感だ。放棄された農地の荒廃、人が住まなくなった町の荒涼と同様に、元の生活や仕事に戻れる見込みの立たない住民の皆さん方の心の中に、底の知れない荒み(すさみ)が広がっていくのではないか・・・そう危惧せざるを得ない。

 復興まちづくりが具体的に動いている地域へは、引き続き人的支援などを継続し、その歩みを一日も早く進めていく方向で支援をしていきたい。一方、放射能の影響が何時まで続くか分からない地域へは、もはや心が折れてしまった住民の人たちを、何とか支えるためのソフト面の支援が必要だ。「相馬はらがま朝市クラブ」や「浮船の里」のように、自力で立ち上がり、町を守っていこうとする、ささやかな立ち上がりを、私たちは民と官の区別なく、可能な形で支えていく必要がある。

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