小田原市

市長の日記

 
 

2016 相馬・双葉地方訪問記

 平成28年7月23日から25日の日程で、東日本大震災で被災した福島県の相馬・双葉地方を訪ねた。報徳のご縁により震災以降ささやかながら支援活動を継続している関係で、この地方の最大のイベントである野馬追に、相馬市から毎年お招きをいただいている。既に何度か伺っているので、野馬追を観覧するためだけに訪問することはなかったのだが、今回は幾つかの理由があって訪問をさせて頂いた。
 ひとつには、浪江町に派遣している職員をこの春に交代させているので、彼の激励をしておきたいということがある。が、それ以上に、南相馬市が7月からほぼ全域で避難指示解除となったこと、飯舘村ではこの7月から村役場に役所機能が復帰し来年3月にほぼ全域の避難指示解除が決まったこと、また浪江町でも来年3月には居住制限区域までが避難指示解除になる見通しとなっていることなど、放射能汚染により復興への足取りが遅れていた、報徳ゆかりの各市町村が、それぞれ新たな復興フェーズに入ってきたことから、その様子と課題などを伺うべく、各首長を訪ねることとしたものである。
 以下に、3日間の行程と、各地での所感、被災地の様子、首長や住民の皆さんの様子などの概略を記すこととする。

7月23日

 

  朝小田原を出発、常磐道を経ていわき市へ。以前から気になっていたものの訪問する機会のなかった、いわき市の文化施設「アリオス」を、相馬への道中という機会を捉え見学。以前、民間教育団体の事務局の時代には子どもたちを連れて度々いわき山中にあった知人の活動拠点を訪れたことがあるが、当時常磐道は「いわき中央」止まりであり、また昨年の常磐道全線開通以後も走ったことはなく、いわき以北の常磐道は初めて。


大熊

 

 北上し、途中四倉のパーキングで放射線の線量情報を確認。大熊~双葉あたりが最も高く、毎時4.0マイクロシーベルトの表示。大熊町の手前、「常磐富岡」ICにて一般道へ。富岡町内を通り国道6号へ通じる県道沿いには、線量が高いため立ち入り制限されている区域が広がっている。


 

 6号に出て北上すると、ほどなく大熊町に。町域の95%が帰還困難区域に指定され、原発事故直後から全町が会津若松市に避難。渡辺利綱町長の重い決断で、町域の一部が、除染などで発生した膨大な廃棄物などの中間貯蔵施設として位置づけられることになったエリア。国道沿いに多くの住宅や民有地が連なっているが、あらゆる道路や敷地への入り口は金属製のゲートで封鎖され、国道以外には一切立ち入れないようになっている。


 

 車窓から見通せる農地などは、ことごとく5年間の歳月のなかで伸びた草や潅木で覆われ、もとの状態を窺い知ることはできない。


浪江~南相馬

 

 ほぼ同じ状況にある双葉町を過ぎ、浪江町へ。このあたりから、国道沿いの帰還困難区域はなくなり、居住制限区域に変わっているため、物々しい封鎖はなくなっている。以前浪江町の職員さんにご案内頂いた、港や学校などのあった請戸地区へ向かう。国道から海岸へ向かう道路は、2~3年前までは崩れたブロック塀や瓦礫などがまだ散乱しているところがあったが、すっかりきれいに片付けられている。


 

  住宅街を抜け、請戸に繋がる田園地帯も、かつて津波で打ち上げられていた多数の漁船などがそのままになっていたが、片付けられていた。 
  多くの住宅が密集していた請戸集落も、以前は瓦礫類がそのままだったが、ほぼ撤去が済んでいる。地域の中心的存在だった請戸小学校は、前回までは校庭に町内からの災害廃棄物がうずたかく積まれていたものが、すっかり片付けられている。小学校の校舎だけが、ぽつんと残っていた。


 

 浪江を抜け、南相馬市のエリアへ。沿道の広々とした農地跡には、除染作業で発生した汚染土などを詰め込んだフレコンバッグ(黒い袋)が累々と積み上げられ、その周囲が鋼板などで遮蔽されている。この風景が被災地の至る所にあり、復興へ作業が進んでいることを示している反面、この全量撤去・処分にまだ長い時間と費用がかかることも、避けがたい現実として示している。


野馬追レセプション

 

 翌日以降に南相馬や浪江の現状を詳しく見ることとし、この日は南相馬インターから常磐道に乗って相馬市へ。夕刻に同市内で開催された、野馬追開催に伴う招待者らの歓迎レセプションに参加させていただいた。相馬市とゆかりのある、そして震災以降様々な形で相馬市の復興を支援してきた諸団体や個人、そして地元の政財界の皆さんなど、総勢180人ほどで賑やかに開催。侍大将といった装束に身を包んだ立谷秀清・相馬市長の人脈の広さと、多くの人たちが復興を支えてきたことが、賑やかな交流を通じ改めて感じられた。西湘海岸の国直轄工事開始でお世話になった前国土交通大臣の太田昭宏さん、今回の熊本地震で大きな被害の出ている熊本県高森町の草村町長さん、国土交通省で技監を務められていた足立さん、星槎学園副学長の細田満和子さん、報徳のご縁で相馬市に職員を派遣している日光市の斎藤市長さんなど、多くの皆さんと情報交換のできた、貴重な一夜となった。


7月24日

 朝起きてみると、霧のような雨が降っている。東日本の太平洋岸特有の「やませ」のようで、気温もめっきり涼しい。これまで相馬の野馬追といえば、酷暑の中で行われるものだったので、涼しいのは嬉しいのだが何か物足りない感じも。

相馬~沿岸部

 

 早めに朝食を済ませ、午前中に相馬市内の復興状況を一回り見させていただいた。
 まずは、相馬きっての景勝地で漁業の拠点でもある松川浦へ。発災後の4月に訪れたときは、この沿岸部はズタズタで、漁船が打ち上げられ、津波で破壊された様々なものが道路を塞ぎ、泥で道も建物もひどい状態だった場所だが、道路は路肩の再建も含めすっかりきれいになっているほか、沿道の商店や事業所、倉庫なども、被災のあったことを感じさせないくらいにきれいになっている。


 

 入り江の入り口にかかる松川浦大橋はまだ通行ができないが、着々と復旧工事が進んでいるようだ。


 大橋をくぐり、相馬港に行くと、臨港道路や護岸はもとより、水産市場、各種倉庫、管理棟などの各建屋は一新され、外装にはナマコ壁風の意匠も施され、見違えるようである。水産業そのものが本格的に復旧すれば、たいへんな機能を備えた水産拠点として蘇ることだろう。
        

       

    

 多くの命が失われた原釜地区も、様相は一変していた。道路を挟んで砂浜と地続きだったため津波の被害を直接に受けたかつての集落エリアは、全体が5m以上かさ上げされ、造成工事が着々と進んでいる。前回の訪問時にはまだ集落の基礎が残っているのが見えたが、今回はまったく新たな空間として生まれようとしていた。市の復興計画では、この一体は住宅地としてではなく、事業所用地として計画していると記憶している。
   
  

  

 かつて、津波の直撃で大破したまま残っていた食堂と、幹がなぎ倒され無残な姿だった松並木があった場所は、すっかりきれいに整えられ、原釜地区で命を落とされた皆さんの慰霊碑と、被災の記憶をとどめるための施設が建てられていた。慰霊碑の裏面には、立谷市長による建立碑文が刻まれ、痛恨と無念の思い、それを刻んで復興に向かわんとする決意が伝わってきた。
 


 

 発災直後に訪れたときは、津波が押し寄せ、瓦礫や漁船、泥が混濁し、手の付けられなかった広大な農地には、大規模な太陽光発電設備が敷設されていた。ここ以外にも、津波による塩害や、災害廃棄物・ゴミなどの混濁がひどく、低地であることによる津波被害の恐れが今後もあるような場所には、太陽光発電が積極的に設置されており、その発電規模は一ヵ所あたり数十メガと、桁違いである。


 岩子(いわのこ)から磯辺にかけての広大な田園地帯には、松川浦など沿岸部から打ち上げられ流されてきた松の幹や根、津波で押し流されてきた様々なもの、そして海水がしばらく入り込んでおり、農地としての復旧ができるのだろうかと心配していたが、年々コツコツと廃棄物やゴミ類の撤去、塩害対策、耕地整理などが行われてきたようで、見事に水田や大豆畑として蘇っている。
  
  

 

 沿岸部の集落が甚大な被害を受けた磯辺地区は、道路整備が完了し、かつての海沿いの集落と田園地帯には見渡す限りの太陽光発電施設が設置されており、その規模はまだ拡張中である。全体として、かなりの量のエネルギーを生み出し、地域のエネルギー自給に大きな貢献を果たすと思われる。
 


 相馬市から南相馬市へと入ってくると、様子は少し変わる。放射線量の問題があり、塩害対策やゴミ処理なども含めた耕作地の復原作業が後れてきたことに加え、津波の被害を受けていないところでも、農作物に対する放射能の影響への配慮から作付け自体が見合わされているため、稲穂が青々と茂っている相馬市内とは田園の風景が異なっているのである。それでも、多くの農地では草を伸び放題にしていることはなく、草を刈り、年に何度かはトラクターで耕しながら、作付けの頃合いを見極めていると思われる。場所によっては、水稲や大豆系などの実証的な作付けも散見されるので、営農の復旧は時間の問題と思われる。
 
 

南相馬・小高区 あすなろ交流広場

 

 6号線に出て、南相馬市の南部・小高(おだか)区へ。ここに、今回訪問したいと考えているお二人の活動拠点がある。まずはそのひとつ、「あすなろ交流広場」の久米静香さんを訪ねた。


 久米さんは、もともと小高にて暮らしていた方で、震災発生後は小高区が居住制限区域に指定されたため、しばらくは相馬市内の仮設住宅にて家族と暮らしていた。その後、住み慣れた小高の復興を何とか進めたいと、建材業などを営むご主人の仕事場でもある事業所の一角を借りて、誰もが気軽に立ち寄ることのできる復興活動拠点「あすなろ交流広場」を立ち上げた。その後、各方面の支援を受けて活動を次第に充実させ、現在はNPO法人「浮船(うきふね)の里」を設立、理事長として小高を拠点に地道な活動をされている。
 久米さんが着目しているのは、もともと相馬地方の地場産業であった絹織物。桑の木を育て、蚕を飼い、繭から糸を紡いで、様々な品を作る。このプロセスには、様々な人たちが関わることができるから、それによって仕事をつくり、仲間を作り、コミュニティの再生につなげる。その最初の一歩を踏み出されているのである。
 

 すでに、事務所には織り機が4台ほど、心ある人から頂いたものも含め設置されている。仕事としてはまだ自立できる段階にないが、繭から糸を紡ぎだし、様々な自然の素材で糸を染めたりしながら、マフラーや敷物、あるいはアクセサリーなど、様々な品を作るべく、現在も日々作業に打ち込んでおられる。


 
 
 

  

 これまで、南相馬市の中でも放射線量の値が高い小高地区は、居住制限区域であったこともあり、北部の鹿島区や原町区に比べ、復興作業が大幅に遅れてきた。今回、7月12日に解除となって、いよいよ本格的な住民の帰還を始める条件が出揃ってくることになるが、お店もなく、人もいなければ、戻りたくても戻ることはできない。久米さんたちは、そんな小高の中で、住民たちが「戻ろう」と思えるような場や関係性を作ろうとされている。ご苦労が多いはずだが、笑顔を絶やさない久米さん。小田原からできる支援を、これからも続けていきたい。


野馬追 祭場地

 小高から、野馬追の甲冑競馬などが行われる、「雲雀ケ原」の祭場地へ。相変わらず、霧雨が降ったり止んだりだが、観覧席はビッシリ満員。相馬市の招待者用の観覧席から、甲冑競馬と神旗争奪戦の途中までを観覧。いつもなら、酷暑のるつぼのような中で団扇を手放すことができないのだが、今年は肌寒いくらいの涼風と小雨混じりの中での観覧。地元の皆さんも「こんなことは珍しい」と言われていた。争奪戦の中で落馬武者が救急車にて運ばれたようだが、全体としては大きな波乱もなく祭事が進行されたようである。祭典実行委員長を務める、南相馬市の桜井勝延市長ともガッチリ握手。この10月には報徳サミットが南相馬市を会場に行われることとなっており、再会を期して野馬追会場を後にする。
  
  

浪江

 前日にゆっくりと視察ができなかった浪江町の町内へ。立ち入りはできるものの、今なお居住制限区域となっている中心市街地は、やはり人の気配がなく、地震で大きく崩れかけた商店などがそのままのところも散見される。
 
 

 それでも、通り沿いなどはだいぶ片付いてきている。持参した線量計で中心部も含め何箇所で測定してみると、2年ほど前に訪れたときに比べれば、ずいぶんと低下している。来年3月を目処に居住制限区域が解除される見通しであり、そこまでに更なる除染や生活環境の整備が行われることだろう。
 市街地から西へ向かうと、沿道に広がる農地で除染作業が進められている様子が目に入る。浪江では、除染作業で発生した廃棄物のフレコンバッグを、地区単位でまとめて保管するようになっていて、各地の中でも比較的面積のまとまった、搬出の際に車両が出入りしやすい農地が、その用地に充てられている。翌日副町長から聞いた話では、一団の優良農地をそのように使って(占拠して)しまっているため、農業の復興をいざやろうとしたときの支障になるのではないかと、心配されていた。国の責任において、こうしたフレコンバッグも含めた廃棄物の保管場所を早く確保しなければ、農業の再開などに大きな支障となるだろう。
  
  

 

 それにしても、浪江も含めてこのあたりの農村地帯の、穏やかで美しく、伸びやかなロケーションはどうだろう。原発事故による汚染がなければ、実に豊かな、そして安らかな農村地帯であり続けたはずだ。数年間作付けされず、また耕されずに草の生い茂る、人の気配のない、静か過ぎる農村の一角に佇んでみると、喪ったことの大きさ・重さを感じずにはいられない。
 


小高区 ワーカーズベースほか

 浪江から、隣接する南相馬市・小高区へ戻る。つい最近、相馬~小高間で運転が再開された常磐線の小高駅前は、7月12日から避難指示が解除されたこともあり、また野馬追による帰省者や来訪者などの姿で、これまで私が訪ねたいずれの時よりも人の賑わいがあり、復興への気配と、それによる希望が感じられる。

  

 この駅前にコワーキングスペース「小高ワーカーズベース」を立ち上げ、小高の再生に尽力している、和田智行さんを訪ねた。小高出身の和田さんは震災前にはゲームソフトのプログラミングなどを手掛けるSEとして活躍されており、震災後もその仕事を続けながら、故郷である小高の再生を進めたいと、家族を会津若松に残し小高に通いつめ、働く場の創出、住民活動の立ち上げなどに、文字通り獅子奮迅の活動を展開してきた。数年前にお訪ねして以来、その後の活躍状況は報道等で伝わってきており、今回小高区が避難解除になることから、どのような展望と手ごたえを得ておられるのか、外部からどんな支援ができるのか、直接聴かせて頂こうと思いお訪ねしたものである。


 

 これまでに、空き店舗を活かした食堂「おだかのひるごはん」(現在は双葉食堂に衣替え済)、住民が戻ってきたときに欠かせない生活物資や食品を扱うコンビニ「東町エンガワ商店」、若い人たちの仕事場としてガラス工房「HARIOランプワークファクトリー小高」などを順次立ち上げ、前日にお訪ねした久米さんたちが取り組むシルク製品の商品開発などにも深く係わっている。現在は、縫製工場を営んでいた小高の実家で、既に戻っておられるご両親と一緒に暮らし、週末に会津若松のご家族のところへ戻る、といった生活パターンのようで、文字通り小高の再生に身も心も投じておられる。
 


 避難解除になり、住民の皆さんは一部戻り始めており、近くには鮮魚商や老舗寿司店が既に再開。
  
  

 
  

 

 相馬などで避難しつつ営業をされている菓子店など、何店かは近く再開するとのこと。駅からのメインストリート沿いには、商工会館、観光協会の事務所、コミュニティ拠点などがスペースを開いており、銀行のATMも稼働。小高駅には駅員が常駐、一日9本と本数は少ないものの、公共交通の再開も大きな意味を持つ。小中学校は来春に再開、商業と工業が学べる小高産業技術高校も来春から再開され、高校生が通うようになれば、街の様子は大きく変わるだろうと、和田さんは期待している。


 

 ワーカーズベースの隣には、震災で休業を余儀なくされていたものの、リフォームをされ営業を再開されている双葉屋旅館があり、和田さんに御案内頂いた。野馬追などのお客さんで、前日から大勢の宿泊客で忙しそうにされていたが、小田原からたくさんの支援を頂いていることへの感謝などをご夫妻で語ってくださった。近くのお宅が取り壊しになった際に、立派な欄間を処分するのはもったいないと、小田原の「報徳の森プロジェクト」の皆さんがそれを引き取り、小田原材を用いた大きな食堂用テーブルとして再生、双葉屋旅館さんに寄贈してくれた、とのこと。また近隣の観光案内所にも、小田原の木材がたくさん寄贈され、室内の壁面に活用されている。小田原の皆さんの支援活動に、皆さん深く感謝をされている。
 


 避難解除になって、住民が戻れる状況になったからこそ、ここから先の歩みがとても重要だと考える。小田原としては、こういった皆さんとのコミュニケーションを維持し、小高の今後の状況を把握しつつ、官民を問わずどのような支援が小高のためになっていくのか、和田さんたちとも情報を共有しながら、引き続き復興へとコミットしていきたいと思う。

火の祭

 この日は、古くから小高で行われていた「火の祭」という催事が、震災後初めて、実に6年ぶりに実施されるとのこと。ちょうどこの夜は南相馬に宿泊する予定だったので、会場に足を運ばせて頂いた。市街地近くを流れる川の対岸の街道沿いに、かつて歴史上の往還道だったことにちなんで無数の松明が灯され、並行して花火が打ち上げられる催事。夕刻から既にたくさんの人たちが堤防に腰かけ、駐車場は満杯、来客用に開かれていた露店もそれぞれ長蛇の列。さきほどお訪ねした和田さんもこの催事に深く係わっており、焼き鳥を焼いたりしながら忙しそう。そういえば、久米さんも、「明日は孫が久しぶりに来てくれるのよ!」と嬉しそうに語っておられた。
 小高の皆さんは、懐かしくも久しぶりのお祭、そして賑わいを、どれほど嬉しく受け止められたことだろう。たくさんの家族連れがまちを行き来する、この光景が、一日も早く日常となってほしいと、私も願わずにはいられなかった。
   
  

7月25日

 国道6号線のすぐ脇に新しくできたばかりのビジネスホテルに泊まり、朝を迎えた。除染作業や各種インフラの復旧作業などで、まだたくさんの建設業従事者が滞在するこの地域は、宿泊施設が足らず、こうした新たなビジネスホテルなどの需要がある。ホテル内にはランドリーなども設置され、長期逗留への対応が図られている。また、各建設事業者はそれぞれ独自に現地事務所敷地内に簡易宿舎を設置しているほか、被災地内の空き家などを一棟借りして作業員の宿舎に充てているケースも少なくない。
 この日は、ようやく朝から晴れ模様。朝食を早々に済ませ、3市町村へと向かう。飯舘村、浪江町役場のある二本松市、大熊町役場のある会津若松市を巡って、夕方までに小田原に戻る強行スケジュールである。

飯舘村 菅野村長

 内陸部で津波被害はなく、地震の揺れによる被害もさほどなかったものの、原発事故による放射能汚染で全域に避難指示が出された飯舘村。自然豊かな阿武隈山系の中、代々受け継がれてきた稲作・畑作・酪農・林業などが盛んで、美しい里山には人々が支え合って暮らす「までい」の村づくりが進められてきた。その故郷を離れることの辛さ、人が住まなくなり、汚染された大地で農業は再開できず、除染作業で長年培ってきた豊かな表土は剝ぎ取られ、故郷の情景は一変してしまった、その理不尽を受け入れざるを得ない苦しみは、想像を絶するものがある。今回、そんな中でも、菅野村長のリーダーシップによって帰還への歩みは着実に進められ、来年3月の避難解除、それに先立つ7月からの村役場の再開と、新たなステージへ大きな一歩を踏み出されている。
  
  

 

 これまで、飯舘村役場が避難していた福島市役所の飯野支所には3度ほどお訪ねしてきたが、飯舘村役場に伺うのは初めて。県道沿いの平坦な農村地帯から少し離れた、村の中心辺りに位置する高台の上に、各種福祉施設や運動施設などと合わせて総合的に整備された区画の中に、立派な村役場庁舎はあった。菅野村長、門馬副村長が、変わらぬ笑顔で迎えて下さった。


 

 来年3月の避難解除に向け、全村域で急ピッチに進めねばならない除染、大量に積み上げられた汚染土のフレコンバッグの移設、帰村にあたり必要となる住宅のリフォームや建て直しに必要な大工職の不足、村の子どもたちを幼小中一ヵ所にまとめて学ばせるための環境や施設づくり、営農再開に向けた各種作物の試験的栽培など、様々かつ深刻な課題を抱える菅野村長のご苦労とその心中は察するに余りあるが、それでも笑顔で、「こうなってしまったことを、嘆いていても仕方がないから、できることを考える」と明るくおっしゃられた。本拠に戻られた安ど感の中に、目前に迫る避難解除に向けまさに全精力を注ぐ気魄が感じられた。
 


浪江町 馬場町長

 

 

 浪江町の西側に隣接する二本松市の工業団地の一角に、浪江町の仮設庁舎が建設されている。こちらも、過去に2度ほどお訪ねしているが、今回は昨年まで2年間派遣していた職員と交代で、新しく派遣している職員の激励も兼ね、また来年3月に見込まれている居住制限区域までの避難解除による町民の帰還開始を控えた浪江町の現状と課題について、馬場町長をお訪ねしお話を聴かせて頂いた。


 原発事故による放射能汚染の状況の中、取るものも取りあえず数次にわたる避難を重ね、現在の二本松に拠点を定めた経過の中、多くの町民がそれぞれに避難をされ、町民の実に9割が全国に避難もしくは転居をされたとのこと。そのため、様々な情報の町民への伝達、町民意識の一体感の確保、帰還に向けた準備などがたいへん難しい状況に、浪江町は置かれてきた。それでも各地に点在している町民たちとのコミュニケーションを様々な形で継続され、また帰還後の産業に繋がるよう花卉(かき)栽培など農家の支援を拡大されたりと、採りうる策を積み上げて来られている。
 

 町域の半分以上、常磐道を挟んで西側は帰還困難区域となっており、3月に解除となるのは東側の市街地と農村地帯。現在も居住制限がされているため、浪江駅周辺は南相馬の小高区と比べても準備が遅れている状況にあり、来年3月に帰還開始ができるのか、馬場町長の心配は尽きないところだ。それでも職員に号令をかけ、急ピッチで帰還への動きを進めておられる。
 


 その後の町の産業としては、既に始めているハウスでの花卉栽培(今はトルコ桔梗など)などを重点的に進めたいとおっしゃっており、それらの販売にあたっては遠方でも協力できるだろうから、お手伝いできることがあれば遠慮なくおっしゃって頂きたいとお伝えした。

 職員派遣は継続するつもりであり、2代目として現地入りしてくれている榎本さんも、元気そうで何よりだった。この10月には、町政施行60周年の記念式典を予定されているそうで、それに向け、被害のひどかった請戸地区に慰霊の石碑を建立すべく、榎本さんも仕事を託されているとのこと。地元で石材業者がなかなか手配できないとのこと、困ることがあれば小田原方面にも支援要請を出すようにと伝えた。

大熊町 渡辺町長

  

 二本松を離れ、東北道から磐越道を経て、会津若松へ。原発事故直後、全町で会津若松市に避難され、同市内のかつての中学校校舎を仮設庁舎として使われ、以来5年が経過した大熊町。
 福島第一原発の立地町であり、町域の95%が帰還困難区域という過酷な状況にある。事故発生後、直ちに全町がまとまって避難、会津若松市の全面的な協力を得て、市内中心部に拠点を定め、小中学校もそこにまとめて移転開設するなど、避難先ながらもコミュニティのまとまりをできるだけ守りながら、帰還を目指してきた。しかし、故郷の厳しい現実の前に、避難先に転居し、子供たちは転校して、避難生活という状況にある町民、すなわち帰還を目指す町民の数は減り続けている。


 

 町域の大半で線量が高く、避難解除が難しいと見込まれる中、国の要請や、近隣自治体における除染作業の進捗と、その先に目指されるべき帰還の早期化の必要性などに鑑み、渡辺利綱町長は、ふるさとである町の一部を、いわゆる中間貯蔵施設の用地として使うことを受け入れる決断をされた。そして、原発事故で汚染された相馬双葉地域の復興を一日でも早く進めるための活動拠点や研究機能などを誘致し、そこに雇用を生み出して地域の復興に繋げたいとのお考えに立ち、たいへん難しいプロセスのかじ取りを進めようとされている。
 まずはエリアを絞って除染を徹底的に行い、避難指示が解除できるエリアを生み出し、町に人が戻り、そこで仕事ができる状況を作るという、当座の目的に向け、取り組んでおられるとのこと。大熊町全体の状況としては、短期間に全町で帰還ができるようになるのは難しいと思われるが、それでもこの状況を突破していく道筋が見出されつつあることは、大きなステップである。復興への局面が動く段階で、何か支援ができることはないか、引き続きコミュニケーションを取らせていただくつもりだ。
 帰りに旧校舎の玄関まで見送ってくださった町長は、「もう5年。こんなにここに長くいるとは思ってなかったんですが・・・」とのこと。「それにしても、全面的に協力いただいている会津若松市さんには、本当に感謝しています。」長期化する避難を支えている、受け入れ先の自治体の理解と献身的な支援なくしては、この厳しい期間を過ごすことはできなかったであろう。知るべきこと・学ぶべきことは、実に多岐にわたり、そして深い。


全般を通じて

 今回、震災から5年を経過した相馬双葉地方を改めてお訪ねする中で、時間の経過とともに、原発事故の影響の度合いの差が、そのまま復興への進捗の差となって如実に表れていることを実感した。そして同時に、程度の差こそあれ避難指示解除などによって復興への足場が整ってきているように感じるその一方で、それが直ちに、人々が故郷に戻ることとイコールではないという現実も見えている。
線量の低下、避難指示解除というステージが生まれてきても、人々が故郷に戻って再び暮らしや仕事が営まれるようになるには、まだ多くの試行錯誤があるだろうし、何より故郷を取り戻そうと懸命に活動されている人たちの情熱と行動がなければ、決してなしえないであろうと感じた。むろん、国としての責任を果たすべき諸作業のできる限りの推進が求められることは、言うまでもない。
離れた場所にいる私たちとしては、相馬双葉地方の人たちが、苦しみながらも取り戻そうとしている故郷での暮らしや仕事を、どういう形であれ応援していきたい。「帰還」にまつわる「現実」が、これまでと違うレベルで見えてくることになるであろう、これからの2~3年。よりきめ細かな視点をもって、しっかりとフォローし、可能な、そして意味のある支援の形を探っていきたいと思う。

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