池田文書・和田文書・清水文書

「池田文書」  昭和34年度購入
小田原北条家が家臣の池田孫左衛門及び孫九郎に発給した文書2通です。「北条家着到定書」は、池田孫左衛門尉の軍役を定めたものです。軍役は、その知行高に応じて定められ、人員や装備など細かく規定されています。「右着到帳、御隠居様より渡し下され候間、相写し遣わし候」とあり、天正8年(1580)の氏政から氏直への家督継承を示す資料と位置付けられています。「北条氏直判物」は、天正18年(1590)に氏直が池田孫九郎に対し、戦死した兄に代わり家督の継承を認めたものです。
郷土文化館が購入し、購入以前の伝来の詳細は不明となっています。「新編相模国風土記稿」大住郡石田村武兵衛家家蔵文書の中に池田孫左衛門の名がみえることから、かつてはこれらの文書と共に伝来していた可能性があります。

「和田文書」  平成30年度寄贈
小田原北条家が相模中嶋郷の代官及び百姓中に発給した文書2通です。「北条氏康朱印状」は、永禄10年(1567)6月分の懸銭の納入を命じたものです。懸銭とは、郷村の貫高に応じて課された税の一つです。「北条家掟書」は、有事の際に用意すべき人員や装備について通達したものです。天正15年(1587)7月に相模・武蔵の16ケ村に同内容の文書が発給されたことが知られており、豊臣秀吉との合戦に備えたものとみられます。市内中町の和田家に伝来し、「新編相模国風土記稿」では、中島村の利右衛門家家蔵文書と伝え、「北条家掟書」について「大永7年軍勢催促の状なり」と紹介しています。

「清水文書」  平成30年度寄贈
戦国時代の文書2通です。「北条家虎朱印状」は、皮作五郎右衛門、(三)郎左衛門、彦衛門に板皮9枚の納入を命じたものです。「幸田所へ持来」の文言があり、北条氏の奉行人である幸田与三の活動年代から永禄5年(1562)のものとされています。「鈴木頼重加冠状」は、書き出しに「冠度之事」とあり、元服の際などの加冠状と考えられます。発給者(差出人)及び受給者(受取人)については未詳です。海老名市の清水家に伝来し、「新編相模国風土記稿」では、高座郡本郷村の政右衛門家家蔵文書と伝えています。

資料目録

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ピックアップ資料紹介

北条家着到定書 天正9年(1581)7月24日 ◎市指定重要文化財

北条家着到定書

北条家着到定書

北条氏が、家臣の池田孫左衛門尉に対し、その務めるべき軍役を定めたもので、こうした文書を「着到定書」と呼びます。北条氏は、家臣に与えた知行高に応じて軍役を規定し兵員を確保していました。
池田孫左衛門尉の場合、自身の知行地である中郡冨田など191貫600文と、指揮下にある寄子の知行である岡崎給田など177貫500文、駿河大平20貫文の各々の知行の貫高に応じて、引きつれるべき兵の種類や員数(自身を含め56人)、その装備(鑓[やり]・鉄砲などの兵器、皮笠・甲[かぶと]・具足などの武具の種類)がこと細かに規定されていました。
戦国大名の軍隊は、こうした各々の家臣がその知行の高に応じて引きつれて来る大小の部隊から構成され、時には数万を超える大軍が編成されることもありました。
なお、本文書に「右着到帳、御隠居より渡し下され候間、相写し遣わし候」とあることから、家臣に対して軍役を課す際の基本台帳である「着到帳」が、この頃、御隠居(4代氏政)から5代氏直に与えられていることがわかり、その家督相続を示す史料としても注目されています。
【釈文】

北条氏直判物 天正18年(1590)4月25日

北条氏直判物

北条氏直判物

北条氏直が、家臣の池田弥九郎に対し、名跡の継承を命じた文書です。戦死した兄・孫五郎に実子がなかったため、その家督を継承させ、同心衆や被官を指揮し、従来どおり北条氏に忠節を尽くすよう命じています。
孫五郎・弥九郎ともに本文書にしか所見がなく詳細は不明ですが、この文書は上に挙げた天正9年(1581)7月24日付の池田孫左衛門尉に宛てた北条家着到定書とともに伝来したものであることから、孫五郎は孫左衛門尉の子(あるいはその一族)と考えられます。天正18年(1590)4月25日の発給のため、これより少し前の、おそらく小田原合戦の緒戦における豊臣方との戦闘において討ち死にを遂げたものとみられ、官途名なども称さず、実子も無かったと書かれていることから、あるいは未だ若年の若武者であったのかもしれません。
武家にとって家の存続は重大事であり、その保証が無ければ懸命の忠節は尽くせません。したがって、その忠節を賞し、素早く名跡を安堵することは、主君の重要な責務でした。
【釈文】

北条氏康朱印状 永禄10年(1567)6月24日 ◎市指定重要文化財

北条氏康朱印状

北条氏康朱印状

北条氏康が相模中嶋郷の代官および百姓中に、永禄10年6月分の懸銭(かけせん)の納入を命じたものです。
懸銭とは、検地によって算定された郷村の貫高に応じて課された税のひとつです。もともとは銭で納入されていたようですが、永禄年間の中頃から、次第に米や麦等の現物で納入されるようになっていきます。
ここでも、米・麦・黄金いずれかの品での納入が命じられ、貫文で表示される納入額とこれらの品との換算率(納法)が規定され、精銭による納入が停止されています。こうした動向は、撰銭(良銭を選び取ること)や銭貸の流通量の不足などによるものと考えられています。
【釈文】

北条家定書 天正15年(1587)七月晦日 ◎市指定重要文化財

北条家定書

北条家定書

北条氏が相模中嶋(現在の市内中町あたり)の小代官・百姓中に対して、非常時の際に差し出すべき兵の数やその装備について通達したものです。相模・武蔵の16の村に宛てた同様の文書が知られていますが、みなほぼ同文です。
内容としては、万一の際に備えて15歳から70歳までを徴発対象として、良き者2人を選んで名簿を提出させ、腰差類(腰に指す小旗?)は「ひらひら武者めくよう」仕度をして来るようにと命じています。
北条氏は豊臣秀吉との合戦に備え、大規模な兵力の確保を意図したものとみられ、この頃には秀吉との緊張関係が高まり、総力戦の様相を呈しつつあったことがわかります。実際、この文書が出された3年後の天正18年(1590)に豊臣氏と北条氏が激突する小田原合戦が行われます。
【釈文】

この情報に関するお問い合わせ先

文化部:生涯学習課 郷土文化館係

電話番号:0465-23-1377

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