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2015年09月08日(火)

松竹大歌舞伎・観劇記

松竹大歌舞伎」ポスター松竹大歌舞伎」ポスター
9月1日(火)に小田原では16年ぶりとなる「松竹大歌舞伎」が、小田原市民会館大ホールで上演されました。6月末の元NHKアナウンサー葛西聖司氏による「歌舞伎プレセミナー」を聞いていたので、本物の歌舞伎観劇への期待が膨らみました。(私は当日PRESSの腕章を付けて、記録係としてカメラ撮影を担当しました)
■開場とホワイエの風景■
夜の部は5時15分の開場でした。全席指定席のためか、入り口前の行列はそれほどできていませんでした。開演までには45分もありますが、買物をしたり、パンフレットを読んだりして開演を待つこの時間も、歌舞伎の楽しみです。売店には歌舞伎グッズや菓子が売られ、さっそく人だかりができていました。歌舞伎と聞くと、どうも苦手だ、という人は多いでしょう。古い言葉使いで何を言っているのか意味が分からない、義太夫節の語りも聞き取れない。更に、舞台で演じられている時代背景の基礎知識もない、というのが理由でしょう。しかし、心配ご無用です。会場では「イヤホンガイド」が貸し出されていて、歌舞伎の約束事や踊り、衣裳、音楽の意味、演目の見どころや歴史的背景までも上演中に解説をしてくれるのです。ですから、観終った頃には歌舞伎の通(ツウ)になっていること請け合いです。満席となった大ホールで、いよいよ開演です。

 

親子で歌舞伎観劇親子で歌舞伎観劇
イヤホンガイドの貸し出しイヤホンガイドの貸し出し
■歌舞伎「引窓」■
最初の演目は「引窓」で、「元辞楼(がんじろう)十二曲」と呼ばれる初世・中村鴈次郎(がんじろう)の当り役の題目の一つです。舞台となる八月十五日は、石清水八幡宮から始まった「放生会」(ほうじょうえ)が行われ、魚などの小さな生き物を池へ放すことで日頃の殺生を戒め、命を慈しむ日です。物語は八月十四日の放生会の前日に起ります。郡代官となった南与兵衛(中村鴈次郎)の家では、母・お幸(中村寿次郎:じゅうじろう)と与兵衛の女房・お早(中村壱太郎:かずたろう)が放生会の支度をしています。与兵衛はお幸の再婚先の義子です。昔養子へ出した実子の濡髪長五郎(市川左團次:さだんじ)が現れるが、長五郎は殺人事件を起こしていました。与兵衛には代官初仕事です。お幸は人相書きを見て長五郎であると知ってしまいます。長五郎は2階に隠れていましたが、与兵衛は手水鉢に映る姿に気付きます(このとき引窓は開いています)。
お早は引窓の紐を引いて部屋を暗くします。暗くなれば与兵衛の仕事の時間ですから、与兵衛は長五郎を召し取ろうとするので、お早は引窓を開けてまだ明るいと夫を制するのです。
与兵衛は手水鉢に映る2階の長五郎に気付く与兵衛は手水鉢に映る2階の長五郎に気付く
母は人相書きを売ってくれと涙ながらに頼む母は人相書きを売ってくれと涙ながらに頼む
お幸は老後の蓄えで人相書きを売ってくれと、与兵衛へ涙ながらに頼みます。その様子から、与兵衛は長五郎が母の実子だと知り、人相書きを置き、逃げ道を大声で語って家を出ます。長五郎は覚悟を決めて与兵衛に捕えられようとしますが、お幸とお早は与兵衛の情けを無駄にせず、長五郎に逃げてくれと説得します。
捕まろうとする長五郎を二人は引き留める捕まろうとする長五郎を二人は引き留める
長五郎は引窓の紐で縛られ、引窓は閉まる長五郎は引窓の紐で縛られ、引窓は閉まる
長五郎の人相を変えるため 、お幸は大前髪を剃りますが、ほくろは取れません。そこへ与兵衛が窓から路銀とかかれた金を投げると、頬にあたって黒子が取れてしまいます。長五郎は与兵衛の恩情に打たれ、お幸に縄をかけてくれと頼み、お幸は引窓の紐で長五郎を縛ります。この時引窓は閉まってしまうのです。

 

与兵衛が長五郎を縛る紐を切ると引窓が開く与兵衛が長五郎を縛る紐を切ると引窓が開く
外で様子を見ていた与兵衛は家に入り、長五郎を縛る紐を切ってしまうと、引窓が開いて月明かりが部屋に入り、部屋が明るくなります。与兵衛は、この月明かりを夜明けだとして、夜が明ければ自分の仕事はないと言い、放生会の日となったと長五郎に語ります。長五郎は外に出て与兵衛の心遣いに感謝する場面で、幕が降ります。
長五郎は与兵衛の恩情に感謝する長五郎は与兵衛の恩情に感謝する
「引窓」とは屋根にある天窓のことで、紐を引くと閉まって部屋が暗くなり、紐を放すと窓が開いて部屋が明るくなります。写真では、右上の屋根に見えます。引窓による部屋の明暗が、重要な舞台展開になっています。また、放生会の前日の夜が舞台となっている設定は、与五郎が長五郎を見逃す、即ち「放生」することに繋がっています。母親の実子と義子を想う心の動揺や、義理の兄弟である与兵衛と長五郎に通い合う恩情が、江戸時代の人々の心のあり様を今に伝えています。「引窓」の物語は、人情味あふれる「世話物」の傑作と云えましょう 。

 

写真を撮っていると、どの場面でもいわゆる「絵になる」ことに驚きました。大袈裟なようで細やかな表情と仕草、それぞれの人物の配置と構図、そして、舞台回しとなる大小道具、と三拍子そろった画面がファインダーの中に展開していました。火が付いた本物のロウソクを手に、お早が舞台に現れたのには驚きました。歌舞伎は、長い年月をかけて洗練されてきた芸能であることを改めて感じました。
坂田藤十郎による中村鴈次郎襲名の紹介口上坂田藤十郎による中村鴈次郎襲名の紹介口上
■中村鴈次郎襲名披露の「口上」■
今回の松竹大歌舞伎の目玉は、中村翫雀(かんじゃく)改め四代目中村鴈次郎襲名の披露です。年初に大阪松竹座で襲名披露しましたが、襲名の挨拶をする全国巡業として小田原でも披露の舞台が設けられたのです。前日の8月31日は東京の板橋区立文化会館で、翌日9月2日には浜松市のアクトシティ浜松で興行が行われ、9月25日の横須賀まで休みはたった5日間だと云う超ハードスケジュールです。今回は西日本コースで鹿児島まで行きますから、移動距離は半端ではありません。歌舞伎とは、体力勝負なんですねえ。
総勢8名が、次々に口上を述べる総勢8名が、次々に口上を述べる
幕が上がると、上下姿の総勢8名が揃って頭を床に付けて畏まっています 。中央にいる紫色の上下を着た坂田藤十郎が、長男の鴈次郎襲名の紹介をします。隣の鴈次郎は顔を上げて聞いています。そして、鴈次郎自らが、上方歌舞伎の名跡である中村鴈次郎を襲名したと挨拶しました。鍛えられた声と仕草で朗々と響き渡る口上からは、鴈次郎の名跡を継ぐ重責への覚悟が感じられました。
襲名の挨拶が終わって、会場にもほっとした空気が流れます。続いて6人が次々と自己紹介の口上を述べますが、もう堅苦しい口上ではなく会場を笑わせる口上です。客席はすっかり和やかな雰囲気に包まれました。
■「連獅子」■
最後の演目は、中村扇雀(せんじゃく)と中村虎之介(とらのすけ)の親子共演である「連獅子」です。 連獅子と云うと、長い毛をぐるぐると振り回す「毛振り」が有名ですが、舞台は3部構成になっています 。歌舞伎では、能などから題材を採った作品を「松羽目物」(まつばめもの)と云います。最初はこの松羽目物で、能の「石橋」(しゃっきょう)を題材にした舞です。手獅子を持った狂言師の親子が、天竺清涼山の石橋のいわれと、獅子の親は子獅子を谷へ突き落とし這い上がって来た子だけを助けるという故事を踊ります。舞姿の美しさと、親子の息の合った舞が、獅子の親子の情を伝えて見事です。

 

松羽目物「石橋」の舞松羽目物「石橋」の舞
2人の掛け合いがおもしろい間狂言の「宗論」2人の掛け合いがおもしろい間狂言の「宗論」
続いては、「間狂言」(あいきょうげん)です。浄土宗と法華宗の2人の僧が、天竺清涼山をめざした旅の道連れになりますが、宗派の優劣を争う口論となります。法華宗はうちわ太鼓を叩いて「法蓮華経」と唱え、浄土宗は鉦を叩いて「南無阿弥陀仏」と唱えて、互いに譲りません。そのうち、念仏を取り違えてしまい、会場は爆笑となりました。
親子獅子が、紅白の毛を回す「巴」の舞親子獅子が、紅白の毛を回す「巴」の舞
最後が、いよいよ「獅子」の毛振りです。白毛の親獅子と赤毛の子獅子の精が登場します。2人は揃って、毛を左右に振る「髪洗い」、円を描いて毛を振り回す「巴」、毛を舞台に叩きつける「菖蒲叩き」など、狂ったように舞を踊ります。ここでは、長唄は激しく、囃子方の三味線や鼓も勢いがあり、舞を盛り上げます。最後に、親子獅子がそれぞれに見栄を切って、目出度く幕となりました。
最後に親子獅子がそれぞれに見栄を切ります最後に親子獅子がそれぞれに見栄を切ります
■始めて歌舞伎を観て■
能は何度か観劇したことはありましたが、歌舞伎を舞台で見るのは初めてでした。世話物の舞台と口上、更に連獅子の組合せは、初心者にとって歌舞伎の面白さを満喫できた豪華三点セットでした。
色彩鮮やかな舞台を見て、何よりも役者たちの所作の美しさが印象的でした。全ての演目で、鍛えられた無駄のない動きが人の動作を「美」にまで昇華させています。茶道でも所作を指導されますが、日本文化の基本にこの所作の美しさがあるのではないかと思いました。
そして、「引窓」で演じられた人情にもまた、人の心の美しさを感じました。江戸時代の親子の愛情だけでなく義理の兄弟の間の恩情は、人間関係が希薄となった現代においても観る者の心へ訴えかけてきます。
更に、連獅子の舞台は、文殊菩薩が住むという「天竺清涼山」となっています。釈迦如来の脇侍である文殊菩薩は、獅子の上に座っている仏像として多く見られます。文殊菩薩は智慧を司る菩薩とされていますが、獰猛な獅子を御するほどの智慧の力の強さを表しているのでしょう。江戸時代、このような仏教的背景は庶民の間でも常識だったからこそ、連獅子の舞台が描かけたのだと思いました。ここにも、時代背景の変化を感じました。
今回の松竹大歌舞伎の公演には、たくさんの方々が観劇に来られました。近い将来再び小田原で歌舞伎が上演されることを楽しみにする気持ちとなった、素敵な歌舞伎公演でした。(深野 彰 記)

 

2015/09/08 15:31 | 芸術

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