(写真1)大ホール開館を伝える「広報おだわら」(市HPより)市民会館大ホールの建築デザインから見た魅力 ①
小田原市民に長く親しまれてきた「小田原市民会館」は、来年度に閉館となる。小田原市民会館の大ホールは、千人以上収容できる小田原唯一の大劇場として、本格的な演劇の興行やコンサートが開催されてきた。市民の思い出の詰まった市民会館の魅力を、建築デザインの観点から紐解いてみたいと思う。
1.市民会館大ホールの開館
市民会館大ホールは、昭和37年(1962)7月28日に開館した。開館当時の小田原市長は、鈴木十郎氏であった。小田原出身の鈴木市長は歌舞伎座支配人を務めた経歴があった。その縁から会館の杮(こけら)落(おと)しとして菊五郎劇団による歌舞伎の祝儀「寿(ことぶき)式(しき)三番叟(さんばそう)」が上演された。新しい市民歌の披露など盛大な開館式が挙行された、と当時の「広報おだわら」が伝えている(写真1)。
開館当初は、大ホールで歌舞伎、宝塚歌劇、NHK中継番組など、華やかな舞台で満ちていた。ところが、時代が経つにつれて、当初の大規模な公演の頻度が減ってしまった。その理由は大ホールの使い勝手の悪さであった。小田原城の景観を重視して低層建築としたため、大ホールの舞台は地下となった。そのため、舞台装置の搬入は搬入口からリフトで地下に下さねばならず、転落の危険もあった。楽屋は段差が多く出演者が迷ってしまうほどである。更に、舞台の上手には袖がなく、舞台裏もないため、舞台演出上の大きな制約となった。1980年代にはニューミュージックの全国ツアーコンサート全盛時代となり、トレーラーで舞台セット一式を持ち込む方式へ移り変わると、市民会館大ホールはツアー公演の対象会場とはならなくなった。大ホールは舞台公演のスタッフに評判が悪かった。更に、リハーサル室がないことは市民による練習活動にも支障を生んだ。いつ頃からか、市民からも使いたくないという声が出るようになってしまったのである。
ホールの設計とは、観客への高いパフォーマンスの追求と同じ重みで、いや、それ以上に、スタッフや出演者が快適に仕事を進められるように設計されねばならない。小田原の大ホールは、全国の都市にある市民ホールの先がけではあったが、開館当初は、まだ使い勝手まで考えた施設設計がなされる時代ではなかったのかもしれない。
大ホール開館の3年後、昭和40年(1965年)5月8日に小田原市民会館の本館が完成した。本館には小ホールや大小会議室が置かれ、最上階の6階は小田原商工会議所の事務所が置かれた。4階には結婚式場があった。結婚式場の部屋は平成8年まで使用されていたが、利用者の減少で会議室として転用されるようになった。
大ホールの建築から見た魅力を語る前に、戦後の日本建築界に大きな影響を与えたフランス人建築家ル・コルビュジエと、日本各地に名建築を遺した日本の建築家前川國男について記したいと思う。前川國男は、昭和3年(1928)にフランスへ留学して、ル・コルビュジエのアトリエへ入所した。ル・コルビュジエに師事して学んだ最後の弟子と云われた建築家である。