最終更新日:2018年09月28日
戦国時代には備中伊勢氏が居城にしており、伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が青年期まで過ごしました。
高越城址の頂に「北条早雲生誕の地」の石碑が建てられています。また、ここからは、山陽道と小田川を足下に見下ろすことができます。
毎年4月に高越城址顕彰会を中心に、北条早雲をしのび地元の芸能などが奉納され、青空市「早雲市」も開催されます。
北条早雲が、駿河守護・今川家の家督争いを鎮めた功績により、東駿河の領地と共に与えられた城。 その後、五代100年におよぶ小田原北条氏の基礎を作った早雲の、戦国大名としての第一歩を踏み出した城がこの興国寺城であり、早雲旗揚げの城と言われています。
海上に突き出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地でした。
天正8年(1580)の武田氏との海戦では、前線基地として、水軍の主力が集結しました。
小田原城を護る城として築城されましたが、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めにより、わずか半日で落城したといわれる山城です。石を使わない土だけの山城は珍しく、国指定史跡、日本百名城に指定されています。現在は城跡公園として開放されています。
山中城跡公園では、四季折々の富士山とその麓に広がる伊豆北部一帯、駿河湾が一望できる雄大な絶景とともに、つつじや水連などが楽しめます。
土肥高谷城々主「富永山城守政家(とみながやましろのかみまさいえ)」(北条氏5家老の1人)の支城で、北条水軍の一翼を担う城の一つ。天正18年(1590)豊臣水軍の攻撃により落城したと伝わっています。
鎌倉時代以来の歴史を持つ伊豆の名門・狩野氏の居城は、のちに北条氏の伊豆討ち入りに5年間も抵抗するものの敗北しました。
狩野氏の支城として、鎌倉時代に築かれたと言われています。
早雲は、深い谷となっている城の北側から奇襲攻撃で柏久保城を落とすと、逆に狩野氏攻略の足掛かりとしました。現在も「新九郎谷」、「地獄谷」などの地名が残り、当時の激戦を物語っています。
室町幕府の出張所として足利氏が伊豆を管轄していました。
広大な園池や建物の一部、多くの陶磁器などが発見されています。
北条早雲は堀越御所の内紛に乗じ茶々丸を滅ぼし、これが戦国時代の幕開けとなりました。早雲は韮山城を居城とし、終生ここが住まいでした。
小机城は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害です。古くは太田道灌の攻城を受け、横浜市域北部および川崎市域一帯の支配拠点でした。16世紀前半頃より支城となり、笠原信為が城代を務めた後、北条三郎・氏信・氏尭・氏光が城主となりました。現在は小机城址市民の森となり、城跡内を散策することができます。
甲斐と小田原を結ぶ要所にあったことから重要視され、津久井衆と呼ばれる家臣団を組織し武田軍に備えました。山頂付近では今なお水を堪える宝ヶ池や空堀、土塁跡、石垣跡、家老屋敷跡などが確認され往時の姿をしのぶことができます。
津久井衆が居住した山城のふもと、根小屋。そこは現在、公園の歴史と自然を紹介する展示施設と公園管理事務所のパークセンターが建っています。鎧の試着体験や季節の自然展示等の他、歴史ガイドウォークや自然観察会等のイベントを案内し、各種パンフレットも用意しており、気楽に立ち寄れます。
3月に開催される「津久井城まつり」。
かつては戦国時代に津久井城の城主だった内藤氏の居館が存在し、城山最大の曲輪であるお屋敷跡で、法螺貝の音を合図に甲冑劇を行います。
パークセンター前では地元の商工会等による出店も有り、「津久井城ブランド品」も販売されます。
北条早雲が東相模の三浦氏を攻める際、拠点とするために築城した山城で、堅城として知られています。
小田原城は室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、その後明応5年(1496)ごろに北条氏の居城となってから、日本最大の中世城郭に発展しました。本丸を中心に城址公園として整備されています。
天正18年(1590)、北条氏を討伐するため、豊臣秀吉により築かれました。現在は井戸曲輪跡のさざえの井戸などが残り、歴史公園として整備されています。
初代北条早雲をはじめ歴代当主を大将とした北条軍団を中心に、総勢1,800人にも及ぶ武者行列が市内を勇壮に練り歩く、小田原市最大のイベントです。
早雲寺は、大永元年(1521)北条氏綱が父、早雲の遺命により建てた京都紫野大徳寺派の名刹。早雲、氏綱、氏康の画像をはじめ、数多くの文物を所蔵しています。
徳川時代の大名の参勤交代の様子が、きらびやかに繰りひろげられる一大時代絵巻で毎年11月3日に催されます。
格式11万3千石、総勢170余名の行列が湯本の町中を一回りします。
今もその面影を残す石畳。
小田原箱根口から芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせ「箱根八里」といい、東海道の中でも箱根越えは苦難の道でした。 旧東海道に残る古道の石畳は、現在畑宿から湖畔まで往時の石畳が整備保存され、多くの人々が当時の面影をしのびながら散策を楽しんでいます。
北条氏康(3代)の三男・氏照の居城。小田原攻めでは秀吉軍の猛攻を受け、最後まで籠城戦を続けましたが、ついに落城しました。
八王子城跡から都心部を望むパノラマが楽しめ、良く晴れた日は東京スカイツリーが見えます。
八王子城跡の御主殿の近くにある滝です。
八王子城落城の際、城中の婦女子が大勢身を投じたため、城山川の流れが三日三晩赤く染まったという言い伝えがあります。
川越夜戦は天文15年(1546)に北条氏康軍が上杉・足利連合軍に勝利した戦いです。東明寺は、この戦いの激戦地として伝えられています。境内には川越夜戦の石碑があります。
天文6年(1537)に北条氏が扇谷上杉氏から奪取後、同15年(1546)の川越夜戦の勝利により北条氏の支配が決定的となると、川越城を足掛かりとし北武蔵への支配を固めて行きました。
川越城跡は市街地北東端に位置し、現存する本丸御殿は嘉永元年(1848)、当時の藩主松平斉典によって造営されたものです。
北条氏康(3代)の四男・氏邦が整備拡充した城。小田原攻めでは1か月余りの籠城の後、城兵の助命を条件に開城しました。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、鉢形城に陣取った北条氏邦は5万人の豊臣勢を相手に、3,500人の兵力で1か月余り攻防戦を行いました。寄居北條まつりは、この戦いを再現したもので、約500人の武者が市街地パレードを行った後、荒川を挟んで攻防戦を繰り広げます。
電話番号:0465-33-1521