小田原市

北条五代観光推進協議会

北条五代にまつわる逸話

北条氏ゆかりの地に伝わる逸話・伝説等を集めました。

井原市(岡山県)

逸話・伝説名 概要 根拠
早雲が寄進した「摺り袈裟」の版木 室町時代前期に五郎大夫なるものが、急死した折、十王から触れれば三悪道で苦を受ける者も皆解脱するという袈裟をもらい受け、甦った。そこで五郎はこの袈裟を版木にし、伊豆の修禅寺へ寄進した。後に早雲が修禅寺より譲り受け、青年期までを過ごした荏原庄にある法泉寺に寄進した。法泉寺には高越城主、伊勢新左衛門盛定(早雲の父)等祖先の菩提が弔われている。 「井原市の文化財」
井原市教育委員会2009、
井原市法泉寺に伝わる『十王袈裟記』

沼津市(静岡県)

逸話・伝説名 概要 根拠
垪和伊予守興国寺城で奮戦 武田信玄の「深沢城矢文」で有名な武田軍の深沢城功囲戦の際に、武田軍の一部が南下して、興国寺城を攻めた。このとき、北条氏の家臣垪和伊予守氏続が興国寺城城将として、奮戦し敵(武田氏)五十余人を討ち取り、氏政から感状をもらったとされる。 北條氏政感状写(垪和氏古文書)
今川氏真、沼津の大平に入る 永禄11(1568)年12月、武田軍の駿河への侵入により、今川氏真は駿府から逃れて掛川城に籠もったが、徳川家康にも攻められて、掛川城を開城し、夫人の実家である北条氏の庇護を受けて、沼津市の大平に入ったとされる。 今川氏真禁制(桃源院文書)   
今川氏真判物写(安得虎子十)
長浜城の普請と駿河湾海戦 北条氏は、武田勝頼が普請した三枚橋城に対抗して、長浜城を普請し、水軍の大将である梶原備前守をおいた。海上では、両水軍による海戦が行われるようになった。そうした中の天正8(1580)年3月15日、武田の軍船5隻が長浜城に攻め寄せたことにより、大きな海戦が始まった。 北条五代記・武徳編年集成などの江戸時代の戦記物の他小浜家文書の勝頼感状がある。

三島市(静岡県)

逸話・伝説名 概要 根拠
北条綱重の終焉の地 祐泉寺(三島市一番町)にある。綱重は北条早雲の第3子である幻庵の子。 出典
三島市誌
下巻
足利政知(初代堀越公方)の終焉の地 足利2代将軍義詮を葬って建てたといわれる宝鏡院(三島市川原ヶ谷)内の義詮塚の傍らにある。
2代堀越公方(茶々丸)を討伐し、伊豆の支配者になるのが北条早雲。
出典
静岡県史
通史編
早雲と三嶋大社 早雲は三嶋大社に参詣して武運長久を祈ったが、2本の杉の大木を1匹の小さなねずみがかじり倒す夢を見て、2本の杉を関東の両上杉(扇谷、山内)氏、ねずみを子年生まれの自分と見立て、三嶋大社が自分の将来を教えてくれたに違いないと喜び、神馬、太刀、鎧兜を奉納した。
その後関東への進出を図り、相模を支配下に治めた。
出典『ふるさと三島』、『三島小誌四』、『三島の昔話』
北条五代の仁政 北条早雲以後四代にわたり、大勢力を築き上げた根拠はいくつかあるが、年貢軽減や中間搾取の制限などの仁政を行なったことが上げられる。また、三嶋大社への崇敬が深く、社殿の建立や、刀、所領の寄進もしばしば行っている。 出典「ふるさと三島」、「三島小誌四」、「三島の昔話」
西の防衛線山中城築城と氏康 3代目の氏康は、両上杉(扇谷、山内)氏を破り、関東の覇権を握り、永禄年間(1558~1570)に山中城を築いたと言われている。 出典「ふるさと三島」、「三島小誌四」、「三島の昔話」
山中城落城悲話 5代目氏直のとき、天正18年(1590)に箱根山西麓の番城(城主を置かない城)山中城には松田康長を守将に約4千人の決死の守備。約7万人の豊臣軍(徳川軍含む)に攻められ半日で落城。 出典 箱根神社文書、「ふるさと
三島」
宋閑寺(三島市山中新田)の墓所 開基は間宮康俊の娘、お久の方と伝えられ、山中城三の丸跡に多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するため建立。
山中城攻城戦で戦死した、北条軍(山中城主の松田康長、副将の間宮康俊兄弟、上野箕輪城主の多米長定)、豊臣軍(一柳直末)の墓石が並んで建立。
出典
三島市誌
下巻
映画のモデルになった北条家臣笠原政尭 笠原政尭については内通者烙印が押され、討たれたという説が通説になっているが、一方で、北条家滅亡後僧となって三島市の蔵六寺を開山し、一生を過ごしたという寺伝もある。
三谷幸喜監督の映画「ステキな金縛り」「清州会議」に登場する更科六兵衛(扮 西田敏行)のモデルといわれている。
出典
亀霊山蔵
六寺の由

伊豆市(静岡県)

逸話・伝説等 概要 根拠
早雲の狩野城攻略の城 柏久保城は、早雲の伊豆平定に対し、最後まで抵抗した狩野氏の居城を攻めるために早雲が築いた城といわれている。また、一説によると、もともとここから南南西約5kmに位置する狩野城の出城であったが、早雲が攻め落としたという説もある。現在でも新九郎谷や地獄沢といった地名が残っており、当時の激戦を物語っている。 「豆州志稿」
「北条五代記」
「大見三人衆由緒書」
伊豆侵攻に抵抗した狩野氏の本拠地 狩野城は、平安時代末期からの山城で伊豆国の豪族である狩野氏の本拠地。早雲の伊豆侵攻の際には、狩野道一が最後まで抵抗したが、足利茶々丸の自害を受け、降伏したと考えられる。その後、狩野氏一族は「旧豪族は地縁から切り離す」という早雲の政策により、小田原をはじめとする関東へ移されたが、小田原評定衆の中にも加わっていることから、狩野氏が北条家家臣の中枢でも活躍していたことがうかがえる。 「小田原衆所領役帳」
早雲が荼毘にふされた寺 修禅寺は、大同2年(807)に空海とその高弟杲隣大徳の建立といわれる。早雲は伊豆国に討ち入る機会を狙うため、湯治客を装い修善寺を訪れ伊豆の情勢をうかがっていたようである。また、この頃の修禅寺は戦禍により荒廃していたため、伊豆を平定した早雲は、俗縁といわれる遠州石雲院の隆渓繁紹禅師を招き中興させた。永正16年(1519)8月15日、韮山城で死去し修禅寺で荼毘にふされた。 「北条記」
「北条五代記」
「日本洞上聯灯録」
大見三人衆の居城 大見城は、平安時代末期に大見平三家政もしくは成家により築城されたといわれており、早雲が伊豆侵攻の際は、大見郷の地侍「佐藤藤左衛門尉行広、梅原六郎左衛門尉宣貞、佐藤七郎左衛門尉」の3人を寄親とした「大見三人衆」が大見城に籠城したことや、柏久保城での活躍で、早雲を助けたことから、後に賞された。 「豆州志稿」
「北条五代記」
「大見三人衆由緒書」
伊豆水軍富永氏の城 伊豆侵攻を始めた早雲にいち早く従ったのが、当時の丸山城と高谷城の城主であり、付近の水軍を統率していた富永三郎左衛門尉政直である。政直は、早雲が本拠地を韮山城に移した際には、興国寺城代を、その後も江戸城代を任せられるなどした。富永氏一族や子孫は北条家を支える重臣として活躍した。 「基氏伝帖」
「北条記」
「北条五代記」
「豆州志稿」
「田方郡誌」
「野史」
「甲陽軍鑑」
金龍院 幻庵は早雲の四男で、早雲から箱根権現別当職を任せられ、相模や伊豆に領地を与えられていた。一説には当時としては大変長寿の97歳まで生き、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条五代の家臣として北条家を支えたといわれている。
伊豆市大平地区の金龍院は幻庵が開基し、その後天正18年(1590)に当地で没したと伝えられる。幻庵と妻の位牌も残っている。
「増訂豆州志稿」
「田方郡誌」
「箱根神社文書」
「小田原所領役帳」

伊豆の国市(静岡県)

逸話・伝説等 概要 根拠
早雲の堀越御所攻め 明応2年(1493)、興国寺城主の北条早雲が堀越御所を急襲し、堀越公方を名乗っていた足利茶々丸を攻め亡ぼした。願成就院に茶々丸の墓あり(茶々丸の死については異説あり)。 『韮山町史』第10巻『奔る雲のごとく』
早雲の韮山城築城 堀越御所を攻め落とした早雲は、韮山城を築いて伊豆平定・相模進攻の根拠地とした。城内の熊野神社は、明応9年(1500)に早雲が勧請し、建立したものとされている。 『韮山町史』第10巻『奔る雲のごとく』
江川氏による韮山城地の提供 江川氏の「系譜」によれば、第23代江川英住は、伊豆に進攻した早雲に仕えるとともに、自身の屋敷続きの土地を提供。そこに韮山城が築かれた。 『韮山町史』第6巻上
早雲の伊豆平定 伊豆に進攻した早雲は、狩野氏など伊豆国内の敵対勢力を攻撃し、数年をかけて平定。関東における戦国大名の魁となった。 『韮山町史』第10巻『奔る雲のごとく』
早雲による
「四公六民」策の実施
「北条五代記」によれば、早雲は支配下に置いた土地の年貢率を下げ、「四公六民」とした。他国の農民は、それを聞いて「自分たちの国も新九郎殿の国になればよいのに」と願ったという。 『韮山町史』第10巻『奔る雲のごとく』
早雲が名付けた
銘酒「江川酒」
江川氏の「系譜」第24代江川英盛の弟正秀の項に、酒を造って早雲に進上したところ、早雲はその美味なることを賞して「江川酒」と名付け、江川氏に「酒部屋」を造らせた、とある。 『韮山町史』第6巻上
早雲、韮山城にて死去 永正16年(1519)8月15日、病を得た早雲は、韮山城にて死去した。88歳であった(享年には異説あり)。既に相模国を平定し、家督を氏綱に譲っていたが、早雲は終生韮山城を居城とした。 『韮山町史』第10巻『奔る雲のごとく』
氏綱、韮山にて早雲を弔う 早雲死後1か月の永正16年(1519)9月15日、氏綱は韮山において「無遮会」という大法会を実施し、父早雲を弔った。 『韮山町史』第10巻
氏綱の五女
「山木御大方」(崎姫)
氏綱の五女崎姫は、遠江の堀越貞基に嫁いだが死別。北条氏に戻り、韮山城に近い山木に住まいしたことから「山木御大方」と呼ばれた。 『韮山町史』第10巻
韮山城の戦い
(対武田1)(氏規)
永禄12年(1569)6月、甲斐の武田信玄が大軍を率いて伊豆に攻め込んできた。その時、武田軍は韮山城近くの北条にまで迫り、韮山城将氏規の軍勢と戦っている。 『韮山町史』第10巻
韮山城の戦い
(対武田2)(氏規)
元亀元年(1570)8月、武田勝頼・山県昌景・小山田信茂ら武田軍が伊豆に進攻、氏規を城将とする韮山城を攻めたが落とせず、城下を焼き払って退去した。 『韮山町史』第10巻
韮山城の戦い
(対豊臣)(氏規)
天正18年(1590)、豊臣軍による小田原攻めの際、織田信雄を総大将とする4万4千の大軍に囲まれた韮山城は、約3か月の籠城戦の後6月24日に開城、城主氏規は小田原城へ移った。 『韮山町史』第10巻
敵味方に分かれた
江川父子
江川氏「系譜」に、韮山城攻防戦の際、江川氏第27代英吉は韮山城の江川曲輪を守備。その息子英長は、徳川家康の旗本として攻め手側にいて、韮山城の開城交渉に功があったという。 『韮山町史』第6巻
韮山竹による利休作の花入「園城寺」他 豊臣秀吉の小田原攻めに同道した千利休は、韮山城付近で採られた雪割れのある竹(韮山竹)を用いて、「園城寺」「よなか」「尺八」という竹花入を作った(園城寺は国指定重文)。 『韮山町史』第10巻

相模原市(神奈川県)

逸話・伝説等 概要 根拠
仕事中に酒盛り 本能寺の変直後に、北条氏は北関東で敵国と戦闘状態に有り、領国全体に動揺が広がっていた。そんな時、津久井城では酒ばかり飲んで、ちゃんと仕事をしていない奴らがいるとの情報を聞きつけた北条氏は、重臣に、いくつかの注意事項を書き与えて、注意させるために派遣するが、その一つに、「番衆が寄り合って酒を飲むことは、堅くこれを禁止する。いつも守られていないとのことである」とある。
その後に守られたどうかは文献が発見されていないので不明である。
津久井城掟
八王子城から津久井城へ伝令 八王子城が豊臣秀吉の軍に攻められ落城した時、津久井城へ落城の伝令に走った騎馬武者がいた。無事津久井の地に到着した武者は、土地の人に戦況を尋ねて、津久井城も落城したことを知り、落胆して馬から降りた。その時、ムチの代わりに持っていた梅の枝を道端に突き刺したところ、これが根付き花を咲かせたと伝えられる。土地の人々は「下馬梅」と呼び大事にしてきた。また逆さに咲くので「逆さ梅」とも呼ばれてきたが、大正の頃枯れてしまったという。現在の梅は、地域の方達により1980年に植えられた。 伝承
敵の退路を急襲するも、奮戦むなしく 三増峠の戦い後の、武田勢の一隊の退路途中に、日向薬師の山伏の100人程度の手勢が、北条氏の日頃の寄進の恩に報いるために、青根で待ち伏せし急襲した。しかし奮戦むなしく、勝快法印を始め多くが討死にした。
現在、「法印の首塚」があり、青根の諏訪神社には山伏たちを祭った八幡宮がある。
昭和44年に勝快法印の御子孫の建立した供養碑が静寂な空間にひっそりと建っている。
昭和62年発行、津久井町郷土誌、
位牌現存
相州津久井青根於打死同所と有り
処刑された恨みが供え餅に出る 三増合戦の折、津久井城兵は、武田軍の雑兵十数名を捕虜にした。小田原のお屋形様から、早く打首にするよう命令が下り、正月の近い12月28日にそのことを伝えられた敵兵達は、「正月を前にせめて餅のひとつも食わせてもらえぬか」と頼んだ、津久井城の人切り五人衆は、「何を言うか、貴様たちによって三千二百人の仲間が死んだ」と取りあわず処刑した。
それから、12月28日に餅をつくと、必ず、五人の家に限って赤い血が混じったといわれている。
このことが村の家々に伝わり、それから、根小屋ではこの日に餅をついたり、お祝いごとを一切してはいけないと伝えられている。
伝承
提灯の代わりにされた寺院 武田軍は三増合戦の折、帰路途中にある寺院に、提灯200の献上を要請したが、「ここは北条様の知行地、寺と言えども敵方を手助けできない」と答えところ、怒った武田勢に「それでは寺ごと提灯にしてくれる」と火をつけられ全焼の憂き目にあった。その火は、周辺の山野にも燃え広がり、武田軍の行く手を照らしたという。なお、この戦いで武田軍が利用されたとされる道を「信玄道」、又は、皮肉を込めて「信玄逃げ道」と呼ばれる。 明治12年寺院由緒 内務省宛進達文書
刀を研いだと伝えられる池 津久井城の山頂部には、宝ヶ池と呼ばれる溜井がある。この池は、どの古絵図にも井戸として記されていて、「新編相模風土記稿」は水が白く濁っていることから、城兵が刀を研いだという伝説がある、と伝えている。城兵の命を守った池は現在でも枯れることなく水を湛えている。 新編相模風土記稿
水汲みの道 津久井城主の内藤氏は、ある時、長享3年(1489)に創建されたと伝えられる観音寺に初めて参拝した。この折に、和尚はタブの木の根本からこんこんと湧き出る「観音寺の清泉」を使ってささやかな野点の茶会を催し歓迎した。この献上茶のまろやかな味に、内藤氏は大変喜んだという。
その次の日から津久井城内には「水番」が置かれ、内藤氏は毎日この水を愛用し、茶の湯をたしなんだ。このため家来たちは、毎日、水汲みに観音寺に出向いた。この城兵たちが通った道を「水汲みの道」と呼ばれ、根小屋のお屋敷から山ぎわを通って北根小屋、中野神社の上を抜け、観音寺に通ずるおよそ3kmの「水汲みの道」となったと伝えられている。
伝承
裏切り者は許さず 津久井城の守備兵のひとりの一郎兵衛は、津久井城を取り囲むかがり火を見ながら、同志たちと最後の戦いに備えていた。
脳裏には川向こうの村の将来を約束した美しい娘の姿。
非常呼集のあった数か月前、別れも告げられず登城したが、明日までの命と思えば思うほど会いたい気持ちを抑えられずに、見張りの少ない飯縄曲輪と本城曲輪の中間の北側の断崖絶壁を相模川を目指して一気にころがるようにすべり降りて行った。しかし、荒川の別名があるほどの難所で、数日前の雨で水かさも増していて船がなければ到底わたることなどできなかった。気を取り戻し、戻ろうと岸壁を登り始めたが、脱走兵に対する津久井城の報復なのかドドドーンという地響きとともに山崩れが起き、一郎兵衛は美しい娘の名を叫びつつ濁流の中に消えていった。
伝承
富士塚の伝承 津久井城の城下町の根小屋の金原は、幾度となく武田軍との攻防の場となった。山岳戦で有名な「三増合戦」の時、信玄が武田勢の士気を高めることをねらってここに富士山を作った。武田勢は富士山が見えるところでは絶対に負けないという信仰があった。
津久井城落城時は城兵の首を埋めた伝承が残る。
地元では富士塚と言い「富士浅間大神」の碑を建立し、往時をしのぶとともに戦死者を弔っている。
伝承
落城を伝える棒打ち唄 「津久井の城が 落ちたげな 弓と矢 小旗の竿が ながれくる」
相模原市の番田地区には、炎天下にほこりにまみれ、汗だくで続く過酷な脱穀作業を和らげる目的で作られた棒打ち唄が今に伝承されている。
津久井城を望むこの地域、折しも脱穀の時期を迎える6月25日、地域の象徴として眼前にそびえた津久井城の落城を垣間見た村人たちの哀愁の思いが伝わってくる。
伝承

鎌倉市(神奈川県)

逸話・伝説等 概要 根拠
玉縄城主、北条氏勝の活躍 天正17年(1589)、第6代玉縄城主北条氏勝は、豊臣秀吉が小田原征伐に出兵するという知らせがあったので、小田原北条本家の要請により、箱根の山中城の援軍として出かけた。
しかし、山中城は豊臣氏との戦いに敗れ、氏勝は玉縄城に戻って籠城したが、天正18年(1590)に氏勝はついに家康の軍に降りた。
ここに、堅固を誇った玉縄城も家康の前に開城した。
鎌倉市教育委員会
かまくら子ども風土記
北条早雲と玉縄城 現在、清泉女学院となっているところが城山と呼ばれた玉縄城址の中心地である。
玉縄城は、早雲が永正9年(1512)に小田原城の支城として、相模・三浦をおさえるために築城した山城である。早雲はこの城を築くことで三浦道寸を攻め滅ぼし、この辺一帯を治めることができた。
その後、玉縄城主は次の略系図のとおり引き継がれていったと言われている。
北条早雲―氏時―為昌(ためまさ)―綱成(つなしげ)―氏繁(うじしげ)―氏舜(うじとし)―氏勝
鎌倉市教育委員会
かまくら子ども風土記
玉縄城主北条氏時と円光寺 円光寺は、城護山明王院といって、もとは初代玉縄城主の北条氏時が澄範(ちょうはん)という僧を招いて建てた寺である。玉縄城主が城中や城下の平和をお祈りする祈願所として続いてきたが、元和5年(1619)に玉縄城が廃城となってからは、現在の場所に移されたといわれる。
玉縄城跡の南の方に、円光寺曲輪(くるわ)という名が残っている。
鎌倉市教育委員会
かまくら子ども風土記
浜の大鳥居跡 鶴岡八幡宮の供僧であった快元(かいげん)が書いた「快元僧都記」には、天文4年(1535)に氏康の父である北条氏綱のときに鳥居再建の願いが出され、建替えを定めた、とされる記載がある。その後、上総(今の千葉県)で切り出した大木を海路で運搬し、17年の年月をかけ、やっと完成したようで、その時には盛大な儀式が行われたといわれる。 鎌倉市教育委員会
かまくら子ども風土記

箱根町(神奈川県)

逸話・伝説等 概要 根拠
芹椀 椀に金の平蒔絵で芹が描かれている五椀形式のもの。寺伝によれば、氏政が百組を早雲寺に寄進され、小田原落城により氏直が高野山に配流の身となった際、半分の五十組を高野山高室院に持参したと言われている。早雲寺に残った芹椀で五椀そろっているのは一組だけである。 「早雲寺の名宝」図録、町郷土資料館発行
紙本着色北条氏綱像(神奈川県指定重要文化財) 氏綱の器量は、氏康に与えた遺書によって、「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄花とは、天地格別にて候」と説いている。「切り取り強盗、勝手たるべし」の乱世に驚くべき器量人であった。また、北条五代の他の像は、胡坐をかいているが、氏綱像のみ正座をした像となっている。これは、後から書き直したものと見られている。 「早雲寺の名宝」図録、町郷土資料館発行
紙本着色北条氏康像(県指定重要文化財) 画像は、侍烏帽子に直垂をつけた上畳の坐像で、直垂には、白地に赤と緑青の鶴・亀が描かれており、下衣は洒落者が着る片身替りであることが襟元でわかることから、文武両道に秀でた風流人(お洒落)であった。 「早雲寺の名宝」図録、町郷土資料館発行
箱根町大平台「姫の水」 箱根町大平台の山腹から、こんこんときれいな冷たい水が湧いている。北条氏の姫君達はこの水を愛で、化粧水とした。そうしたことから、村人はこの水を「姫の水」と呼ぶようになった。 かなしんブックスはこね昔かたりⅡ
「大平台夜話」安藤正平著

小田原市(神奈川県)

逸話・伝説等 概要 根拠
火牛の計 相模の国の支配を考えていた早雲は、小田原城主の大森氏に進物を送るなどし、油断させ「箱根山で鹿狩りをしたいので、箱根山に入らせてほしい」と頼み、大森氏の領内に入り、千頭もの牛の角に松明をくくりつけ、大軍と見せかけ、小田原城を手に入れたと伝わる。現在では創作という説が有力である。 小田原市史通史編
氏康大砲の音に驚き自害(未遂) 砲術訓練を見ていた氏康は、大砲や鉄砲などの大きな音に驚き、気を失なった。気を取り戻した氏康は「家来の前で恥をさらしてしまった」と思い、自害しようとしたが、それを見た家来に「初めて見るものに驚くのは当然のこと。恥ではなく、あらかじめ心構えをしておくことが大切である。」と忠告された。氏康は心構えを大切にし、常に堂々としていたといわれる。 北条五代物語
氏直の軍法 北条氏直は、豊臣秀吉の軍勢に対し、籠城することとした。豊臣軍は昼夜とわず攻め続けるが、城郭が堅固で攻め落とすことはできなかった。小田原城は、東西五十町、南北七十町、めぐり五里(実際には約9km)に及ぶ大城であり、総構として堀を掘り、堤の上には偵察の櫓を構えていた。また、所々には特に高い物見台を設け、夜は要所に設けられた番所から弓、鉄砲を隙なく放つことにより敵を近づけなかった。更に、総構を巡りながらの警固も行っていた。氏直の軍法は、各々の守備の持ち場が夜中に攻められたとしても、他の持ち場から加勢をしてはならない。いずれの持ち場も人数を多く配置しているので、慌てて散乱してはいけない。昼間は警固の者以外は、籠城で退屈しないようにおもいおもいに心身を休めるよう心掛けよというものであった。よって、昼は、碁や将棋、双六で遊ぶ陣所や酒宴をしたり、乱舞に興ずる陣所もあった。
民に対しては、当年分の米のみを支度すれば、余った米は市で売ってもよい。来春には、全ての民に俸禄を与えるという旨の高札を立て、万民に至るまで乏しくなることはなかったといわれている。
また、小田原城の総構が堅固だったため、小田原合戦に参陣した諸将が自らの城下にも取り入れたといわれており、豊臣秀吉が天正19年(1591)に築かせた京都の御土居(おとい)も小田原城の総構を参考にしたといわれている。
北条五代記
「小田原市史 別編 城郭」
北条家旗馬印 氏直の時代、関八州の武士の旗は家々に伝わる紋を表し、その旗は自分自身を表していた。周りに自分の旗の紋と似ているものがあれば由来を尋ね、分不相応な紋を掲げていると嘲られた。氏康は、赤旗十本と三鱗の大きな四角形の旗、馬印は五色旗を用いた。氏政は、白地に「鑊湯無冷所」という五文字を掲げた。氏直は、金地に「無」の一文字を掲げた。 北条五代記
氏政・氏照の最期 無血開城の和談により、数万の籠城衆を退かせ、氏政、氏照は7月9日に城を出て、医者の田村安栖の宿所に移ったが11日には、切腹せよと検使が訪れ、兄弟は自害することとなった。介錯は弟の氏規が行い、介錯後すぐに氏規も自害しようとしたが、家康より派遣されていた井伊直政に取り押さえられ、思い留まった。その際の混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、なだめすかして取り返した。若輩ものだが、主人を思う志はあっぱれということで、家康に目通しがかなった。 北条記
風魔小太郎 関東諸国が戦乱の地と成り果てていたところ、「乱波(らっぱ)」と呼ばれる者がいた。盗人ではあるが、才智を有しており、その謀計策は武士にも通じるところがあった。北条氏直は、200人ほどの乱波を有し、その中に風摩(かざま)と呼ばれる者がいた。この200人の徒党は、四手にわかれて悪天候の夜でも、武田勝頼の陣場へ忍び入り、生け捕りや、相手方に紛れて鬨音を上げ、陣を動揺させ味方同士で斬り合いをさせるなど、混乱させた。
頭領は代々「小太郎」を名乗り、とくに有名な5代目小太郎は、たけ7尺2寸(約2m18cm)、手足の筋肉荒々しくむらこぶあり、目は逆さまに裂け、黒髭で、口は両脇に広く裂け、牙4本が外に出ていた。また、頭の形は福禄寿に似て鼻が高く、声を高く出せば、約5.4km先まで聞こえ、声を低く出せば、かすれた声ではっきり聞きとることは難しかったといわれている。
風魔を討とうと、一党の中に紛れた者がいたが、「立ちすぐり、居すぐり」で見破られたという。
北条五代記
北条家と外郎家 外郎家の祖先は元の役人で、足利義満の招きで朝廷に仕えた。渡来時に持ち込んだ丸薬は「透頂香(とうちんこう)」の名で京都で評判となった。豊富な知識と経験から外国使節の接待役も務め、もてなしの菓子として創作したのがお菓子の「ういろう」の始まり。
永正元年(1504)、外郎家は北条早雲の招きにより小田原へ移り住んだ。医療技術を買われただけでなく、商人、外交官など様々な役割を担っていた。さらに、大陸の知識と情報力に長けたことから軍師として北条五代に仕え、小田原合戦の籠城戦にも参戦した。北関東などに薬を提供しながらその土地の情勢を聞き出し、戦の動向を計る諜報活動に関与していたことを知る人は少ない。
戦国武将には透頂香は万能薬、武運長久の御守りとして重用され、北条家二代氏綱にも進上された。薬とお菓子の「ういろう」は、伝統を守る外郎家で代々作り続けられ、現在の二十五代当主まで受け継がれている。
小田原市史、外郎家伝承
虎朱印 虎の朱印は個人の印ではなく、公の権力であることを示す、今の公印のような使われ方の極めて早い例として有名で、二代氏綱から五代氏直までずっと同じものが使われ続けた。
北条の当主は、合戦の時も馬の鞍に印を括り付けて出陣したといわれ、当主以外は押印することができなかった。
学研「新説北条五代」
(下山治久氏ほか)
御用米曲輪の発掘調査 近年、小田原城天守閣の近くで、当主のものと思われる館の跡が見つかった。わざわざ三浦半島から鎌倉石(凝灰質砂岩)を切出したり、箱根の安山岩を加工している途中の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)をふんだんに使い、池の護岸や切石敷きの庭園遺構に用いるなど、全国的にも特異な庭が造られていた。しかし、江戸時代には埋め立てられ、幕府の命令により小田原藩が米を蓄え管理する米蔵が建てられていた。御用米曲輪とは、その時の名称である。 文化財課
北条氏綱と鰹 天文6年(1537)夏、北条氏綱の乗り船に鰹が飛び込み、氏綱がこれを「勝負にかつうを」として縁起が良いと喜び、この後の上杉朝定との合戦に勝って武蔵への進出を果たしたことから、出陣前に鰹を食すことが吉例となった。 「北条五代記」
国立国会図書館
「本の万華鏡」
弁財天を勧請 氏綱が使者として派遣した家臣が、帰路に浅草寺に立ち寄り、弁財天堂から銭が涌き出て大変な騒ぎになったということを氏綱に言上した。蓮乗院の長老曰く、「浅草寺は推古天皇の御世に草創されたもので、本尊は聖観音、関東最初の伽藍である。今の世は、国家乱逆の最中で民は困窮している。そこで、大慈大悲の功徳により、人々に富を与えたのだろう。弁財天は、観音様が姿を変えたもので、北条家守護のご本尊とすべき」と演説した。これにより、北条氏綱は、城北の堀の内へ、江の島の弁財天を勧請し、当城の鎮守と崇めたといわれている。 北条記
文化人氏綱、酒呑童子絵巻を制作 酒伝童子絵巻(サントリー美術館所蔵)は、氏綱が制作を依頼し、狩野元信、三条西実隆ら著名な京都文化人の手により享禄4年(1531)に完成した3巻の絵巻。氏綱の京文化への思いを示し、また氏直の妻督姫(家康の娘)はこの絵巻を再婚先の池田家に持参していることから、北条家の家宝だったといわれる逸品である。
制作を京都の文化人たちに依頼する折、取り次ぎの任を担ったのが外郎家で、実隆公記にも記されている。制作から200年後の江戸時代、市川團十郎により創作された「外郎売」の早口台詞にもこの絵巻の登場人物名が出てくる。氏綱の思いは形を変えて小田原に残っている。
実隆公記、小田原市史、後法成寺関白記

八王子市(東京都)

逸話・伝説等 概要 根拠
戦上手な北条氏照 北条氏照は北条氏の中でも戦上手とされた。氏照の兄氏政が下総結城城を攻める際に、部下に出した指令書の中で「陣を敷くときは氏照の陣取りを手本にするように」と記している。 「天正五年七月十三日付北条家朱印状」(内閣文庫所蔵豊島宮城文書)
敵方から恐れられた氏照 石田三成が宇都宮氏に上洛をうながすために手紙を送った中で、「上洛を延ばしているうちに、北条氏照が先に上洛していろいろと話をされると、(あなたの)ためにならないだろう」と記している。 天正十七年推定の三月十一日付石田三成書状(宇都宮家文書)
レースガラスの出土 八王子城跡の御主殿跡(氏照の居館地区)の発掘調査で、ベネチアのレースガラスが出土している。戦国時代の城から出土したものとしては唯一。入手経路は不明。 発掘調査
北条氏照と武田勝頼の鑓合わせ 永禄12年(1569)、武田信玄は北条領に進軍、小田原へ向かう途中、氏照の居城滝山城(八王子市)を攻撃した。その際、氏照は二の丸で自ら鑓をとり防戦、武田勝頼と鑓を合わせたという。 『新編武蔵国風土記稿』滝山城跡の項(引用元は『甲陽軍鑑』)
八王子城は安土城がモデルか。 天正8年(1580)、氏照は織田信長に使者を派遣している。使者の間宮は安土城を目にしているが、その後の八王子城築城に関わっているとみられており、安土城をモデルとした可能性がある。 使者の派遣については『信長公記』に記載あり
サイカチの樹 北条氏照が八王子城を築城したとき、甲州方面からの攻撃に備えて、逆茂木に利用するためのサイカチの樹を植えさせたといい、その樹が江戸時代の頃はまだ村に残っていたという。 『武蔵名勝図絵』上椚田村の項
月夜峰 八王子市横川町に月夜峰という地名がある。北条氏照がこの地にて月を眺めたことからついたとされる。 『武蔵名勝図絵』元八王子村の項
笛継観音の伝説 北条氏照の家臣浅尾某は横笛の名手で、氏照から秘蔵の横笛を預かったが、誤って壊してしまった。そこで当地の観音様(現八王子市小宮町東福寺境内)に祈念したところ、全く元通りに直っていた。そのことを知った氏照から、浅尾某は「笛彦兵衛」との名前をいただいた。その後八王子城の戦いの折、笛彦兵衛は討ち死にし、秘蔵の横笛も焼失した。 『武蔵名勝図絵』小宮領の項
狭間の獅子舞 市指定文化財である「狭間の獅子舞」は、北条氏照から拝領されたものと伝わっている。 個人蔵の文書

川越市(埼玉県)

逸話・伝説等 概要 根拠
川越夜戦と謎の美少女の正体 天文14年(1545)秋頃、3代氏康の義弟で家臣の北条綱成が守る河越城は、扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏の連合軍約8万に包囲された。籠城を続ける中、翌年4月上旬には、ようやく氏康が約8千の兵を率いて河越城近くまで到着した。しかし、多勢の連合軍の前に、城内と連絡を取ることもできなかった。
そこへ登場したのは、長い黒髪をはためかせ、艶やかな化粧をした美少女であった。美少女は、城を幾重にも取り囲む連合軍の真ん中を単騎で突き進み、連合軍があっ気に取られる中、城内へと入った。
美少女の正体は河越城に籠城する綱成の実弟、福島弁千代であった。危険を顧みず自ら志願し、美しい容姿を駆使して城内に入り、綱成に氏康の命や作戦の合図を伝えたのであった。弁千代の果敢な行動に、城兵らは大いに勇気付けられ、城の外の氏康軍と心を合わせ、夜襲という奇策を成功させたといわれている。
関八州古戦録
北条氏康と北条綱成兄弟 福島弁千代は見事河越城への使者としてそれを全うした。それにはこんな裏話が。河越城への命がけの使者を誰が務めるかというときに、弁千代が氏康に進み出て「主君の恩に報いるため、兄の綱成のため。他の者に任せられません」と必死に訴えたのである。氏康は涙を流しながら、盃を与え、それを認めたという。氏康の人柄を表すエピソードである。 関八州古戦録
勝ってもいないのに勝った勝った 河越夜戦の勝利に大きく貢献した北条綱成には、野戦で必ず使う必勝法があった。綱成は大将であるのにも係わらず先頭になって「勝った勝った」と雄叫びを上げながら突撃した。まだ勝ってもいないのにである。これには味方も奮い立ち、川越夜戦の際も敵方は総崩れ。常勝を誇る綱成の地黄八幡の旗を見ただけで敵は戦慄して意気消沈したという。 名将言行録
甲首の夜盗虫 昔、夜盗虫と呼ばれる虫が大群で飛んでくると人々は三回大声で「弁千代」と呼んだ。すると逃げ去ったという。夜盗虫は河越夜戦で討たれた連合軍の怨霊。「弁千代」は勇ましい功績をたてた北条方の少年といわれている。 川越の伝説
北条早雲と大道寺重時 京都から駿河国に下向した北条早雲と大道寺重時ら七名が約束を交わし、この七名の中で最初に城主になった人に、残りの六名が家臣になるというものであった。早雲が最初に駿河国興国寺城主になったので、重時は約束どおり北条早雲の家臣になったということ。 伝承
河越夜戦(首塚) 宝永年間(1704~11年)に崩したところ髑髏が300~400程掘り出されたことから天文年間(1532~55年)の古戦場に間違いないという。 「川越索麵」
難波田憲重にまつわる話 扇谷上杉氏の重臣として天文10年(1541)の北条氏綱の病死を機として河越城攻略に乗り出すが、後を継いだ北条氏康に阻まれた。その後、山内上杉氏の当主で関東管領・上杉憲政の片諱を受けて「正直」から「憲重」に改名したとする説もある。
憲重の工作が奏して、天文14年(1545)に両上杉氏に古河公方・足利晴氏を加えた連合軍が後北条氏の河越城を包囲するが、天文15年(1546)の河越城の戦いにおいて古井戸に落ちて死去したと伝えられる。憲重の死とともに扇谷上杉氏は滅亡し、難波田氏は没落した。
小江戸川越まち歩き公式ガイドブック
IN検索システム:Google
牛頭天王の霊験 川越市にある平野神社の祭神は牛頭天王で北条氏康の建立という。天文年間の合戦中に陣中で病人や使者が続出。氏康が神の御加護を念じて祈った結果、再び活気を取り戻し大勝することができたという。なお、北条の陣はこの神社付近にあったという。 「志村家文書」
赤間川の名の由来 名の由来のひとつとして、河越夜戦の折に討たれた夥しい数の連合軍兵士が流した血によって川が真っ赤に染まったからというものがある。 伝承

寄居町(埼玉県)

逸話・伝説等 概要 根拠
氏邦の愛したみかん 天文20年(1551)春、花園城主15代藤田康邦の息女大福御前に、小田原城主3代北条氏康の4男乙千代を迎え、秩父天神山城に居住させた。
その後、鉢形城に移り、北条氏邦と改名した。
この時氏邦は小田原より持参したみかんの苗を鉢形城内に定植し、異郷の慰めとしていたという。
天正18年(1590)、鉢形城開城の際、寄居町風布地区に土着した家臣がそのみかんを移植したといわれている。
それが現在の鑑賞用生花としても利用されているフクレミカンであり、そのみかんが観光みかん園として受け継がれている。
寄居郷土文化会発行「郷土の歩み」より
稚児岩(ちごいわ) 北条氏政に仕えた1人の青年武士は氏政夫人の腰元として仕えた容姿端麗な美しい乙女と心通わせるようになった。氏政夫妻は二人のロマンスが城内の騒ぎになると、熟慮の末、弟氏邦の鉢形城へ預けることになった。
青年武士は氏邦の側近に、乙女は夫人の大福御前の女中としてそれぞれ起居を共することとなり、しだいに二人はこっそり城内を抜け出し、会うようになった。
正式の夫婦でない2人であったが、乙女は妊娠してしまう。
ひそかに2人は城を抜け出し、深沢川の上流へと足を運んだ。
2人はやがて寒さと疲れで動けなくなり、車山(くるまやま)が見える平らな岩の上に腰を下ろしてしばし休んだ。そのうち、乙女は産気づき、玉のような男の子が産声を上げて生まれたという。
それに気付いた農婦は自分の家に一同を案内し世話をした。
郷人はこの岩を稚児岩と名付け現在まで伝わっている。
伝承
鉢形衆~「黒備(くろぞな)えの軍団」~ 秩父衆、荒川衆などの大小の武士団をもって統合された氏邦配下の家臣団は「鉢形衆」と呼ばれ、氏邦の定めた軍法によって厳しく統制されていた。甲冑、羽織などの装備と装束はその色を「黒」で統一することとされた。「黒備えの軍団」として黒い旗印を背負った軍団が、氏邦と共に数々の戦場を走り回ったのである。 北条氏邦印判状(逸見家)

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