最終更新日:2015年07月02日
JR小田原駅の改札口の頭上、小田原市のシンボルとして特大の小田原提灯がつられている。しかし、その小田原提灯、探してみても詳しい文献がまったくといっていいほど残っていない。江戸時代中期に小田原の甚左衛門(じんざえもん)という提灯職人が考案、道了尊(大雄山最乗寺)のご霊木を使い、魔除けとなり旅人を狐狸妖怪(こりようかい)から守った。竹ひごを丸から角にし、火袋の竹ひごと和紙の接着面を広くとることによって耐久性を持たせている。懐(ふところ)提灯、袂(たもと)提灯といわれるように、蛇腹でできた火袋を畳めば上ぶたにすっぽりとコンパクトに収まり、携帯性に優れていると3つの特徴を伝えているが、これらの特徴は後で加えられたと見る説もあり、定かではない。
円筒形で火袋の蛇腹を折り畳むとすっぽり上ぶたに入る筥(はこ)提灯の歴史は、小田原提灯より古く、文禄年間まで遡ることができる。その中でも駕籠(かご)屋提灯は駕籠の前後につるされ、駕籠の動きに合わせてゆらゆら揺れるのでかなり補強されているが、江戸時代の古い提灯を見る限り、小田原提灯の原型はこのあたりにあるようだ。享保年間より小田原の土産提灯として売られていたようだが、これも喫煙具と同じ嗜好品として、真鍮の打ち出しがあったり、竹の編み込みがあったりと、色々なデザインのものが存在した。当初は携帯用提灯だったが、机の上などでも使えるように工夫され、大正時代の中頃から懐中電灯にその座を明け渡すまで、小田原提灯は日常的に使われていた。
その小田原提灯を、今でも作り続けている山崎勇さんに話をうかがった。
―山崎さんはおいくつですか?
お生まれは小田原ですか?
今69歳、もうすぐ70歳だけどね。生まれは市内の大友っていうところだよ。
―お店の前の通りはかつて大雄山への参道だったそうですが、まだ面影は残っていますか?
もう、あんまり残ってねぇな。ちょっと向こうに碑があるんだけど、それくれぇだな。
馬の蹄鉄(ていてつ)を打つような商発もあって、今でも金靴屋とかって、当時の商売で呼んでんだけどな。
―山崎さんは初代から数えて何代目になりますか?
初代は明治の初めの頃からで、四代目になるらしいんだけど、わかんねぇけどな。三代目に子どもがいなかったので、家内が18歳の時に養子に来て、その後に私が婿養子に来たからね。
右:真鍮をたたいて作られた小田原提灯 左:竹を編み込んで作られた小田原提灯
―初代から提灯屋だったのですか?
それがわかんねぇんだな。どうも唐傘のほうが本職だったような感じだね。もう捨てちゃったんだけど、唐傘の型が残ってたりしたんでね。祭リが近くなってくると、提灯作りとかその修理とか、頼まれてたまにやってたんじゃねぇかな。
―三代目の頃は提灯一本だったんですか?
いや、提灯よか唐傘の方がうんと作ってたけどね。徐々に唐傘の注文も無くなって、お祭りも下火かなんかで提灯だけではちょっとやっていけなくなってね、色んな仕事をしてたよ。私が来たころは、提灯よか大雄山の小さな箱を作ったり、自動車の金属部品を作ってる方が多かったよな。昔はさ、今みたいに車があって遠くから仕事が来るとか、そんな時代じゃなかったからさ、これだけじゃ食っていけねえもの、二つ三つ仕事をかけ持ちしないとやっていけなかったんじゃねぇかな。昔よか、今の方がよっぽど提灯やってんじゃねぇの。昔の帳面とか見てると、こんなもんかって思うことあるよ。
昭和初期の小田原提灯。かなり華奢な作りだが、小田原提灯の原型をよく残している。新潟県より出稼ぎにきた職人が持ってきたものと想像できる。
―山崎さんは実家の鉄工所の仕事をするかたわら提灯の仕事もされていたそうですが、提灯を専業にされた理由は?
若いころは弁当を持って実家の鉄工所の仕事と、帰ってから提灯の仕事を毎日やってたよ。忙しい時はどっちも忙しいからどうしようもねぇんだよ。すごい働いてた時期があってね、それでかどうか心筋梗塞になってさ、心臓のバイパス手術をやったんだけど、昔だったら大変だよ。こっちじゃ間に合わないから、東京の大学病院でやってもらったんだけどね。その病院にいたのは1か月半くらいで、こっちの病院に帰ってから夜はどうせ暇だからって、家でちょっと仕事してくらぁって病院を抜け出して、仕事しに帰ってたよ。それくれぇやんねぇとね。ねぇときはねぇけど、そのころはうまく仕事もあったしさ。それから重いものは駄目だって言われたし、結局それが理由だね。
―提灯屋さんの軒数も以前に比べるとずいぶん滅っているんですか?
半分以下でしょうね。以前は小田原でも10軒くらいあったよね。今は2軒くらいしかねぇけどさ。三代目がパートさんを使って別の仕事を始めたから2階で提灯の仕事は細々とやってたんだけど、そんなわけで知ってる人は提灯の仕事をもって来てくれたけど、知らない人も多かったんじゃないかな。三代目が亡くなってまた仕事場を下に移したら、知らなかったってまた徐々に口コミで増えてきて、周りの町からももって来てくれるようになってね。営業も行ったことねえし、行き方もわかんねえし、電話帳にちょっと大きく手作り提灯承りますって書いて、そしたら、「電話帳見たんだけど」って来てくれて、今じゃロコミでね。うちでホームページを出してるわけじゃなくて、小田原市地場産業振興協議会のホームページで出してくれて「ホームページを見ました」って来てくれるよ。
―提灯屋さんは骨組みから文字入れまですべての工程を一軒でされるのですか?
唐傘は全部作ってたようだけど、提灯は昔から分業だからね。提灯屋は描くのが提灯屋だからね。みんなできるんだろうけどさ、一人だけいい思いするんじゃなくて、みんなで仕事を分けてたんじゃねぇの。今でいうワークシェアリングみたいなもんだよ。その方が仕事も早いと思うよ。人がやってることだから、やろうと思えばみんなできるんだと思うけどさ。うちでは小さい小田原提灯だけは全部やってるけどね。
―一人前になるにはどれぐらいかかりますか?
やっぱり10年や15年はかかるんじゃねぇの。それくらいやらないと自信がつかねぇんじゃねぇの。東京では芸大(東京芸術大学)のアルバイトなんかが描いてるけどさ、やっぱり上手くは描くよ。でも、すげえ時間がかかるけどね。字も決まってるように見えて、細くしたり太くしたり幅を広げたり、地域によってもちょっとずつ違うんだよ。自分の好みもあるし、お客さんの好みもあるので、それに合わせて描けるようになるには時間がかかるね。
もっとも一般的な小田原提灯。お土産や記念品として根強い人気を持っている。
―ここは人に任せられないっていうところはありますか?
まあ、そうだな。一人ひとりみんな違うよ。みんな職人だからね、自分のが一番いいと思ってんじゃねぇかな。
―提灯作りで一番難しいところはどこですか?
やっぱり文宇描きだね。昔の字とかね、調べてみねぇと読めないものもあるんだよね。それに画数の多い字や少ない字も、提灯の大きさやバランスを考えて描かないといけないから難しいね。うちの小田原提灯は、踊りとかに使う人がいるからちょっとごっつく作ってんだよね。ほんとはもう少し華奢(きゃしゃ)なんだけどね。
―小田原駅の大きな小田原提灯は、今から何年前に製作されましたか?
平成15年だから、今から8年前だね。小田原の商工会議所からの依頼で作ったんだよね。
―あんなに大きな提灯の製作は初めてですか?
大きい提灯は今までにもいくつも作ってるね。10か20センチの違いだけどね、それでもあの提灯が一番大きいね。
―あの小田原提灯の大きさは?
直径は2メートル50センチぐれえだね。長さはだいたい直径の倍なんだけど実際は4メートル50センチくらいで、上下の桟も入れると5メートルくらいになるね。重さは200キロくらいだね。ワイヤーとか金具で補強してるからね。
―特別な工夫はされていますか?
ワイヤーと金具もそうだけど、人通りの多いところに吊りっぱなしだからさ、建物が壊れりゃわかんないけど絶対落ちないようにしてんだよ。胴の骨も一番上と一番下は鉄骨が入ってんだよ。提灯を作るときはまず型を作るんだけど、以前に鉄工所で仕事をしていたのが役に立ってるね。それと、よく見るとわかるんだけど、つったまま修理できるように下から人が入れるようになってんだよ。それから、和紙もね、山梨まで探しに行ったんだよ。手漉(す)きの和紙で一番厚いのを使ってんだよ。2メートル×1メートルの大きい和紙でね、人間国宝になるような人が漉いた和紙だっていってたよ。それを二重に貼ってる。
小田原駅につられている小田原提灯
提灯に文章や柄を描くとき、形が崩れないように中から張りを出すために使う。提灯の大きさによって様々な長さのものを使い分ける。
―どれくらいの製作日数がかかりましたか?
あんまり工期がなかったから、3人で一生懸命やって2か月くらいだったね。竹は割いてもらったけど、それ以外はみんなうちで作ったからね。
―ご苦労はありましたか?
いくつ作っても楽にできることはないね。何が苦労だったか忘れたけど、小田原提灯としては今までで一番大きなものだからね。作ってるときは無我夢中でね。色々なところで色々なものを見て、それで見当をつけて作るんだけど、それが一番大変だったね。作る前に愛知県の一色町(いっしきちょう)ってところに提灯を見に行ったんだけどさ、あっちの方が全然大きいね。楽しみながら行ってるからいいけどね。下調べが一番苦労だね。若いころから色々なことをやったから、今になってそれがみんな生きてくるよね。今でも山車の車輪を頼まれて修理したりしてるよ。
―提灯はどれくらいもつものなんですか?
一概にどうとは言えないけどね。濡らさなきゃ30年ぐらい使えるみてぇだね。油を引かなきゃね。みんなだいたい中だけ新しくするんだよ。上下はそのままでね。修理に持ってくる提灯の中には50年以上前のものもあるよ。みんな張り替えて使うからね。うちで作った提灯を長く使ってくれるのはうれしいけどね。小田原提灯だって簡単に張り替えられるように上下四か所くらいしか止まってねぇんだよ。だから、昔から型は変わんないよ。
奥様と長男の高史さんも提灯作りを手伝っている。
―色々な地域から注文があるようですが?
山梨だったり山形だったり、新潟だったり石川だったり、けっこう色々なところから注文をもらってるね。大阪から来た人なんか東京に一泊して、お土産まで持ってきて注文くれたり、名古屋の人なんか毎年作ってくれたりね、82歳なのにヒマラヤヘ毎年トレッキングに行ってて、もう歳だし今年で最後になると思うから、お世話になったポーターさんに土産に持って行きたいから作ってくれとか、いろんな人がいるなって思ってね。まあ、お金じゃねえな。
―後継者は?
難しいね、需要がねぇからな。うんと儲かりゃ息子もやるんだろうけどな。いいとこ勤めりゃそっちの方がよっぼどいいしさ。私だってこの家に来て提灯屋を継ぐとは思ってなかったからな。同業者が多いとお互いにやってけないね。祭りの役員さんもあんまり替わんねぇからさ、伸良くなるし、なおさら値段も上げられねぇんだよな。東京あたりから比べると2、3割安いんじゃないの。それに最近は印刷も増えてるからね。修理や数の少ないものだったら手書きでもいいけど、数があると印刷の方が安いからね。よっぽど面白い宇を書くとか、そんなでもなければ率の悪いのだけ注文が来るようになるよな。
―これからはゆっくりと暮らしていきたいとか?
要領もよくなって、作るのも早くなってるからね。それに、もう、だんだん目もおかしくなったりだからね。よっぼどじゃないと夕方には仕事は終えてるし、午後から時間があると、ふらっと近場に出かけたりもするんだ。仕事が無いとそれはそれであんまり出かける気にもなんねぇし、今くらいの方がかえっていいね。若い頃は忙しくってね、ミニ提灯もいっぱい売れたし。それに病気をしてからは、医者に「今までのようにしてちゃもう駄目だよ」って言われて、それでもう仕事も程々にするようにしたよな。年に2回ぐらいだけど遊びに行くようにもなったしさ。家内が山登りが好きで、帰ってきて話しをするもんだから、私も病気してからリハビリのつもりで一緒に行くようになったね。それでも不思議なもんで多くもなく少なくもなく上手く仕事って入ってくんだよな。昔から無けりゃ無いようにしてきたからね、無くても平気なんだけど。病気のお陰だね。そうでなきゃ、欲ばっかかいて今でもガツガツでね。あまり欲を出さないのがいいんじゃねぇの。友達とかにも恵まれてっからねぇ。
江戸民具街道の秋澤達雄館長より、小田原提灯について大変詳しくご教授いただきました。ご協力ありがとうございました。
「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。
発行:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・.小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
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