ひとつ作った先に、新しいものが見えてくる。
貞享3(1686)年大久保忠朝(おおくぼただとも)に従属し、佐倉藩を経て小田原の鍋町に移り住んだ柏木家が、元禄15(1702)年から鋳物業を営み、明治24(1891)年、柏木民治郎の時代に、山田治郎左衛門の東京転出に伴い、山田家の鋳物設備を居抜きで譲り受け、鋳物生産量を大きく伸ばした。
日陰で育った木だって、うまく使ってやりゃ銘木になるんだよ。
銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古い写真、絵図などを参考に、石垣による桝ます形、内仕切門及び 櫓やぐら門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、当時の形式と本来の工法により、平成9年に復元された。
この復元工事の棟とう梁りょうとして白羽の矢が立ったのが、その8年前に銅門への通路にあたる住吉橋復元工事の棟梁を務めた、芹澤伸明氏である。
おだやかに暮らしてりゃ、仕事も自然にくるよ。
JR小田原駅の改札口の頭上、小田原市のシンボルとして特大の小田原提灯がつられている。しかし、その小田原提灯、探してみても詳しい文献がまったくといっていいほど残っていない。江戸時代中期に小田原の甚左衛門という提灯職人が考案、道了尊(大雄山最乗寺)のご霊木を使い、魔除けとなり旅人を狐狸妖怪から守った。
ほんと、根気ですね。
一年二年で諦(あきら)めてちゃ なんにもできないですね。
淡路島をルーツとする人形芝居は、その興行によって全国に広がり、地方では、主に農家の跡取りの娯楽として各地に定着した。
神奈川県内には15座の人形芝居があったが、人形のカシラの構造や人形の操作方法など類似している点が多く、これらの人形芝居を総称して相模人形芝居と呼ばれている。
これで満足ってこたぁ、一度もねぇなぁ。
箱根・小田原の木工と聞けば、寄木細工と答える人がほとんどだが、もう一つ木象嵌という細工がある。制作工程はそれぞれ違うが、特徴として寄木は直線的な幾何学横様に対し、木象嵌は別名木画とも呼ばれるくらい絵画的である。
糸は生き物。息してるんですよ。
だから糸と会話しながら作品ができていくんです。
誰かに頼まれたわけでも、まして儲かるわけでもない。それでも気の遠くなるような時間をかけて、作り続けてきた。と聞くと、どれだけ巌しい人かと想像するが、足柄刺繍作家上田菊明さんは温和な笑顔でいつも優しく迎えてくれる。苦境に耐えてきた人間の怖さを感じさせない。しかし話し始めるといつも、その言葉は強く自信に満ちていた。