小田原市

技人

技人vol.12【塗師】池谷元弘

これしかない、ここしかない、これきりない。

「japan(ジャパン)」と西洋で称される漆芸品は、16世紀後半ポルトガルによってヨーロッパに伝えられ、漆が持つやわらかな光沢は、神秘的な日本の美を代表する工芸品となった。ポルトガル人の通訳ジョアン・ロドリゲスは、『日本教会史』の中で、「漆の木は日本以外に中国、ベトナム、カンボジア、タイにもある。しかし、日本人はこの技術に卓越していて、この漆でいろいろなものを作るが、それは光り輝く清らかな革でできているかのように見える。」と記している。
漆芸品は、中国の揚子江下流から出土した約7千年前の漆椀わんが最古とされていたが、平成12年、北海道の南茅部町(みなみかやべちょう)(現・函館市)垣ノ島B遺跡から漆で塗られた副葬品が大量に見つかり、年代測定の結果、約9千年前のものと判定され、漆の文化や発祥地などの定説を覆す新たな発見となった。
小田原漆器と呼ばれる小田原の漆芸品は、室町時代中期、箱根山系で切り出した木をろくろにかけて、お椀などの器に削り、それに生漆を塗ったのが始まりとされている。ゆがみが少なく木目が美しい欅(けやき)の木地に、漆をすり込むように何度も塗っては乾かす「すり漆塗」と、生漆を繰り返し塗っては乾かし最後に研いで仕上げる「木地呂(きじろ)塗」があり、いずれも木地の木目の美しさを残した塗りに特徴がある。
―池谷(いけや)さんは何年のお生まれですか。
昭和7年の1月です。だから、もう82歳です。
―お生まれは小田原ですか。
いえ、山梨県の道志村というところです。
―ご実家はどのようなお仕事をされていましたか。
私の父親ってのは木挽(こびき)だったんです。今ではトラックとかヘリコプターに積んできちゃうけど、当時はそんないい道路がなかったんで、山で大きな木を倒して、それを板にして運んできたんだね。そんな仕事をしてました。それと炭焼きだね。のこぎりの目立てなんか自分でやって、木挽きでは名人の方だったね。それから木鉢を作って村中に配って歩いたり、そういうことをしてましたね。しかし、そういうことは産業にはつながっていなかったですね。ただ、木挽きは家を建てるときに木が欲しいとかで、あちこちから頼まれてね。でも、暮らしは自給自足みたいなものでしたよ。
―池谷さんは15歳のときに小田原で弟子入りされていますが、そのときすでに塗師(ぬし)になると決めていたのですか。
全然そんな気はなかったですね。まだ、子供でしたからね、あれをやりたいとか何になりたいとかなかったですね。たまたま道志村の近所の人が、小田原で漆塗りをやってたんです。そこで、弟子が欲しいというんで村を探したら、師匠ってのは仕事好きで厳しかったから、そこに行って辛抱できる子供っていうとあまりいなくて、結局、私に白羽の矢が立ったんだね。うちの親父が厳しかったから、あそこの子供なら大丈夫だろうというのと、親父もそこに行けと言うので、弟子入りすることになったけども、それまで漆なんて聞いたこともなかったね。
―漆のかぶれは慣れてくるものですか。
師匠のところにきたのは、昭和22年の3月22日ですけど、2日か3日、品物をあっちに運んだりこっちに運んだり、そういう雑用をしてたんだね。そしたら「おまえ、かぶれねえなぁ」、「それじゃ、ちょっとやってみろ」っていうことで仕事を始めたんですよ。そうしたら、翌朝になって、これ、おれの顔かなっていうくらい漆にかぶれて腫れてね、40度近い熱が出ることもあったし、大変でした。今はゴムの手袋があるじゃないですか。昔は軍手しかないんです。軍手だと漆が染みてきちゃうでしょ。じかに漆を触ったその手で風呂に入ったり、顔を洗ったりすると、かぶれちゃってすごかったです。恥ずかしくて表なんか出られなかった。爪の間だって真っ黒だった。映画を見に行ったってお釣りをもらうんだけど、恥ずかしくって手を出して取れないんだよ。みんなに「何やってんの」って言われたね。かぶれがひどいときは、仕事が終わってから海に泳ぎに行った。夏は気持ちがいいし、治りが早いような気がするんです。海の水はいいみたいですね。
かぶれもそのうち慣れてくるんですね。免疫になっちゃうんです。それが、すぐなるわけじゃないんだけど、かれこれ一年近くかぶれては治り、治ってはかぶれ、また治りして、今から考えると、一度春夏秋冬を通らなきゃだめかな、なんて思ったりしてね。中には強い人がいて、全然かぶれない人もいるんです。私の兄貴なんてね、私が仕事をしてるところで漆に触ったって全然かぶれなかったもんね。
蕎麦のせいろを塗り直す様子

蕎麦のせいろを塗り直す。こうして修理しながら大切に使うと100年近くもつ。

―当時、師匠の仕事の教え方はどうでしたか。
とにかく教えてくれるってことはないのね。自分で覚えろとも言わなかったし。師匠はおっかなかったから、聞くってこともできなかった。ただ、まねをしてただけで、本当に教わったってのはないんだね。ただ一つ、漆は湿気がなければ乾かないってことぐらいかな。乾燥させるために風呂っていうところに入れるんだけど、中は霧吹して湿してそれから入れるんです。夏は暑すぎてまた乾かないんだね。結局、その道で何かに突き当たったときに、これをやらなくちゃいけないのかなと思いながら自分で勉強してね。去年の秋でしたか、曽我の山車を塗ったんです。そのときも金箔(きんぱく)を結構使ったんだけど、金箔を貼るなんて師匠がやってるのも見たこともないし聞いたこともないから、そういうのは全部本を読んだり、実際にやってる人のところで見たりして勉強したね。何でもできなきゃいけないからね。
―独り立ちされたのはいつですか。
昭和36年です。28歳のときでしたね。結婚もそのときしてね。私がこの道に入ったときには5年の年季奉公と1年のお礼奉公、だから6年はただ働きなんです。当時は月給なんかなくて、毎月小遣いを20円もらえるわけです。それで、当時は、映画が7円50銭、床屋が7円50銭、それとラーメンが1杯食べられたんです。遊ぶところもそんなになかったしね。
年季奉公とお礼奉公をした後は、給料ももらえるようになったし、仕事もあてがってもらって、結局、師匠のところには10年お世話になったんですけど、ある日仕事に行ったら「おまえ、今日から自分で仕事やれ」って言われて、その時はどうしていいか分からなかったですよ。
―他の職業にも目移りしなかったですか。
しましたよ。師匠のところを出た後に、小田原の木工所で2年間お世話になったんだけど、社長とけんかして辞めちゃったんです。それで横浜に行って、住み込みで洗濯屋に勤めたんです。そのときは25歳か26歳になってたんだけど、17歳か18歳の連中にいろいろ教えてもらわなきゃいけないわけですよ。自分の仕事だったら負けないのになぁと思ってたけどね。でもそこには1年もいなかったですね。その間に親父がきて、早く小田原に帰って自分の仕事をやれって言われて、その翌年の1月末に親父が寝込んじゃって、2月14日に亡くなっちゃったんですよ。これは親父の遺言かなと思って小田原に帰ってきたんです。
―その後、小田原に戻られて独立されたんですね。
まぁ、何とかなるだろうと思って始めたんですけどね。自分じゃ一人前のつもりだったんですけど、27歳や28歳くらいじゃ仕事をもらいに行っても、周りがなかなか認めてくれなかったですね。石の上にも3年じゃないけど、3年間くらいはあまり仕事がなくてね。生活していて、あと50円しかないなんてときもありましたね。そういう苦労を通り越して、いい人にも恵まれてね。機械を買ったりするのにも金がなかったから、「じゃ、これで買ってこい」って小切手を書いてくれた木工所の社長さんもいたんですよ。「それで機械を買って仕事をやって、その代わりちゃんと成(な)せよ」っていうことでね。毎月貯金して、利息まで持って返しに行ったんですけど、「利息はいらねぇ、元金だけありゃいい」って、利息は受け取ってくれなかったですね。幸いそういう人にも巡り合ってね。それで今があるんです。そのうち仕事を出してくれる木工所が一軒あって、仕事を納めたら「おめぇ、なかなかいい仕事すんな」って褒められて、それからそこの仕事をずっとやらせてもらえるようになったんです。そうしたら、そのうちにあっちからもこっちからも仕事が来るようになってね。
漆刷毛の写真

漆刷毛:ニカワで固めた毛髪を20センチほどの板で挟んだ作りになっている。鉛筆のように端から端まで毛髪が通っている本通しと、半分まで入っている半通しがある。塗るものの大きさや用途によって刷毛の大きさや毛先の形を使い分ける。

―漆ってどんな特徴がありますか。
漆は、直射日光にはあまり強くないんです。でも、漆で塗ったものは100年乾き続けるっていわれてるんですね。漆で塗ったものの上に熱いものを置いて跡がついても、時間がたてば自然と消えてくるんです。それと、漆には抗菌作用があって、24時間経つと大腸菌やO157とかが、ほとんど死滅しちゃうんです。だから、子供のときから本物の漆器を使いなさいってよく言うんだけど、みなさんこういうことをあまり知らないんですよね。実際、金沢工業大学の小川俊夫教授の実験によると、24時間で大腸菌がほぼ死滅してるんです。それに、漆器って使って拭いたりしているうちに色が治まってきたり、いい艶が出てきたり変化してくるわけですよ。漆って本当に不思議な塗料ですよね。
―小田原漆器の特徴を教えてください。
小田原の場合はね、木地呂塗、これが特徴ですね。それと、すり漆塗。見た目には木地呂塗もすり漆も区別がつきにくいようだけど、いずれにしても木目を生かしたような塗りが小田原漆器の特徴だね。
朱塗りもするし、黒塗りもするし、何でもできるんだけど、輪島塗と比べるとやり方がちょっと違うんですね。輪島塗は下地に地の粉を漆でこしらえて、それを下にがっちり塗って、その上に漆を塗るわけね。だから、漆もあんまり使わないです。それで、きれいに仕上がるんです。でもね、それじゃ長く使ってると剥(は)げてくるんです。
―漆塗りの道具を教えてください。
漆を塗るのに、人の髪の毛でできた刷毛で塗るわけです。今使ってる刷毛は埼玉の工房で作ったんですが、大体、成人したくらいから40歳くらいまでの日本人の髪の毛がいいみたいですね。今は、日本人の髪の毛がなかなか手に入りづらいので、髪の毛も中国やモンゴルからの輸入なんですけど、やっぱり食習慣の違いか髪質が違うし、それでは硬い漆は塗れないんです。いろいろな髪の毛を触らせてもらったけど、やはり、日本人の髪の毛はさらさらして腰があるんですね。だから値が張るんです。でも、刷毛はね、長く使っててもなかなか減らないし、鉛筆のように削りながら使うので、ひ孫の代まで使えますから。
木地呂塗の場合、漆を塗って乾かして、ざらざらが出るんでペーパーで磨いて、それからまた塗って、それを17回ぐらい繰り返すんですね。それくらい塗らないと仕上げにならないんです。最後の仕上げは、角粉(つのこ)って鹿の角を焼いて粉にしたもので磨き上げるんですけど、それがなぜか人の手がいいっていうんで、角粉を人の手に付けて磨くんですね。それで磨くと本当にいい艶が出るんです。
それから、はみ出た漆をへらで取るんだけど、それも手作りなんです。檜(ひのき)などの板材をへらの形に切って、塗師屋包丁っていう刃物で、自分の使いやすいように薄く削って形を整えるんです。それも鯨のひげのへらの方がいいんです。それとね、塗ってるときにごみが付いたりするでしょ。節(ふし)っていうんだけど、節を上げるには鶴(つる)の羽がいいんですね。鶴の羽を探してるんだけど、天然記念物だから手に入らないんだよ。そういうことも師匠から教わったんじゃなくて、人間国宝の松田権六(まつだごんろく)さんや赤地友哉(あかじゆうさい)さんから道具を見せてもらって教わったんです。
漆を塗るのは、全部自然のものばかりなんです。化学製品は何もないんです。漆は木から採れる自然のもの、刷毛は人の髪の毛。漆を薄めるときは松根油(しょうこんゆ)って松の木の油と片脳油(へんのうゆ)、片脳油っていうのは樟(くすのき)の油。刷毛が固まらないように漬けておくのに菜種油。漆は、固まれば何を持ってっても溶けないし、分解しないし腐らない。だから、何千年も経ったものが出てくるんです。
―池谷さんは塗りから磨きまで自分でされるのですか。
輪島では、下塗りは下塗り専門の人がいて、上塗りは上塗りで専門の人がいて分業なんですね。私は分業はしないんです。私のところでは、木地以外は全部自分でやります。
へらを削っている様子

へら:檜などの板材をへらの形にカットし、塗師屋包丁という専用の小刀で使いやすい形に整える。へら先のしなりが重要で、木材よりも鯨のひげで作られたものがもっとも使いやすい。

―日本の風土には日本で採れた漆が合うと聞きましたが。
そうなんです。日本でも漆はけっこう採れるんですけど、国宝級のものを修理するためにほとんど国で買い上げちゃうんです。頼めば何とかちょっとは来るけど、そんなにたくさんは買えないね。値段もすごく高いし。この仕事場にある漆は中国産が多いと思いますね。そこの土地で採れた漆を使うのが本当は一番いいんです。私が小田原にきた昭和22年頃は、南足柄の狩野(かの)ってところに、神奈川県で奨励して漆の木を植えてたんです。その漆を、自転車に積んで小田原まで売りにきてましたね。最近、中国産の漆も採る人が少なくなったとかで値上げになったんです。
―中国にも漆っていう文化はあるのですか。
あるんです。中国からきたんだって言われてきたわけですね。でも、日本の学者が言うのに日本から中国に伝わったんじゃないかって言う人もいるんだよね。日本の技術のほうが全然上なんだもん。韓国にも日本から漆を送ってるんです。韓国でも刷毛は「ハケ」、へらは「ヘラ」、漆は「ウルシ」っていうんですよ。韓国に1週間行って実演をやってきたんだけど、そしたらね、韓国の職人が5、6人きて、「いやぁ、韓国じゃこれだけのものはできねぇ」って言ってましたね。


―漆の朱色はどうして作るのですか。
昔はね銀朱、水銀を焼いて粉にしたやつを使ってましたね。でも、食器に銀朱を使うと体によくないんで、私も銀朱は使わないですよ。今はレーキって銀朱とは関係ない顔料を使ってるわけ。お客さんもそういうことを知ってて、「銀朱を使ってるんだったらいらない」って方もいらっしゃるんです。黒は鉄粉なんですね。漆の中に鉄粉を入れて1か月とか2か月とか寝かしておくと、真っ黒な漆ができるんです。鉄粉も鋼のいい鉄粉でないといい黒ができないんです。
塗り方で、朱で塗ったものに下地の黒を出すために磨いて仕上げるのが根来(ねごろ)、その逆を曙(あけぼの)っていうんです。根来っていうのは、朱を塗る場合、中塗りっていうんですけど、必ずっていうほど下に黒を塗るんです。和歌山県に根来寺っていうお寺があって、昔、そこのお坊さんが朱塗のおひつを使ってたら、朱が剥げて下地の黒が出てきたんです。それで、職人にこういうふうな塗りをやってみろって言ったらしいです。それが、根来塗の始まりだと何かの文献に書いてありましたね。
―池谷さんは蒔絵(まきえ)などはされないのですか。
蒔絵は習わなかったんです。修理なんかで絵の先がちょっと欠けてるとかね、それくらいならできるんですけど、全部描くっていうのはできないですね。以前は小田原にも蒔絵をやってる人が5人ほどいましたけど、みんな亡くなってもう誰もいないんです。誰か仕込んどいてくれればよかったのになって思います。
風呂の写真

塗りたての漆器を乾燥させる収納庫を風呂と呼ぶ。漆は湿度がないと乾かないので、風呂の中を霧吹きなどで最適な湿度に保つ。

―漆芸というと今では美術品や高級工芸品としての傾向が強いように思いますがどのようにお考えですか。
そのように思います。でも、そんな感じじゃなくて、ふだんから使ってくれたらいいなと思いますね。私が伝統小田原漆器協同組合の理事長をやってるときは、横浜、東京、名古屋それから神戸まで回って実演やったり、売ったりしたんだけど、今はそんなこともまったくないし、組合員もいなくなっちゃった。最初は20人くらいいたんだけど、今は4人かな。だから、もう、協同組合じゃなくなっちゃう。来年は、ただの漆器組合ということにしようと話し合って決まってるんです。
―忙しいときはどなたかお手伝いされるのですか。
そうです。今日も午前中、うちのに手伝ってもらってたんです。
―池谷さんの漆器はどこで販売されているのですか。
どこかにお願いして販売してるわけじゃないので、うちにこられてあれが欲しいこれが欲しいと言われると、いろいろ在庫は持ってるんで、ここで販売させていただいてるんです。だから、デパートで買われるよりは全然安くお譲りしています。どこそこのギャラリーですけどって電話をいただくんだけど、全部お断りしているんです。
修理を待つ碁盤の写真

修理を待つ碁盤。碁盤の目も、伝統的なものは刃を丸め黒漆を付け盤面に刃を当てて線を引く、太刀目盛りという手法が使われる。

―漆器はふだん使うときにどんなところに注意すればいいのですか。
漆器は木ですから、水につけておくことはあまりよくないんです。早く洗って拭いて乾かすことですね。そういうことが一番大事です。そうして修理しながら使ってもらえると、優に100年は持ちますよ。
―60年以上漆芸に携わってこられたわけですが、それぞれの年代で仕事に対する意識って違ってましたか。
全然違いますね。30代は結婚して子供も3人生まれて、子供を育てていくときにはね、何としても稼がないといけないって気持ちがすごく強かったね。40代もそんな感じだったな。50代になってからだよね、いろんな仕事がきてもその仕事を請けて、みんなに喜ばれる。それに、私はよそからきた人間だから、周りの人だってあんまり知らないわけですよ。だから、ちょっと地域に貢献しないといけないなと。子供会の会長だとか中学のPTAの会長や民生委員もやらせてもらってね。50代、60代が一番よかったですね。80歳過ぎてから力がなくなってきた。重いものでも瞬間的には持てるんだけど持続できないんだね。
―勲七等青色桐葉章(せいしょくとうようしょう)を受章されたのはいつですか。
それは、平成12年です。68歳のときかな。60代での受章は一番若いくらいだったな。みんな70代後半か80代だからね。その後、平成17年に市民功労賞もいただきましたね。
―今も記憶に残ってる仕事ってありますか。
ありますね。大山の神輿(みこし)を塗ったときと、4か月くらい毎日車で通って御殿場の浅間神社を塗ったときですね。それと、近くに本源寺ってお寺があるんですけど、このお寺の本堂も全部私が塗ったんです。去年だけど、曽我の山車もそうですね。それと、平塚の片岡神社の神輿も鮮明に記憶に残ってますね。仕事場も工夫して、ある程度大きなものも入るようにしてあるんだけど、神輿もここに入れて塗ったんです。


ろくろを使いお椀を磨いている様子

根来塗は、漆器をろくろにかけて磨くと、朱漆の下から下地の黒が現れる。ろくろにかけるわずかなゆがみや、微妙な力加減でいろいろな表情ができる。

―産業としてはなかなか厳しい状況ですね。
昭和30年代に、小田原の漆器が輸出用にもの凄く売れたんです。私もその頃は、夜なべ夜なべで夜11時頃まで仕事をしましたけど、今じゃ見る影もないですね。こういうふうにしたらいいだろうなっていうのが見つからないっていうか、ないんですね。結局、お椀を作るにも、木から荒挽きをして半年くらい乾燥させて、それから挽いてお椀にするわけだから時間がかかるんです。杉や檜の間伐材でもいいんだけど、小田原漆器は欅にこだわってるからね。
輪島でもね、一番大きな漆器屋さんが倒産したりしてるんで、仕事が減ってるんですね。会津に行っても同じようです。作るだけ作っても、売れなかったら何にもならないもんね。
―後継者はいらっしゃるのですか。
昔の名簿がありますけど、小田原で漆を塗る職人が昭和16年で80人くらいいたのかな、それが今はもう2人か3人。それでも、小田原市が後継者養成をしてくれて、2人が今独立してやってます。1人は御殿場の浅間神社を手伝わせたり、曽我の山車を手伝わせたりしたから、いろいろ勉強になったと思うけどね。
仕事場にあるお言葉の写真

どこにもない、自分にしかできない塗りにこだわる。

―池谷さんの仕事場にあるお言葉で「これしかない、ここしかない、これきりない」について少し教えてください。
これはね、例えば、箸にしても椀にしてもたっぷり時間をかけて漆を木地に染み込ませるんです。そうすると漆が剥げないんです。他ではあまりやらない自分流の塗り方、そういう塗り方をやって、ここしかない、ひとつしかないという、そういうふうなものを今まで作ってきたんです。だから、これを2つ欲しいって言われても1つしかないって、仕事へのこだわりみたいなものですね。


「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。

 

企画:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・(社)小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄

発行:小田原市

問い合わせ:小田原市広報広聴課 事務局(0465-33-1261)

平成26年10月

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