小田原市の現況と都市計画の沿革
位置及び地勢
本市は神奈川県の西部に位置し、東京から約80kmの距離にあります。
市域は東西17.5km、南北16.9km、面積113.81平方キロメートルで、南西部は真鶴町・湯河原町・箱根町、北部は南足柄市・開成町・大井町、東部は中井町・二宮町と接しています。
市の南西部は箱根連山につながる山地で、東部は大磯丘陵となっており、中央部には酒匂川が南北に流れ足柄平野を形成し、南部は相模湾に面しています。
また、本市の主要な交通体系は、県西部地域の広域拠点である小田原駅を中心として、東西方向に国道1号、西湘バイパス、国道271号(小田原厚木道路)、県道717号(沼田国府津)、南北方向に国道255号、県道74号(小田原山北)、県道711号(小田原松田)等が放射環状型の道路網を形成しており、その道路網を利用したバス路線網および広域交通を担うJR東海道新幹線をはじめJR東海道本線、JR御殿場線、小田急小田原線、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道の6路線、18駅を有した利便性の高い鉄道網が形成されています。
人口
平成7年に20万人を突破いたしましたが、平成11年をピークに人口が減少し、平成13年には20万人を下回りました。
年次 | 人口(人) | 増加率(%) |
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昭和30年 | ||
昭和35年 | ||
昭和40年 | ||
昭和45年 | ||
昭和50年 | ||
昭和55年 | ||
昭和60年 | ||
平成2年 | ||
平成7年 | ||
平成12年 | ||
平成17年 | ||
平成22年 | ||
平成27年 |
小田原市の沿革
室町期以前の小田原は、経済的機能をもつ宿町と防御施設としての城郭とが密接に関連し合いながらも、それぞれに成長を遂げていました。しかし戦国期に入り、戦国大名北条氏によってその領国の中心地となると、政治的な機能の高まりとともに、2代氏綱の大永年間頃から徐々に宿町の整備が行われ、小田原城も次第に拡張・整備され、5代氏直の天正年間までに軍事・政治・経済等の諸機能が有機的に統合した中世都市として完成を見るに至りました。
江戸時代を迎えると、これを基礎として近世小田原宿が成立し、これが今日の小田原市街地の基礎となっているものです。
こうして、明治時代までは、ほとんど以前のままでしたが、大正9年国鉄熱海線が本市まで開通し、その後、大正12年9月の関東大震災では、当時の小田原町は一瞬にして壊滅したので、大正4年頃から立案されていた幹線街路の拡幅を震災復興事業として行われました。
昭和11年3月、都市計画法適用町村としての指定を受け、ここに近代都市建設の第一歩を踏み出し、同13年に都市計画区域を決定、同14年に風致地区を指定し、同15年12月に市制が施行され、同17年に都市計画街路小田原足柄線を初めて計画決定しました。
昭和20年8月15日未明に戦災を受けた本市は、同21年9月特別都市計画法の適用を受け、直ちに戦災復興土地区画整理事業に着手し同24年に完成しましたが、これとともに、小田原駅を中心として酒匂川右岸一帯に街路の追加変更を行い、重要幹線街路事業、連絡街路事業、生産再建整備事業等により9,000mを築造しました。
昭和23年には、初めて用途地域を酒匂川右岸一帯に指定し、同時に中央公園と久野公園を計画決定し、昭和31年町村合併後初めて川東地区を含めた大掛かりな用途地域、街路網の追加変更を行いましたが、これが現在の計画決定のもとになっています。
また、昭和43年6月15日、新都市計画法が公布され、昭和45年6月9日小田原都市計画区域を変更し、旧橘町の行政区域を含め翌6月10日市街化区域及び市街化調整区域を決定しました。
本市の市街化区域は、全行政区域の18.3%でありましたが、間もなく土地利用に対する強い規制が円滑な市政の発展を防げるとして、また住民からも市街化区域の拡大を望む強い要望があり、長年にわたり国、県と折衝した結果、昭和54年3月30日、677ha拡大され市街化区域は2,771haになり、これに伴い用途地域も変更されました。その後、数度の見直しを経て、現在の市街化区域は2,822haとなっています。
この情報に関するお問い合わせ先
都市部:都市計画課 都市計画係
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