小田原市

聞き語りおだわら

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馬耕講習会

馬耕講習会

小田原市が発行した「聞き語り おだわら ふるさとの記憶」から抜粋してご紹介しています。


『父、門之助を語る』 話し手 岡部松實さん

大正8年(1919)11月、桜井村栢山(現市内栢山)に生まれる。77歳。県立吉田島農林学校を卒業後、農業に従事。昭和15年(1940)満州の部隊に現役兵として入営、昭和18年満期除隊した。昭和19年セレベス島へ応召、21年に復員。元共和牛乳代表専務理事。栢山に住む。

馬喰(ばくろう)という仕事

私の父門之助は、明治24年(1891)8月5日、下中村小船の山西(現市内山西)で生まれました。兄弟が多かったので下中小学校卒業後、17〜18歳で岡部の家へ養子にきました。
祖父松五郎も、下中からの養子だったが、子どもがなかったからです。祖父は、馬の病気をなおす獣医のような仕事をしていましたが、馬喰(ばくろう:馬の売買・周旋をする人)のような仕事もしていました。父は、その教えをうけて、馬喰の仕事を本格的にはじめました。馬喰とは、正式には、牛馬売買業、あるいは家畜商ともいいました。馬喰の手下には「はなっぴき」といって、馬を買いそうな人、馬を売りたそうな人のようすを聞いてきて、馬喰に相談する、馬喰の馬の売買を手助けする人たちがいました。父のまわりには、はなっぴきが4人、馬ひきが1人いました。商談は、はなっぴきが売り手、買い手のたもとの中に手を入れて何やら値段をきめていきました。
父は、注文をうけた馬を、東北方面へ買いにいきました。一人で7〜8頭から20頭ぐらい買ってきました。買ってくる馬は、東北の牧場でならした、野性の質(たち)の良い馬でした。買った馬は、国鉄の貨車で松田の駅まで乗せ、そこから馬ひきが連れて来て、家の馬屋で飼っていました。
月に一回は、買いに行きました。買いに行く時、お金を1500〜1600円も、持って行きました。長旅をするので腹巻に風呂敷のようにたたんでいました。馬一頭は、昭和の初めで、180円〜250円もしました。だから農家一軒の家で、馬を買うには、相当お金がないと買えませんでした。小作農やお金のない家では、農馬といって4月中旬ごろから6月上旬まで借りるとか、秋にまた借りるとか、借りて使っていました。農馬を返すときは、玄米(精白していない米)2俵で返していたようです。
父の商売の範囲は、足柄平野から、沼津のほうまでありました。特に、沼津のほうで、軍馬の徴用をうけて、農耕馬が少なくなった時は、東北の方から、たくさんの馬を連れてきて、儲かったことがありました。
父はまた、馬を見る目があったように思います。東北の地元で育った、よさそうな馬を買ってきて家で飼いならし、良い馬にして売りました。悪い馬をよくみせかけて売るようなことはしませんでした。馬の体形はもちろんですが、「馬の目をみれば、気の荒い馬か、おとなしい馬か、見分けることができる」といっていました。家の馬は、県の畜産共進会(牛・馬・豚などの展示会)で、何回か優勝したことがありました。

草競馬について

大正から昭和10年代にかけては、草競馬や旗競馬がよく行われました。草競馬は、馬券を買って勝負をするような大きな競馬ですが、旗競馬は、入賞すると大きな旗がもらえる比較的小さな競馬でした。出場する馬は、普通の農家で飼っている農耕馬です。手塩にかけた馬を、農閑期を利用して、出場させるわけです。競馬の行なわれた場所は、近くは、駒形、中曽根、蓮正寺、諏訪ノ原、遠くは、谷津、山王原、酒匂、松田、大口などがあって、川の河川敷や浜辺の少し広くなったところで行われました。近くの各部落から、馬の好きな連中が、集まって勝負をしました。赤白黄緑などの大きなはでな色の旗が立てられにぎやかなものでした。私の家の馬は、あちこちで優勝し、優勝すると馬をつれ、大きな旗をもって意気揚々と帰ってきました。父は、得意でした。優勝した旗のきれで、嫁入りの衣装ができました。

事業の転換

戦後は馬の売買はやめて、乳牛の売買に力を入れるようになりました。従って私が乳牛を飼って酪農をやっているうちに、父は乳牛の売買の仕事をやってきたわけです。沼津や三島の方から乳牛を買ったり、遠くは、北海道や三宅島からも買っりしました。多い時には、家の乳牛は、70頭にもなりました。共和乳牛(乳業会社)の役員にもなってしまいました。
伊豆からも、乳牛を買いましたが、伊豆の乳牛は、野性の草を食べているのが大半で濃厚飼料を食べていませんでしたので濃厚飼料を与えれば、乳の出が良くなって得をすることが多かったので、弟に乳牛を車で運搬させました。父は、昭和39年(1964)、岩手の方へ旅行に行き、病で倒れ、盛岡の病院へ入院し、母や弟や岩手の知人たちに見守られて亡くなりました。74歳でした。
後で考えてみると、岩手に行ったのは、岩手の人たちに、いとまごいの挨拶に行ったように思われます。
 

(平成8年8月聞き取り/聞き手曽我保夫・古谷松恵)

『馬にかけた青春』 話し手 村山よし子さん

大正3年(1914)3月、豊川村成田(現市内成田)に生まれる。82歳、七人兄弟の男二女五の五女。千代尋常高等小学校を卒業後、農業に従事している。

私が馬の扱い方を覚えたのは

私は兄弟が多かったが、そのうち四人が病気で亡くなり大変な苦労をしました。次男は、苦学をして、東京の獣医の学校を卒業しましたが、獣医の免状をもって家へ帰ってきてから結核が悪化して亡くなりました。24歳でした。長女の姉は、盲腸の手遅れで15歳で、次女は腎臓が悪くて17歳で亡くなりました。今の医療技術ならば直せたろうに、残念でなりません。その後父が、東京の父の弟の家へ行った帰りに、電車にぷつかり胸をうち、それが元で亡くなりました。続いて、長男が大正15年(1926)の春、脳出血でなくなり、私の家は、不幸の運続でした。その年の9月、三女に婿がきてくれました。しかし婿は、短歌の会に入っているような文学青年でしたが、目に持病がありました。男手のなくなった我が家では、その婿に田を耕すことをやってもらうことになりました。田をすくのに、私の家では馬に犂を付けて耕していましたので、私が鼻取り(馬の口先に竹の竿をつけて馬と一緒に歩いてリードする)で、婿が田をすいて、田んぼの仕事はどうやらやりこなしていきましたが、昭和3〜4年頃、極端に目の悪くなった婿は、田をすくのに真直ぐにすけなくなる状態になってしまいました。ある時「お前すいてみろや」ということで、私は、初めてけがら(犂)をもってすきました。どうやらすけました。それからは、私が專門に田をすくようになったのです。
馬に乗れるようになったのは、競馬の好きだった近所の方が「女だって乗れるだろう」といって、乗りかたを教えてくれたのです。昭和15〜6年には、馬の鍛練会(農耕馬を軍用馬にするための訓練)に参加し、時には、遠乗会で、箱根の権現さんまで、二十頭ぐらい連なって行ったこともありました。

各地で馬耕大会が行なわれる

馬耕とは、馬を便って田畑をすき、耕すことですが、この田を、いかにじょうずに、早くすくことができるかを競うのが馬耕競技会です。馬を使う場合、鼻取りをつける場合と、つけないでひとりで手綱をもって、すいていく場合とがあります。馬耕競技会では、一人で田をすくことが決められていました。この競技会は、大正の終わり頃から昭和にかけて盛んに行なわれるようになってきていました。私も女だったけれども、家でやりつけた作業だったので近くの競技会に参加しました。参加しているうちにだんだんおもしろくなってきました。昭和10年には、足柄下郡の競技大会で優勝して銀杯をもらいました。それ以後、郡の大会、県の大会に参加し、各地で入賞して技術も高まっていきました。政府も、銃後(戦場の後方、直接戦闘しないこと)の守り手として女の人の参加を奨励しました。豊川村でも女の仲間をつくりました。和田すず子さん、植村しず子さん、片野みつ子さん、佐藤やえさん、奥津たみさん、村山のり子さん、河野あいさんなどが、主な人たちでした。
そして、水田の農閑期を利用して練習をしました。足柄下郡畜産組合の講習会にも参加しました。馬耕競技は、郡単位から県単位へ発展し、県対抗には、関東の県各地に参加するようになりました。

全国大会二位入賞

昭和15年(1940)、紀元2600年記念全国馬耕大会が豊川村成田耕地(現在の福山通運のあるあたり)で行われました。当日、満州国皇帝溥儀、酒井忠正伯爵、石黒忠篤農相等がご臨席されました。千代の小学校では、楽隊を組んで歓迎したようです。会場の中心部は、紅白の幕がはられ、五色の吹き流しがにぎやかに立てられていました。
競技の採点は極めてきびしかったです。畝の形、耕す深さ、馬のならし方、選手の姿勢など、五人の審判員で審査が行なわれました。私のすいた場所は、川のそばで粘土質のところでした。使った犂は三日月号といって当時最新式の犂でした。
審査の結果は、耕ばんといって、すいたあとの底が平らになっているか、では1位でしたが、畝の形では、粘土質の土の塊りが立ってしまうところがあるので2位でした。神奈川県代表は、男3人(池田六郎、村越茂、片倉作太郎)女2人(村山よし子、和田すず子)の計5人でした。
私の使った馬は、「梅風号」といって、馬背が四尺八寸(約145センチ)の馬でした。私の家には「よしはな号」といって、馬背が五尺をこえる体格のよい馬がいましたが、これは、馬耕大会には出せませんでした。当時の政府は、農耕馬といってもすぐに軍用馬に転用することができるように「低身短背後駆力あり」を望ましい馬として奨励していました。馬耕大会にことよせて、軍用馬を養成しておくねらいがあったようです。私は、梅風号を、蓮正寺の津田さんから借りて3か月の間、この馬を飼いならし、いっしょにくらしました。馬は、私のかけ声一つで「サセ」(左)「ウセ」(右)など自由に動くようになりました。
昭和15年(1940)、全国大会上位入賞者は、天皇陛下(昭和天皇)の前で馬耕をやってみせることになりました。場所は、東京の代々木練兵場でした。当時は会場まで普通は歩いていくことになっていましが、その時は特別に鴨宮駅から貨車に乗せて連れて行ってくれました。連兵場では、天皇陛下のお言葉はなく、ただ歩いてご覧になるだけでしたが、私たちは馬が暴れだしてはおそれおおいと、右に手綱を一重まいて犂と馬を動かしていきました。
全国大会入賞以後は、各地の馬耕大会などに講師として招かれました。茨城県、栃木県、埼玉県などに出かけました。鉄道の切符は、臨時列車のものをよく買ってくれたものでした。

太平洋戦争が始まる

昭和16年(1941)、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まり、農耕馬も軍用馬として徴用されることが多くなりましたが、豊川地区は、米の産地だったので、そう多くはありませんでした。昭和19年から20年にかけては、アメリカの飛行機のB29や艦載機の空襲がはげしくなりました。昭和20年の3月頃からは、相模湾から敵の上陸にそなえて、足柄平野の周りの小高い山に陣地が作られ始めました。農村地帯には、家庭の主婦を除いて、陣地構築のために、勤労奉仕に出るようにとの通達が回りました。私の家では、兄と私が、勤労奉仕に参加しました。兄は、目が悪いために、重いものを持ったり、足場の悪いところを歩くのがとても辛いようでした。苦しいから何とかならないかなと嘆いていました。たまたま私は、人間が出るかわりに、馬力(荷馬車)を出せばよいと、村役の人から聞いたので、兄のかわりに馬力を出すことにしました。
私は、馬と馬力をひいて国府津駅まで行き、そこから上曽我の方まで大きな太い丸太を乗せて、さっそうと歩いて行きました。作業に来ていた兵隊たちからは、びっくりすると同時に大変喜ばれました。和田すず子さんも、病弱な彼女の父の代わりに馬力を引いていました。ほかにも何人か牛車をひいている人がいました。荷物を運んでいる途中で、敵の艦載機の空襲にあい、命からがら物かげに隠れたことが何回かありました。大きな馬と荷車を引いて逃げるのですから大変でした。一番逃げこみやすかったのは、上大井(大井町)のお宮さんでした。
戦後、私の家では、戦前から飼っていた乳牛を4〜5頭増やして飼いました。牛乳を出荷して現金収入を得ることができました。子牛が生まれるとかわいいものです。
梨も増やしました。梨については婿は研究熱心で、無袋の長十郎梨、青梨の菊水、廿世紀などについて、つやのよい、病気のつかないおいしい梨をつくるので有名でした。今は、農業も機械化されていますが、私は、農業と馬が大好きでした。結婚には、性格の不一致から、失敗したこともありましたが、「男よっちゃん」とよばれ、馬に明け、馬に暮れた、懐かしい思い出の多い青春でした。
 

(平成8年7月聞き取り 聞き手曽我保夫・古谷松恵)

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