曽我物語の成立

曽我物語と浮世絵2(解説 岩崎宗純)
曽我物語の成立

傘焼き
 仇討ちを成就しながら横死を遂げた兄弟の霊は、その思いを霊媒として巫女に語らせるというところから、その伝承が始まったという。そしてこの曽我兄弟の仇討ちの口承者は、箱根山とかかわりをもつ修験比丘尼であったという指摘がある。

 中世、箱根山は、死者たちの霊魂がさまよう山といわれていた。弘安3年(1280)この山を越えた歌人飛鳥井雅有(あすかいまさあり)は、

「この山にぢごくとかやありて、死人つねにゆきあひて、故郷へことづけするよしあまたしるせり。いかなる事にか、いとふしぎなり。」(『春の深山路』)

 と記している。死者たちの霊魂は国境に集まる。箱根山は、東国と西国の境の山であった。
 横死した兄弟の霊が、さまざまの災厄や虫害をなすという民間伝承が東国の各地に伝わっている。曽我五郎・十郎の菩提所である小田原市曽我谷津城前寺では、毎年兄弟が討入りした5月28日に傘焼き(写真)が行われる。各家庭で使い古した唐傘を集め、無事息災、至福繁昌を祈って焚きあげる行事である。この行事がいつ頃から行われていたか定かではないが、江戸後期にはすでに行われていたという。江戸時代には傘がカサ(病根)にも通じる意味もあって悪疫退散を祈っての行事であろうが、関東の御霊信仰と結びついた伝統行事と思われる。

 御霊信仰と結びついた曽我兄弟の仇討ちは、修験比丘尼・絵解(えとき)法師などに語り継がれ、物語としての骨格を整えていくが、固定した編著者については『神道集』を生み出した安居院の唱道者集団、時宗教団、上野国ゆかりの神人団などさまざまな説が考えられているが定かでない。

 語り物として形成された『曽我物語』が、どの時代に書物の形態をとるようになったか、『保暦間記』によると、南北朝の初頭にはすでに成立していたと考えられるが、それがどこまでさかのぼるか、明らかでない。

 『曽我物語』の成立については、ぼう大な研究の積み重ねがあり、門外漢がそれを咀嚼して解説を書くには、時問も能力も必要なので、これ以上触れることはできない。ただ、『曽我物語』は、真字本系と仮名手本系にわかれ、その編著者を前者を安居院の唱道者、後者を箱根山の僧を比定する人が多いようである。

 『曽我物語』は、幸若舞・謡曲・浄瑠璃など中・近世芸能の絶好の題材ともなった。幸若舞では、「切兼曽我(一満箱王)」「元服曽我」「和田酒盛(和田)」「小袖曽我(小袖乞)」「剣讃歎」「夜討曽我」「十番切」の七番の曽我物を生み、そのうち「和田酒盛」「夜討曽我」「十番切」などが特に好んで上演された。謡曲も「調伏曽我」「元服曽我」「小袖曽我」「夜討曽我」「禅師曽我」その他十数番の曽我物が作られている。近世に入り「曽我物」を取り上げたのは近松門左衛門である。近松は、「世継曽我」をはじめとする曽我物の浄瑠璃を数多く書いている。

ページトップ