第1章 坂下の沓屋

 星﨑定五郎は明治12年2月1日、小田原市矢作(当時は足柄下郡矢作村)に生まれた。

 国鉄東海道線小田原駅から一つ東よりに鴨宮という小さい駅がある。駅前通りはずっと北へ伸びていて、僅かばかりの町並みを出はずれるとすぐ田圃となり、その向うに一団の部落が見える。田圃の中の細い近道を選んで部落に入り、右へ曲ると春光院という寺がある。
 春光院は安楽山浄土寺と号し、京都知恩院の末寺で、建久九年(761年前)鎮西聖光上人の起立した由緒ある寺である。境内を菊川という、幅2メートルにも足りない小川が南北に横ぎって流れている。
 この菊川と、さらに東方100メートル余を隔てて流れる酒匂堰との間、南北1.1キロメートルにわたる細長い地帯が矢作の部落で、むかし春光院の傍に矢師が住んでいたところからこの村名が起ったとも言われ、また村内に矢竹が密生していたからであるとも伝えられる。矢作は明治22年町村制施行の際、下堀、中里、鴨宮、上新田、下新田などの部落と一緒になって下府中村を形成したが、昭和23年4月、合併して小田原市に属した。
 村の北のはずれに鎮守さんの浅間神社の森がある。台地というほどではないが、地勢が大分高くなっているので、このあたりにくると、眼のとどく限り、ひらけた足柄平野を見渡すことができる。
 南へ眼をやると、すぐそばに大同毛織の白亜の近代工場がたちならび、その向うに印刷局の工場や高等学校の建物が見える。木立にさえぎられているが、その西側の駅の附近には人家が密集して、次第に町らしい形態を整えようとしているし、それに続いて、明治製菓、PSコンクリート、柳屋などの工場がつらなり、異状な発展振りを見せている。
 下府中がこのような発展を示したのはごく最近のことである。鴨宮駅が開設されたのは大正12年6月のことであるが、それ以後も久しい間、はかばかしい進展を見せなかったほどであるから、駅開通以前の下府中は、足柄平野の真中に点在するいくつかの村々と同じような、平凡な農村にすぎなかった。ましてや、徳川幕府が崩壊して、天皇親政の新しい時代の幕が開かれたとはいえ、まだ物情騒然として過渡期の状態にあった明治10年頃には、それこそ徳川時代そのままの姿を持ち続けていた淋しい農村であった。
 西の方には、田圃を隔てて飯泉山勝福寺 ― 俗に飯泉のお観音さんと呼ばれるこの寺は、弓削道鏡の開基といわれ、阪東五番の札所である ― の森があり、そのすぐ背後には酒匂川の堤の松が続いている。そしてさらに遠く、箱根足柄の山々がそばだち、明神岳の肩のところに真白い富士山が青空をカッキリ区切っている。東から北にかけては、丘陵があるいは高くあるいは低くつらなっており、その北部の山の上には、丹沢山魂と大山の三角の頂きがならんでいる。酒匂川はこれらの山々にとり囲まれた平野の真中を、南に流れて相模灘に入っているのである。
 こういう四周の自然の美しさは今も昔も変らないが、おそらく明治の初期には、この広い田野のそこここに、2、30戸ばかりの藁屋根が身をすりつけるように、チョボ、チョボとかたまりあって部落を作っていたのであろう ― 矢作もそういう部落の一つであった。春光院の南側小道を東へダラダラおりて、雑草の覆いかぶさる菊川の橋を渡ると、そこからが矢作村。爪先上りに少し行くと、道は左に折れて坂となる。
 その坂の上り口、左側の角のところに星﨑鉄五郎の家があった。代々小作農で、小田原藩主であった大久保家の田1町5反歩、畑8畝を作っていた。父の金次郎の代には、それでもまだいくらかの土地を所有していたが、地租の負担に堪えかねて次第に手ばなしてしまい、その上、残った土地の大部分をもって両親が別居したので、石神の僅か4畝が鉄五郎のものとして残されたにすぎなかった。
 鉄五郎は真面目な上に几帳面な性質だったし、身体は頑丈で無類の働き手であったから、妻のヒサを励まし、それこそ朝星夜星の耕作を続けて倦むところがなかった。
 ヒサが小八幡村の鈴木家から鉄五郎のもとに嫁入ったのは明治10年9月のことで、その時、鉄五郎27歳、ヒサは20歳であった。ヒサは名前をアキと言ったが、鉄五郎のところへ来て名を改めた。末ッ子であったせいか、性質は至って明るく、健康な肢体からはピチピチした生気が溢れていた。野良仕事も一人前には十分やってのけた。
 鉄五郎とヒサは村の人々から似た者夫婦ともてはやされた。そんな噂を耳にすると、鉄五郎はうれしくなって、野良仕事に一層実を入れた。二人の生活は苦しかったが、また楽しくもあった。
 ヒサが嫁に来た翌々年、明治12年2月1日に男の子が生まれた。お産も軽かったし、赤ん坊も丸々肥っていた。鉄五郎の喜びは一と方でなく、この赤ん坊に定五郎と名づけた。
 ヒサは産後の肥立ちもよく、数日するとのこのこ起きて働き出した。その頃の百姓の家では、嫁は産後10日も経てば誰でも起きて働くのが常識とされていたが、それでなくても、一人でてんてこ舞いをしている鉄五郎を寝ながらジッと見ていることなど、ヒサにはどうしてもできないことであった。
「もっと寝ていなくてもいいのか?」
 鉄五郎が心配そうにきくと、
「大丈夫ですよ、ホラ」
 とヒサは両手をひろげて、2、3度、曲げたり伸ばしたりして見せた。
 鉄五郎とヒサの生活は赤ん坊を中にして一層張りのあるものになった。
 田は家から500メートル離れていた。今まではそこに行くのに二人連れであったが、これからはそういうわけにはいかない。鉄五郎は暗いうちから一人で出かけ、終日休みなしに働いた。間もなく田植の時期が来た。そうなると、ヒサも家の中にジッとしてはいられなかった。人を頼むといっても、その日数はできるだけ切りつめなければならないからである。二人は、赤ん坊をあぜに寝かせて黙々と働き続けた。どちらも苦しいとは一言も言わなかった。ただ昼飯時などに、かわるがわる赤ん坊をあやしたりする時はほんとうに楽しそうだった。
 獲り入れの時期が釆た。
 黄色い稲穂を重たくなびかせる風が二人にはとてもかんばしかった。
「おらぁとこの田はいい田だなあ」
 と鉄五郎は言った。
 鉄五郎の田のあるところは茶泉畑と呼ばれていた。
 200年ばかり前の話である。江戸城で茶の会が催された時、大久保侯はかって味ったこともないようなうまい茶をのんだ。その茶の味が忘れられず、その茶を立てた利仙を屋敷に召しよせてきくと、多摩川の水をわざわざくんできてたてたので、あのようによい味がでるのだということだった。やがて小田原へ帰った侯は茶にあう水を領内くまなく探させた。そこここの水が集ってきたが、これぞという水はついに得られなかった。
 ある日、藩士の二見久左衛門が中里の稲作検分の途中、乾きを覚えて百姓家に立ち寄り茶を所望した。出された茶を一口のんだ二見が、そのあまりのうまさに、この水はどこのを使ったのかときくと、百姓はこの桑畑の井戸の水だと答えた。二見はその水を貰って帰り、侯に差しだしたが、これが偶然多摩川の水と同じものであった。それから後、侯は常にこの桑畑の水をとりよせてつかうようになり、この畑を「茶泉畑」と呼べと申しつけられたという。
 鉄五郎は誇らしげにヒサにこの話をして聞かせた。
 実直な鉄五郎はそういう由緒のある田だから稲の出来もいいし、それだけにまた一層立派な米を作って差しあげなければならないとも思っていた。だから年貢米は綺麗に精選し、丹念に俵につめた。
 年貢米は1反につき3俵1斗だった。それを大久保家へ納めてしまうと、鉄五郎はやっと肩の荷をおろしたような気がした。
 だがあとに残った分ではそれからの一年を賄うことはできなかった。
 その頃、この附近では重要な副業として、藁細工がさかんに作られていた。鉄五郎もまた、毎夜おそくまで藁細工を作った。根が器用なたちなので、何を作らせても形よく、しかも丈夫に作りあげた。中でも馬の沓を作るのはことに巧みで、遠近の人々はこの沓を奪い合うようにして買って行った。
 そんなことから、鉄五郎の家はいつとはなしに「坂下の沓屋」と呼ばれるようになり、あげくの果ては、本名では首をかしげる者でも、「坂下の沓屋」といえば誰知らぬ者もないというほど知られるようになった。
 しかし、鉄五郎の生活はちっとも楽にはならなかった。
 定五郎の生れた翌年の明治13年8月には長女のツギが生れ、続いて明治15年10月に二男の兵太郎が生れたからである。
 子供3人を抱えてはヒサも以前ほどは野良へ行くことはできなかった。鉄五郎はその分だけ余計に働かなければならなかった。
 それでいて二人はちっともめげなかった。鉄五郎は鉄五郎で、かえって働き甲斐があるという顔をしていたし、ヒサの底抜けの明朗さにも、一点のかげりも見られなかった。定五郎もすでに子守という役目を与えられていた。そして夕食時など、行燈(あんどん)のあかりの洩れる坂の下の沓屋から、ヒサのかん高い声と子供たちの元気な声とがいりまじって、坂の上まで聞こえた。

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