市長の被災地レポート

【4月9日】

 雨の降る午後、市内のダイナシティ・ウェストで行われたチャリティコンサートに参加。会場で集められた義捐金で主催者が小田原産十郎梅を使った3年物の梅干を購入、被災地に届けられることになっていた。この日に相馬地方の被災地に向かう私が直接それを預かり、この他にも、ダイナシティの社長から託された「赤福」や、市民の方から「持って行って!」と預かった栄養ドリンク数箱と合わせ、現地で不眠不休の働きを続ける職員の皆さんへの応援物資がまとまった。ダイナシティ正面で皆さんに見送られ、福島へ出発。車両は防災部の緊急用車両。

 午後3時過ぎにダイナシティを出発後、車の少ない都心を抜け、震災で凹凸のひどくなった東北道をひたすら北上、途中震度5前後の余震があったとの報を受けながらも、午後10時過ぎに相馬市街に入る。ここまで、特に地震による被害はほとんど見られなかった。常磐線相馬駅の横にある「相馬ステーションホテル」に投宿。到着して驚いたのだが、宿泊客は少ないと思っていたところ、ホテル駐車場は全国各地からのナンバーの車両で満杯。様々な分野における復興支援の活動にかかわる人たちが、このホテルに逗留しているのだろう。

 チェックイン後、ホテルの周辺をひと回り歩いてみる。建物の崩落や損壊は意外に少なく、瓦が落ちたり、古い建物の外壁が剥落しているといった程度で、やはり地震の揺れそのものによる街なかの被害は少ない。土曜日の夜だが街に明かりは少なく、人通りもほとんどないが、何軒かの居酒屋やスナックなどが、「復興目指してがんばろう!」といった趣旨の手書きのビラを店先に貼って営業している。少し酔ったと思しき若者連れと3~4組すれ違った程度で、静か過ぎる夜だ。

 夜中に、パトカーが市街地に複数台動き回っていた。灯りの消えた夜の街に、何か警備が必要な出来事が起きたりしているのだろうか。

【4月10日】

 朝5時過ぎに起床。すでに外は明るくなっていた。改めて6階の窓から市街地を見渡してみると、瓦屋根にブルーシートが掛けられた家があちこちに目立つものの、それ以外の建物損壊などは見えない。

 ホテル1階の朝食会場には、現地の企業に関係のあると思われる社員風の人たちや、ボランティアで支援に駆けつけているであろう雰囲気の人たちが、淡々と朝食を済ませ、出かけてゆく。我々は、8時前にホテルを出発。相馬市の立谷市長とのアポイントは10時なので、それまで市内の被災状況などを確認するべく、海岸方面へ。

岩子地区

 まずは、松川浦の岩子地区に入る。津波が届いていない地域は何事もなかったようであるが、津波が到達したであろう地域は、流木や瓦礫類が漂着しているのですぐ判別がつく。相馬のこのあたりの地形は、内陸部から張り出した尾根上の台地が東に伸び、その上や周縁に集落が形成され、台地と台地の間に広大な田園が広がっているケースが多い。後で聞いたところによれば、この田園地帯の多くはかつて干拓によって田としたところが多く、そもそも海抜はゼロに近い。その田園と思われる一体は太平洋岸に近づくにつれ、ほとんど冠水し、そこに瓦礫や漂着した家屋の残骸、沿岸部に美しい並木を形成していたであろう松などが根こそぎになって漂着している。太平洋岸に近づくほど、それはひどく、また周縁部の家屋の被災はひどい。ところどころで、住民の皆さんが家屋などから泥を掻き出したり、瓦礫の片づけをしておられる。

 松川浦に面するあたりだろうか、漁協の建屋が無残に破壊されている周囲に、打ち上げられた船などが点在している。海面は、油やゴミが浮かび、底は見通せない。松川浦の漁協事務所と表示がある建物は、1階部分がまるごと波で打ち抜かれた状態であり、壁面にかけられた時計は、3時50分あたりを指して止まっている。周囲には、少し臭気を帯びた潮の匂いが漂う。海岸沿いに南に向かっている道は、本来田園を突っ切る形の農道なのだろうが、途中で水没している。

  

  

  

  

尾浜地区

 別の筋、松川浦周辺で最も賑やかだったであろう尾浜地区沿岸に入ってみる。半島状になっているこの地区の中央部、少し高台になっているところは何でもないのだが、ひとたび沿岸の冠水したラインに入ると、惨憺たる状況が広がる。この沿岸部は漁業関係者や釣り客、潮干狩りの来客などで賑わっていたらしく、たくさんの民宿や料理旅館が並び、また漁船の停泊場所も多かったようだ。そこが津波で襲われ、建物の骨組みだけを残して、瓦礫や車、船などがないまぜになって打ち寄せられ、手のつけようがない。

 松川浦大橋を望む浦に位置する大きな造船所も、巨大な鉄骨造の建屋はその形を留めているが、その中で建造あるいは修理中であったと思しき大型漁船2隻はもろとも奥のほうに押しやられ、建屋の鉄骨は激しく歪み、外壁はなくなっている。再建は困難だろう。湾の護岸には魚網や船、護岸の消波ブロックや瓦礫などが混然となって打ち上げられている。ここで生まれ育ったという男性が様子を見に来ており、往時といかに変わり果ててしまったか、話してくれたが、この一帯の瓦礫をどうやって片付けるのか、想像がつかない。電柱などは、鉄筋もろとも、まさに根こそぎ、なぎ倒されている。

 

 

 

 

原釜地区

 松川浦から、原釜地区へ、臨海部を通って向かう。途中、海水浴場に面していたと思しき一帯の被災がひどく、車を止める。浜を取り囲むような緩傾斜の地形に沿って住宅が建て込んでいたであろうことは、基礎のコンクリートが何とか原型を留めていたので分かったが、そこに住宅の姿はほとんど残っていない。コンクリートの布基礎にボルトで留められた根太はかろうじて残置しているが、そこから立ち上がっていたであろう家屋の枠組みは、波に完全にさらわれてしまっている。中には、布基礎自体も浮き上がり、流れてしまった家も。

 海岸に近い3階建ての喫茶店の建物はやはり1階から2階部分が波に見事に突き抜かれ、曲がりくねった鉄骨が残り、電線類が無造作に引きちぎられたようにぶら下がっている。その横に立ち並んでいたであろう松並木は、生え際から50~60センチくらいのところでへし折られ、どこかに流されてしまったようで、そこには折り取られた根元だけが、折れ口をさらして並んでいた。隣接する公園に置かれているジャングルジムのような鉄製の遊具も、方形であったはずが、ひし形に押し潰されている。

 火力発電所のほうに向かうと、臨海工業地域および港湾に面した物流拠点の一帯となるが、この辺りには大型のタンクローリーやコンテナ車などが周囲の松並木に激しく打ち上げられ、また随所に横転、大破しているほか、消波ブロックなどもいたるところに転がっている。波の力は、恐ろしい。原釜地区の中央を抜けていくと、その両岸には累々たる瓦礫の原が広がっている。自衛隊や警察の緊急車両が複数展開しており、今日から行われている大規模な捜索活動の一環と思われる。ヘリが上空を旋回する中、とび口を手にした自衛隊職員らが、無言のまま捜索を続けている。あまりのひどさに、車を止め、瓦礫の原に足を踏み入れる。泥、海水、瓦礫、様々な生活用具、畳、衣類、車、流木・・・。何もかもがグシャグシャに混ぜ合わされ、水に浸かっている。カラスが、群れを成してそこかしこに舞い飛ぶ。言葉を失う。道路際には、ボランティアや自衛隊の人たちが拾ってくれたのであろう、アルバムやランドセルなど、いわゆる「思い出の品」がひっそりとまとめて置かれている。

 

 

 

 

程田地区

 原釜地区から和田地区を抜け、田園地帯を突っ切って、松川浦の南西側、程田地区に向かう。広大な田園は、見渡す限り海水に浸かっている。海水田と化した田は瓦礫を無数に含み、海岸線にあったであろう松が根こそぎになって、無数に散らばっている。おそらく、長年の丹精の末に形成された、面積のまとまった美田であったろう。この状態から一体、どうやって、何年くらいで、復田できるのだろうか。かつて、相馬地方に展開された報徳仕法をもって、27年間に1400町歩もの荒地が開墾されたと言うが、その広大な美田が、悲しい姿に変わり果ててしまった。農家の皆さんの絶望の深さは、計り知れない。

 程田地区から東に回り込んだ磯部地区は、かなりの住宅戸数があったようだが、壊滅したと聞いた。そこへの道路は通行止めとなっており、実際に行けるところまで行ってはみたものの、途中から先は何もかもなくなっていた。片や、程田地区から山手に少し上っただけで、そこには何事もなかったような、よく手入れのされた棚田と畑が広がる、美しい農村景観が広がっている。ほんの少しの地形的な違いで、天と地の開きだ。

相馬市役所

 相馬市役所に、立谷市長を訪ねる。相馬の被災の救いは、被害が沿岸部に集中しているものの、市役所も含め、街なかや内陸部にはさほどの被害がないことだ。市役所の建物にはひどい損傷が見受けられず、日曜日ではあるが職員さんたちも落ち着いて勤務をしているように見える。とはいえ、数名の職員さんたちはこのたびの震災で犠牲になられたという。

 立谷市長は来客や打ち合わせが途切れないようで、忙しそうにしておられた。お元気そうで安心した。消防団の法被をまとわれ、陣頭指揮に当たっておられる。市長室の卓上には、和紙の巻紙と筆・硯。様々な礼状や依頼文を、筆で和紙にその場でしたためておられる。

 立谷市長に、小田原市民から託されてきた各種支援物資や義捐金、個人的に用意した梅干などを渡した後、今後の長期戦をにらんだ支援のあり方について意見交換。私からは、「相馬と小田原とは、報徳のご縁。先人たちが仕法を通じて精魂を傾けた相馬の窮状に際し、太く短くではなく、細くとも長い支援を考えたい。何なりとおっしゃって頂きたい。」とお伝えした。それに対し市長からは、「被災で親を失った子どもたちが少なからずいる。ぜひ小田原の皆さんには、この子達の学資を、推譲して頂けるとありがたい。亡くなってしまった親の中には、私からの指示で現場に駆けつけていた消防団員などもいる。そのことを思うと、その子たちのことは何とか面倒をみてやれないかと思うのです。」と。今のところ、両親もしくは片親をなくしてしまった子どもたちが、分かっているだけで37人。毎月3万円の学資を、何とか渡してあげたいとのこと、それについては報徳のご縁もあり、何とか小田原で集められるよう、小田原に戻り次第市民に声掛けをすることを回答。毎月ざっと120万円弱、年間で約1400万円。大勢で分担すれば、十分に支えられる金額だ。

 このほか、今後の復旧において必要となる土木系の技術職、できれば道路や水路、溜池などの設計ができる若手職員を2名ほど、長期に派遣して頂けないか。また、被災して操業停止した地元企業の社員たちが今救援物資の仕分けなど復旧作業を担ってくれているが、企業が操業を再開しこの人たちが復職したときは作業の担い手がいなくなってしまう。これを補ってくれるボランティアを、まとめて派遣して頂けるとありがたい、といった、人的な支援の要請も頂いた。これらについても、職員の確保と派遣、一定の集団活動ができるボランティアのローテーション派遣を、早速検討すると約束。いずれにしても、報徳の精神に基づく推譲での支援活動を、息長く続け、被災地の復興に寄り添っていきたい。それがいずれは、小田原の被災を支える貴重な経験にもなるであろう。

 立谷市長としっかり握手を交わして辞した後、隣接する公共施設で行われている救援物資の仕分け作業を視察、その場で作業をされていた教育委員会の方に説明を頂く。更に隣接するスポーツセンターが避難所になっているので、福島県から派遣されている鈴木さんという県職員にご案内を頂き、内部の様子を拝見。今現在、救援物資はほとんど足りてきているが、少し前に「足りない」と発信したものが、すでに足りるようになった今もタイムラグを経て到着してきており、この取り扱いに少しご苦労されていた。また、春休みは学生や各地の教職員たちが応援に来てくれたが、これから先はそのような戦力も少なくなるので、作業が難しくなる可能性がある、とのこと。

 隣接する中村城址に鎮座する、相馬中村神社と、相馬神社に立ち寄る。相馬中村神社では、本殿下の社務所も私設の避難所になっているようで、様々な支援物資が並べられ、若いお母さんたちが集まっていた。このような場所があちこちにあるのかもしれない。神社の灯篭などは倒れたままになっている。

蒲庭地区

 南相馬に向かう途中、相馬と南相馬の境あたりに位置する蒲庭地区に入ってみる。この一帯も田園地帯だが、広大な面積が海水に没している。現在被災地には、国土交通省の各国道事務所から各種特殊車両が集結しているが、この一帯の排水のため、ここでは高性能の排水ポンプ車数台がフル稼働、大量の水を堤防の外に排出していた。もともと、この地区は海抜がほとんどゼロに近く排水が悪い地域なのであろう、外海とをつなぐ水路と田園を仕切る堤防上には大型の排水用動力ポンプ6台ほどが設置されているのだが、それが送電の遮断で完全に止まっており、機能していない。ポンプ車による排水能力は相当のものだが、それでも、これだけの広大な面積から海水が取り除けるのはいつになるだろうか。

 

 

 

 

南相馬市役所

 南相馬の市街地に入ると、国道沿いには各種外食ナショナルチェーンが結構展開しているのだが、休業が圧倒的に多い。日曜の午後なのだが、人影もまばらだ。相馬と同様、建物の被災はほとんど見られないが、やはりここは放射能の影響が大きいのであろう。

 南相馬市役所の庁舎に早めに到着し、別の来客と打ち合わせを終えて出てこられた桜井市長と、がっちり握手。ユーチューブや各種ニュース画像で拝見していた厳しい表情とはことなり、思いのほかお元気そうで安心した。南相馬市サイドは、市長のほか、教育長、秘書課長ほか数名の方と、地元の新聞記者2名が同席。相馬市に対してと同様に、小田原として息の長い支援の申し入れを行った。

 桜井市長からは、具体的な支援内容の依頼はなかったが、今後の情勢によっては、ぜひお願いをしていきたいとのお話だった。小田原として、相馬市と南相馬市は一体と考え、子どもたちへの支援、職員の長期派遣、市民ボランティアの派遣などを、具体的に提案していきたいと思う。また、桜井市長には、「小田原だけでなく、報徳のご縁でのことですから、報徳サミットとして共同でできるよう、私からも働きかけを行いたい」旨をお伝えした。南相馬は、とにかく原発の事態がどうなるかが不確定要素。このまま何とか沈静化してほしいものだが。

萱浜地区

 南相馬市役所を辞し、沿岸部の被災状況を確認しに向かう。道中、警視庁の大部隊が道の駅の駐車場を拠点として、真っ白な放射能防護服に身を包み、いわゆる半径20km以内での捜索活動に向かうところと遭遇。私たちが今回入ったのは、おそらく福島第一原発から25km付近までではないかと思うが、20km圏内への救助活動や復興活動が1か月近く経過した今も滞っていることが、とにかく懸念される。

 沿岸部である萱浜地区に行ってみると、やはり広大な田園地帯と、その周縁部の住宅地、また海岸線にあったであろう住宅地の被災はひどい。何もない。送電線鉄塔のような、頑強と思われる構造物が、いとも簡単にひねり倒されている。海岸線に近いところを走っている道路は、舗装のアスファルトが完全にめくられ、あたかも砂利の仮設道路のような状態だ。南北を走る道路の東側(海側)にアスファルトが流出しているところを見ると、引き波の方が強烈であったことが判る。累々たる瓦礫や漂流物が散在する泥の野を、何かを探しておられるご夫婦が黙々と歩いておられた。

烏崎地区

  海沿いに位置する烏崎地区に入り、瓦礫を踏み越えて、ガタガタに崩れている海岸線の堤防に登ってみた。高さ数メートルはあろうというコンクリート製の堤防は大きく歪み、盤面が破壊されている。どうやったら、このように壊れるのだろう?歪み割れて、斜めに傾いた防波堤上を、ひびや崩落に気をつけながら歩いてみる。堤防の陸側には、引き波が内陸の住宅地などからさらってきたであろう膨大が瓦礫が、堤防がせき止める形となって内側に引っかかり大量に堆積している。この中にはまだ発見されていない被災者が埋まっているかもしれない。どこからかやってきた、主の居なくなった犬が、人恋しいのか、私たちの後をついてくる。南前方に見える東北電力原町火力発電所の沿岸には、大きくへし曲がってしまった大型クレーンが見える。

 流木や瓦礫が大量に打ち上げられている真野川を渡り、やはり美田であったであろう南海老地区の広大な水田地帯が瓦礫で埋まっている様を、言葉もなく見遣りながら、南相馬を後にした。

思うこと

 私たちにできることは何か。

 まずは、生き延びた人たちの暮らしを支えること。復興への意欲を自ら取り戻していく歩みを、できる範囲で応援すること。破壊しつくされた街や田園の復興は、何年かかかってでも、とにかくコツコツと続けるしかないだろう。

 この被災の意味、この修羅場から立ち上がっていくことの意味を、小田原からでもできる支援に取り掛かりながら、じっくりと反芻していかねばと思う。

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