第7章 加州転々

 1900年の夏も近く、ヒューム果樹園の仕事も一段落した。定五郎の働き振りはすでに評判になっていたので、次の仕事もすぐに見つかった。キャストルビイルの砂糖大根の農園であった。
 定五郎はこの仕事は、すでに矢作の渡米第三班の一員としてやってきていた弟の兵太郎と一緒にやるつもりでいた。たとえ僅かな期間でも生活を共にしたかったし、またみっちり仕込んでもおきたかったからである。
 兵太郎は都合よく兄と同じ農園で働くようになった。ここは150エーカー(60町歩)もある広い畑で、見渡す限りの砂糖大根である。その間引きをするのが二人に与えられた仕事だった。
 「兄さん、まく時は機械まきだからわけはないだろうが、これを間引くのは大変だなあ」
 兵太郎は気を呑まれたように言った。
 「大変なことははじめからわかっていることだ。だけど、大変だ、大変だと言って、ただ見ているだけじゃ、いつまで経っても大変はなくなりゃしない。ちっとずつでもやって行けば、いつかはおしまいになる。大きいことに恐れちゃ駄目だ。しっかりやるんだ、いいか!」
 定五郎は声を大きくして弟を励ましたが、そう言った自分自身の言葉に何か動かしがたいもののあるのを感じてハッとした。そうだ、その通りだ、と定五郎は弟に与えた言葉をおのが胸のうちで反すうした。
 二人は畑のすみから間引きを始めたが、一日の仕事を終えてみると、なんだたったこれだけしかできなかったのかとがっかりするほどであった。三日たち五日たち、日を重ねるうちに間引きのすんだ畑は次第に広さを増して行ったが、それにつれて、はじめの頃は土の上にほんのちよっっぴり顔を出しているに過ぎなかった葉がぐんぐん伸びた。そして、どうやら全部をすます頃には葉の先がかがんだ顔にふれるまでになっていた。
 二人は畑の一番はずれに立って見渡した。
 「とうとうやっちゃったなあ― 兄さんの言った通りだった!」
 兵太郎はかって覚えたこともない喜びにつつまれていた。それはなにか身体の中の最も奥深いところから湧きあがってくるような充実した喜びであった。
 二人は秋の終りまでここで一緒に働いた。
 冬になると定五郎は弟と分れて、モントレーの山の中に入った。
 サンフランシスコからロスアンゼルスヘ向って南下すると、海岸に沿って山脈が走り、至るところにうっそうたる大森林が繁っている。モントレーはこの二つの都会の中間に位し、スペイン人の植民時代にはカリフォルニアの中心であっただけに、古い遺跡も多く、また附近には海岸美に富んだ景勝の地が続いている。
 定五郎が木こり、薪作りとして入ったのはこの海岸近くの山だった。蓮正寺の古沢鉄五郎と組んで、毎日大木を切った。直径2メートルもある松の木を切ったこともあった。古沢は要塞砲兵出身で、炭焼をしていたというだけあって、身体から言っても腕力から言ってもまるで比較にもならなかった。これと大のこぎりの引き合いをするのだからたまったものではなく、と言って勝手に休むわけには行かず、動かなくなった腕を無理に動かすその辛さはたとえようもなかった。それでいて賃金は食料費もかせげないほど安かった。
 定五郎は暇を見つけては海岸へ出て行った。磯の岩に打ち寄せる波の風情やその岩の上をはう磯馴松の有様はアメリカではちょっと珍しく、むしろ日本の景色そのままの感があった。その上、大きなあわびがとれるし、さけ、いわし、いかなどとり放題で、これがどれだけ生活の足しになったか知れなかった。
 こうして冬をしのいだ定五郎のところへ星崎繁次郎から便りがあって、こちらに来ないかと言ってきた。
 星崎繁次郎はロスアンゼルスから東へ93キロ入ったリバーサイドで食料品の受け売りをするかたわら、アメリカ人の信用を得て口入れ業もやっているというのである。リバーサイドを中心とする一帯はオレンジ、レモン、いちじくその他の果物の産地で仕事もあるというし、また久し振りに繁次郎にも会いたかったので、定五郎は思いきって行ってみようかと考えた。
 そう思うと矢も盾もたまらずすぐにもとんで行きたかったが、こちらの仕事の都合もあり、向うの働き口のこともあった。それに兵太郎もこの際リバーサイドへ一緒に連れて行こうとも考えた。そんなことで出発がのびのびになっていた。岩瀬という仲間が、ここは日本に帰るのに一番具合のいい港だからとさかんにとめたが、ついに定五郎は兵太郎を呼び寄せてリバーサイドヘ向って出発した。
 1901年秋のことで、渡米以来サンフランシスコの周辺にばかり過した定五郎が、後年活躍する舞台となったロスアンゼルス方面に足を印した、これが最初であった。
 星崎繁次郎は定五郎より十六歳も年上の分別盛りでもあったし、その上一年早くアメリカへ来ていることもあって、すでに基盤を固めて、小さいながらも食料品店を経営していた。定五郎が頼って行くと、非常に喜んで迎えてくれた。
 「働き口はみかんもぎの仕事があるからそれをやることにして― 仕事の合い間にはうちの店も手伝ってくれないか」と繁次郎は言った。
 繁次郎が親身になって世話したのは、定五郎を信用できる男と見込んだからにちがいないが、店の仕事が一人では切りまわせず誰かしっかりした者をほしいと思っていた矢先であったからでもあろう。定五郎にしても繁次郎の好意が嬉しかったばかりでなく、店の手伝をすることになれば、今までのように転々と労働口を探して移動したり、冬場に一日の生活費もかせげないような木こりをやらなくてもすむし、それと同時に商売の見習もできるのだから、こんなうまい話はなかった。
 定五郎はようやく落付く場所を見出したように感じて、兵太郎ともども繁次郎の申出でに従うことにした。
 定五郎の生活は急に目まぐるしいものになった。朝早く起きて店の仕事をする。それが一と片付きすると農園に出かけて行ってみかんもぎをやる。夜は夜でまた店を手伝うという風で、眠る時間はせいぜい4、5時間しかとれない忙しさであった。その上、繁次郎は元来酒好きで暇があれば飲むのが好きだったので、自然、定五郎の双肩に責任が重くかかってくるのであった。
 しかし、定五郎には近頃何か心のゆとりというものが出てきていた。それは― ここに居ようと思えば、いつまでも居られるのだという安定感から生まれたものにちがいなかった。
 定五郎は渡米以来、僅かな賃金のうちから毎月あるいは一と月おきに25ドルぐらいずつ送金をしていた。定五郎だけでなく皆競走で送金をし、にわとりみたいに生めばとられると言って笑い合ったものだが、もともとすずめの涙のような賃金の中からいくら節約しても、ともかく生活費を差しひいて、なおこれだけの送金をすることは、口で言うほど簡単なことではないのはもちろんで、ましてそれを続けるということはよほど固い決心がなければできないことであった。はげしい疲労をいやすための酒がいつの間にか量を増し、故郷を遠く離れた淋しさをまぎらすためのばくちが常習的になって、送金競走から姿を消す者が出てくるのはむしろ当然すぎるほど当然のことだと言わなくてはならなかった。
 ところが定五郎の送金にはいささかの狂いもなかった。「とるより使うな」という考えを定五郎は固く守って、食費すらかせげない冬場の送金に充てたのだった。それは文字通り身をけずる思いだった。しかし、これからはどうにかやって行けそうだという目安がたつ。それだけで身も心も軽くなるのである。
 定五郎にとってはどんな忙しさも物の数ではなかった。一生懸命に働くうちに生活も安定し、送金も順調にやれるようになっていた。こうして2年がまたたく間に過ぎた。

22歳の頃の定五郎

22歳の頃の定五郎

 定五郎は故郷への送金額を計算してみた。相当な額に上っていたし、また自分の労働力にも大きな自信を持っていた。
 これだけ送ったのだから、日本の生活もいくらか楽になっているにちがいない。それにいつまで繁次郎の店を手伝っていても仕方がないし―。こっちでこれだけやれたのだから、帰国しても充分やって行けるだろう。そうだ、この辺でそろそろ引きあげよう。
 そういう考えがいつとはなく定五郎の頭の中に芽生え、成長して行った。そして、定五郎の鉄のごとき意志の背後にかくれていた、両親や弟妹への思慕が急にふくれあがってきた。
 定五郎は帰国のことを繁次郎に相談した。繁次郎は店の成績をあげてくれている定五郎を失いたくなかったのでいろいろ思い留まらせようと努めたが、もともと帰国と腹をきめての上の相談であったから、定五郎の決意をひるがえすことはできなかった。
 そこで繁次郎の妻子を日本から呼び寄せ、入れかわりに定五郎が帰国することに決まった。
 在来約5年余、1904年(明治37年)8月、日露戦争の只中にある日本へ向った定五郎は、船中で遼陽陥落の報を聞いた。

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