小田原市

第11章 老父母を見舞う

 排日の法律はつぎつぎに制定されたが、それは既得権をも侵すものではなかったから、そういう間にも、共同貿易、東海商会の業務は進展の一途を辿っていた。
 ふたたび露木惣蔵著『昭和聖代在米神奈川県人』昭和9年版をみると、「 ― 北米の新天地へ足を投じてより、星霜玄に三十有余年、今や太平洋沿岸に於ける屈指の成功者として、草柳竹次郎氏と並び称せらる。 (中略) 羅府の東海商会とし云えば、在米同胞中誰知らぬ者なき程名高き商店となった」と記し、一方共同貿易については「同社は一年間の輸入高二十五万弗、売上高五十万弗に達し、氏の堅実なる経営策は大いに好評を博して居る」と述べている。
 定五郎の非凡な才能は商業経営に冴えを見せていたばかりでなく、資金運用の面においても十分に発揮されていた。
 翁は筆者に向って言った。
 「お金は一つにしておいては駄目だ。三つに分けて、一つは不動産、一つは株、そしてもう一つは貯金にしておく。こうしておけば何か事が起って一つがなくなっても、あとにはまだ二つ残っているからぐらつくことはない」

マシュー街の家

マシュー街の家

 定五郎は、昭和3年にマシュー街133番地の土地と住宅とを買い、昭和4,5年の不景気時代に東洋ホテルその他いくつかの土地、建物 ― それらはいずれも二世名義であったが ― を手に入れた。現在ロスアンゼルスの中心部になっているところばかりである。
 定五郎がマシュー街の新居へ移った時には、智恵子のほかに次女美枝子、長男孝太郎、三女トミ、四女タマと、一男四女の父親になっていた。
 弟の兵太郎は東海商会を手伝ってくれていたし、1919年に呼び寄せたその次の弟の敬次郎は独立してハリーウッド・バージル街で食料品店を開業していた。
 長い奮闘生活の連続で寸暇をも惜しんだ定五郎も近頃ではいくらかの余裕を持つようになった。家に落ちついてハナや子供たちにとりかこまれていると、何かしらもったいないという気がしきりにするのである。
 働くことの好きな定五郎にとって、こういう安穏な時間を持つことは、ことに苦しかった過去と比べると、余計にもったいなく感じられる ― とも見られるのだが、今の定五郎の感情の中にはそれだけでは言い尽せないものが含まれていた。
 定五郎は家庭のだんらんの時、いつでもこの感情にとらわれた。ある時、子供たちから「日本のおじいさん、おばあさん」の話が出た。その瞬間、定五郎はハッと思い当るものがあった。自分がこうやっていられるのは父や母のお陰だ。子供たちをアメリカへ送り出してしまって淋しく暮しているであろう、その両親と現在の自分の境遇とを比べた時、ほんとにすまなく、もったいないと思う定五郎だった。
 「日本のおじいちゃん、おばあちゃんはどんなに孫たちに会いたがっているかわからないね。一度みんなで会いに行こうか」
 「それがいいですわ。きっとお喜びになりますよ」
 とハナも賛成した。
 一家揃っての帰国という着想は、定五郎にとってもハナにとっても、今まで抱いたどんな考えよりも素晴らしいものだった。出来るだけ早い機会に決行しようと話し合うだけでも楽しいことであった。
 その機会は間もなくやってきた。
 定五郎はこの計画を草柳竹次郎に話した。
 「ほう、それはすごい!」
 と竹次郎は眼を輝かした。
 「どうだ、おれの家も全員で、一緒に行こうじゃないか」
 「それはいい! 是非一緒に行こう!」
 今度は定五郎が眼を輝かす番だった。
 昭和6年8月、定五郎と竹次郎はそれぞれ家族全員をひきつれて故郷へ錦を飾った。
 この時、父鉄五郎は80才、母ヒサは73才であったが、二人とも元気いっぱいで、十以上も若々しく見えた。


母 ヒサ(80歳の頃)

母 ヒサ(80歳の頃)

子供たちを先に立てて家へ入って行くと、
「オウ、よくきた、よくきた」
とニコニコしながら出迎えた。
定五郎もハナも玄関に立ち、胸に迫るものを感じながら、しばらくは父と母を見守っていた。
家へ帰るまで、定五郎はあれもこれもと話して聞かせたいことが山ほどもあった。 ハナにしても同じだった。だが、孫たちからつぎつぎに英語まじりの言葉を浴せかけられ、しどろもどろになりながらも、嬉しそうに相恰を崩している顔をみると、もうそれだけで十分で、これ以上何を話す必要もないと思えてくる。それに兵太郎や敬次郎そのほか身内の者の安否などは、すでに孫たちから聞き出しているらしかった。
「お父さん、何か不自由なことはありませんか」
と定五郎がきくと
「お前のお陰で、こんないい家を作って貰ったし ― 不自由なんかあるものか。これで遊んでいちゃおてんとう様にすまないから畑を作っているよ」
「もう年だから、いい加減にすればいいのに―」
「なあにまだまだ若いものなんかに負けるものか」
鉄五郎はカラカラと愉快そうに笑った。


父 鉄五郎(87歳の頃)

父 鉄五郎(87歳の頃)

その夜、定五郎は久し振りに母と妹たちの手作りの料理を食べた。子供の頃の味が舌の上によみがえってきて、ひと箸、ひと箸をしみじみした気持で味わった。満足そうにそれをジッと見つめている年老いたヒサの瞳の色は、ずっとむかし「坂下の沓屋」のランプの下で、小さい子供たちと晩飯を共にしていた時の瞳の色と、少しも変っていなかった。ヒサにとっては、定五郎がいくら年をとってもやはり子供であるにちがいなかった。
定五郎は菩提寺の春光院に行った。鎮守の浅間神社にもお詣りした。熱海線鴨宮駅が開設され、駅前には商店がいくらか立ちならんでいたが、このあたりはそれほど変ったとは思えなかった。春光院の前の菊川には竹薮と秋草が覆いかぶさっていて、子供の頃そのままだったし、ことに浅間神社の境内に立って、はるか東の曽我山のすそを御殿場線の汽車が煙を吐きながら走って行き、そのわびしい汽笛が風に乗って聞こえてきた時は、「むかしのままだ」という感じがひしひしと追ってきた。
春光院も浅間神社も関東大震災の被害を受けて荒れ果てていた。定五郎は草柳竹次郎と相談して、とりあえず春光院には山門と安楽橋の改築費として千余円を、浅間神社には神輿殿と狛犬新設費として五百余円をそれぞれ寄附した。また下府中小学校へは校門新築、理科室及び機械標本類購入費千円を、これまた草柳氏と共に寄附したのだった。
春光院の世話人たちはさらに本堂及び庫裡(くり)の再建計画を話し、定五郎の援助を乞うた。定五郎は父の生きているうちに建ててくれるなら出来るだけのことをしようと約束した。春光院は昭和8年に総工費1万6千8百円で再建されたが、そのうちの1万円はこの時の約束に従って、定五郎がアメリカから送ったものであった。
定五郎の生涯を通じて、この老父母と起居を共にした時ほど、しんから満足を覚え、幸福を感じたことは、おそらくほかになかったのではあるまいか。
やがて帰米の日が近づいてきた。
この頃、老父母の顔を見るたびに、定五郎の心を曇らすものがある。
今度の帰国は父にも母にもたしかに喜んで貰えた。それはそれでよかったと思う。
しかし、その喜びが大きければ大きいだけ、自分たちの去ったあとの淋しさもまたひとしおにちがいない。それに、壮者をしのぐほどの元気さであるとしても、このままにしておくことはいかにも心もとない。誰か側にいて面倒を見てあげねば―。
定五郎は近親の誰れかれと相談し、当時横浜で夫に死に別れ一人で商売をやっていた、妹ハルに矢作へ来て貰うようにした。
そうきまって、定五郎ははじめて肩の荷をおろした気になった。
いよいよアメリカに立つ時、定五郎は
「また来ますからね」
と何度となく繰りかえした。


最終更新日:2011年04月01日

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