第5章 上陸第一歩

 静かな航海であった―。
 船が太平洋に出た時、忽然として鮮かな富士山がみんなの眼をとらえた。
 「富士山とも当分お別れだなあ―」
 誰かが言った。
 毎日のように田園から仰いでいた富士山。その富士山が今は遠く、小さく―そして、いくばくもなく海のかなたに没し去ろうとしているのである。誰も彼も、富士から眼をはなさず、それぞれの思いに沈んでいた。感無量であった。
 定五郎はまばたきもせず富士を視すえていた。富士の姿がくずれてポトリと落ちた。定五郎は今、父や母や弟妹たちのことを考えている。おれは政五郎伯父のしきりにとめるのを振りきって出てきた。あの時は一途に無理解な伯父だと思った。腹立たしくさえなった。しかし、これから家の者はどうしてやって行くだろう。それを思うと、たまらない気持になる。家の者にも、伯父にもすまない。が、どうか我慢してくれ。その代り、石にかじりついてもやってくる!
 定五郎は眼を拭って家族の平安を心から富士に祈り、決意を誓うのだった。
 日本の陸地が水平線から影を消してからは、来る日も来る日も海また海。しかし、まことに静かな航海であった。
 さすがに希望に燃える若人の集団である。故国の姿は彼等の脳裡から次第にうすれて、まだ見ぬアメリカの国土が浮び上ってくる。そこを舞台としての抱負も思い思いで、話題は話題を呼んで果しもなかった。
 「三年間に千円ずつ残して、日本に帰ったら、それを資金にして肥料会社を起こそうじゃないか」
 そんな事も話し合われた。
 一行の服装は、横浜の旅館の斡旋で作った背広、それに山高帽であった。はじめての洋服でネクタイをしめるのには、みんな苦労した。船にのるまでに何度も結び方を練習したが、どうしてもうまく結べないで、今だに輪にしたまま、ほどかずにいる者があった。
 「オイ、今のうちだよ、習っとくのは」
 「困ったな、これには。アメリカじゃネクタイなしでは歩けねえというが本当だろか」
 「うんとやかましいそうだぜ」
 「オイ、ネクタイ貸してくれ」
 たまりかねたものか、彼はネクタイを借り、しきりに練習を始める。その不器用な手付がおかしいといって、みんな笑いころげた。
 そんなこともあって、長い船旅も案外苦にはならなかった。
 日本を発ってから18日目でハワイに着いた。
 港には入ったが桟橋には着かず、遠く離れていかりをおろしているので、どうしたことかときくと、あとから入ってくる定期船を待つためだという。そして、
 「あと一週問たつと日本丸という船が出るから、それに乗らないか」
 と言われたが、船賃は日本丸の方がはるかに高いので、やっばりタイラー号で行こう、などと話し合っていた。そこへ日本丸が入ってきた。故郷を遠く来て見る日本の船の姿に彼等の胸はしめつけられた。日本丸は定期船なので先に入り、五日間ほど荷揚げなどにかかって、出港して行った。一行はハワイには上陸せず、船上からその名も「美しい港」と呼ばれるホノルルを望んだだけで、タイラー号は日本丸のあとを追った。
 ハワイを出てさらに十数日、タイラー号はいよいよサンフランシスコに近づいた。
緑したたる連山は南北にどこまでものび、その山々のふもとに、海が直接迫っていた。船はその切れ目の金門海峡に向って行く。海峡にかかると、両側から岬が迫って、水路は急に狭くなり、海は濃くよどんで、両岸が手にとるように見える。ここを過ぎると、海はふたたび広くなり金門湾になるのである。
 一行はデッキに立って、移りかわる景色に見とれていた。いかりがおろされて、船がとまった。船の前方に街があり、背後の山の斜面にまでひろがっていた。それがサンフランシスコだった。
 検疫もすみ、全員無事上陸を許された。8月10日のことである。
上陸すると一人の男が近寄ってきて、カバンをサッサと持って行って馬車に積み込んだ。あっとびっくりしたが、言葉が通じないのでどうすることもできず、ただ呆然とするばかりだった。男は黙って全部の荷物を積んでしまうと、御者台から振りかえって
 「カマワン、カマワン」
 と言った。
 荷物を黙って持って行かれて、その上カマワン、カマワンと言われてはあわてざるを得ない。みんなは馬車のところへかけつけた。
  「カマワン、カマワン」
 御者はさかんに手を振る。なんだかわからないが、みんなどかどかと馬車に乗りこんでホッとした。あとになって「カマワン」というのは「カムオン」のことだとわかった時、みんな大笑いしたことだった。
 宿に落付くと早速領事館に出かけて行き、職探しにとりかかった。
 街には大商店が立ちならび、電車が走っていた。見るものすべてが新しく、驚異の眼を見張るばかりであった。アメリカの兵隊が大勢隊を組んで歩いている。そのあとを行くと、葉巻の半分ぐらいしか吸わないものが沢山捨ててあり、そんなものにさえ驚かされるのであった。
 フィリッピンを舞台としての米西戦争が突発したのは去年の4月のことで、マニラ湾海戦の勝利を経て、12月、米西講和条約が成立し、フィリッピンは2000万ドルでアメリカに売却され、まだあちこちに反乱軍の抵抗が起ってはいたが、戦争は一応終結した。
 街を歩いている兵隊はその帰還兵だったのである。兵隊は久し振りに故国の土を踏んで浮き立っていたし、街やマーケットは、凱旋兵を迎えるということで、どこにも活気がみなぎっていた。
 サンフランシスコは1848年、カリフォルニア州に金鉱が発見され、国内はもとより世界各地から多数の人が殺到し、いわゆるゴールド・ラッシュを現出してから、急激に発展したが、それでも1849年の人口はわずかに2000人に過ぎなかった。ところが、ユニオン太平洋鉄道、南太平洋鉄道が敷設され、東洋やオーストラリアとの貿易がさかんになると急速に増加して、50年後の1900年には34万2000人とふくれあがり、アメリカ西海岸第一の都会となった。
 定五郎がサンフランシスコに渡ったのはちょうどその頃のことで、それが戦勝で湧きかえっているのだから、日本の片田舎からポッと出て来た者が、その賑やかさに眼を奪われ、魂をとばしたのは当然のことだと言ってよいだろう。
 アメリカ人にまじって、日本人にも時々行きあった。そんな時にはみんなかけ寄って、何処の県の人か、何時頃から来ているのか、と懐しさをさかんにぶちまけるのだった。
 明治28年(1895)のサンフランシスコ日本領事舘の報告によれば、サンフランシスコ及びその附近の在留邦人は2400人となっている。したがって、4年後の32年にはそれをはるかに上廻る数に達していたはずである。だから、街中で日本人に行きあうことは不思議でもなんでもないことであったが、いずれにしても、言葉の全く通じない異国に来て、思いがけなく幾人もの日本人と話すことができるのは嬉しくもあり、また心強いことでもあった。
 これより先明治27年にサンフランシスコに殖民奨励会という会が生れた。中内光則、石坂陸奥、辰野勝平という人々の発起になるもので、移民を指導し、土地を買収して定住するもののために尽すことを目的としたものだったが、32年には解散してしまったのであろうか。サンフランシスコでは、移民の就職斡旋は主として教会がやっていた。定五郎たちは教会へ行って、働き口のことを頼んだ。
 仕事がきまるまで宿屋で待つことになったが、何より困ったことは、言葉と三度三度の食事だった。初めての洋食で、ことにパンがカサカサしていてどうしてものどを通らず、コーヒーにつけてやっと飲みこむ。セロリのにおいが薬くさくて、はなにつくのにも閉口するという始末だった。
 数日たって教会から通知がきたので出かけて行くと、それぞれの働き口がきまっていた。
 明治30年の領事館の報告は
 「日本人にして小作人たらんとするもの少なからずと雖(いえど)も、資金と信用に乏しきを以て未だ直接の小作人たりしものあらず、即ち日本人は小作人の下請負を為すものにして、小作人は会社に向い一の契約を為し、日本人は更に小作人に向ひ契約を為すものなり」
 と述べている。
 定五郎たちの得た職はこれとほとんど同じような農業労働であった。資金も信用もないアメリカに着いたばかりの定五郎たちにとって、これは当然のことだったし、上陸早々ともかくも蔵にありつけたことは、それだけでも喜ぶべきことであった。
 定五郎は寝台に身を横たえ、真暗な部屋の中で眼をあけていた。働く場所はヴァカビイルというところである。ヴァカビイルが何処にあるのか、どんな処か、まったく知らない。わかっていることは農業労働だということだけ、それ以外のことは皆目わからないのだ。未知の世界、そこでどういうことが起るのか、考えれば不安が頭をもたげてくる。しかし、それをどうすることもできないのだ。とにかく働くだけ働けばいいのだろう。考えあぐねた末、そう思いさだめて、定五郎は眼を閉じた。
 日本を出発してからずっと行を共にして来た者が、いよいよ別れ別れにならなければならぬ日が来た。
 8月10日、一同はたがいに手を握り合い、奮闘を誓ってそれぞれの就職先に向って行った。
 定五郎は連絡船でサンフランシスコ湾の向う側のオークランドに渡り、それからヴァカビイルを目指して汽車に乗った。

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