第4章 アメリカへ

 我が国の産業革命は、大体日清戦争を境として現われ、以後明治40年頃までの間に全面的に進展したといわれる。この産業革命の進行に伴って起った都市の機械工業の発展は、農村における農閑期の仕事であった紡絲織布等の衣料加工やしようゆ、酒などの醸造、そのほかいろいろな副業を奪い去った。また綿花、藍、菜種、楮(こうぞ)、椿、三椏(みつまた)、甘庶などの原料用農産物も、大量にしかも安く手に入る海外に依存するようになって、次々に内地の田畑から姿を消して行った。しかし、これは必ずしも農家にとって不利なことではなかった。副業や原料農産物を失った代りに、それに従事していた人間もまた送り出すことになったし、さらに米、まゆの価格は毎年上昇しつつあって、その生産に専念できることはむしろ有利と言えたからである。
 そうは言っても、明治30年頃はちょうどその転換期に当っていたから、いくらかの米の値上りがあったとしても、換金作物に乏しい農家の生活は依然苦境の中であえいでいた。これを何とか打開しようとして、矢作のどこの家でも養蚕を始めたが、なかなか思うような成果を挙げることはできなかった。また梨や水蜜桃などの果樹栽培に手を染める者もあった。しかし栽培技術はきわめて幼稚であったし、病害虫の知識も皆無というのであってみれば、そのいずれもが失敗に帰したのは当然のことであった。
 ちょうどその頃のことである。前の家へ婿が入った。星崎和吉と言って、三年ばかり前にアメリカに渡り、アメリカ人の家庭に雇われてコックなどをやっていた人である。
 和吉は村の青年たちと親しくなると、アメリカの国土の広大なこと、資源が無尽蔵であること、しかもその開発のための労働力が非常に不足していることなどを話して、さかんに渡米熱をあおりたてた。
 ここで、当時の米国移民について少しばかり触れておくことにしよう。
 邦人の米国渡航は明治初年からのことで、始めの頃はその大部分が留学生の類であった。留学生といっても、普通考えられるような余裕のあるものばかりではなく、いやむしろ無学資の書生で、スクール・ボーイの口をあさって衣食し、夜学校へ通って勉強するというような無産青年が続々渡航した。当時のアメリカは青年の学問修業の地としてかっこうな舞台であり、向学の青年は資力のあるなしにかかわらず、ひとしく米国行を願ったものであった。
 このような書生群の渡航が主流をなしたのは明治20年頃までのことで、この頃から、一般邦人が労働の目的で続々渡米するようになり、それは年を追うて盛んになって行った。この労働者渡米の初期において異彩を放ったのは井上角五郎の一行で、井上は明治20年6月、三十余名の広島県人を連れて渡米した。
 井上角五郎は福沢諭吉の門を出て、はじめ新聞界に入り次いで事業界に移り、三転して政界に活躍した逸材で、日本製鋼所の設立者として知られているが、井上にアメリカ移住を勧め、この壮挙を決行させたのも福沢であった。
 福沢は 「日本は今や相当に開化した。社会の秩序は殆んど立った。この上日本はどこまでも東洋の一孤島に縮って居なければならぬという道理はない筈である。故に日本人はサッサと外国へ出て行け。出て行って其処に安楽な居住を定め、平生に於ても万一の場合に於ても、母国を忘るることなく、その日用品は母国産を取り、そして母国のためになるような事業を興すがよい。そこで移住を盛んにすればするほど、海外に我が国力を発展することができるのであるから、移住は大いに奨励しなければならぬ」とさかんに移住奨励論を唱えたのである。
 こんな風で、アメリカばかりでなく、ハワイ、南洋諸島、メキシコ等、海外へ渡航する者は逐年増加した。これをアメリカについてみると、明治13年における在留日本人は僅かに148人であったのに、10年後の明治23年には2039人と激増し、さらに、
明治26年1380人
 〃 27年1931人
 〃 28年1150人
 〃 29年1110人
 〃 30年1526人
 〃 31年2230人
 〃 32年3395人
 というように、毎年すごい勢いでアメリカヘ渡った。これには一旦ハワイヘ渡りそこを足場にしてアメリカに入って行った者は含まれていないというのだから、実際の涯航者はおびただしい数にのぼり、明治32年の在留邦人は35000人に達したといわれているのである。
 働いても働いても楽にならない農村の窮乏生活の中で、矢作の青年たちは自分の土地に対する希望をほとんど失いかけていた。星崎和吉が渡米をすすめたのは、ちようどそういう矢先だったのである。
 青年たちは和吉の話に瞳を輝かせ、胸を躍らせて聞き入った。彼等の空想ははるか太平洋の彼方に飛び、彼等の眼前には、広漠たる大農園や千古不鉞(えつ)の大森林がまざまざと展開した。そして、溌剌と、精根をこめて働く自分自身の姿を、そこに画いて恍惚となった。しかし、和吉を中心とする座談会が果てると、それはたちまちにしてかき消え、前よりも一層激しい幻滅に襲われた。
 恍惚と幻滅の間を行きつ戻りつしているうちに、青年たちの胸にはいつか、アメリカ渡航の決意が芽生え、次第に成長して行った。青年たちは幾度も会合を重ねた結果、遂に渡米を決行することにきめ、それぞれ家の許しを得るとともに、和吉に渡米手続の斡旋を頼んだ。和吉は快く引き受けて、なにくれとなく世話を焼いた。
 こうして、
  第一班 星崎繁次郎、尾崎常吉、中里の万大工ほか三名
  第二班 星﨑定五郎、草柳竹次郎、高橋春吉、星崎信右衛門、鈴木又吉、鴨宮の神谷増大郎、その他栢山の人々
 第三班 星﨑兵太郎(定五郎の弟)、星崎富三郎、星崎信太郎、星崎有三郎、星崎正三郎、高橋六三郎、高橋伊左衛門、市村穂三郎
 など、村の青年のほとんど全部が相次いでアメリカヘ渡って行った。ために村の御輿(みこし)がかつげなかったほどであるという。
 定五郎は渡米の決意を固めると、和吉のすすめに従って、県庁へ「牧畜研究のため向う三ヵ年渡航したい」という願書を出したが、間もなく県庁から「理由は出稼ぎで沢山だ」という返事がきた。これで許可の見通しはついたものの、保証人と旅費に約60ドルが必要であった。もちろん定五郎にそんな大金の貯えがあるわけはなかった。
 定五郎は、母の長兄である、小八幡の鈴木政五郎に保証人と旅費のことを頼みに行った。政五郎は
 「お前は長男じゃないか。弟や妹が大勢いるのに、お前がアメリカヘ行ってしまったらあとはどうなると思う。おれは不賛成だ。たとえ、お前の親父やおふくろが許しても、おれは承知しない」
 といった。
 「今のままではどんなに働いたって、その日その日がやって行けません。おとっつぁんもおっかさんも許してくれてるし、ほんの三年ばかりですから是非やらせて下さい。きっと立派にやってきますから―」
 定五郎は必死になって頼んだが、政五郎はどうしても聞き入れてはくれなかった。
定五郎の家はすでに九人の大家族で、さらに近く赤ん坊が生まれようとしていた。そういう事情にありながら、父と共に一家を背負って立つべき定五郎が、たとえ僅かな期間であっても家を空けるということは、あとの不安が先に立って、政五郎にはどうしても許せない、と考えられたにちがいない。
 定五郎は悄然(しょうぜん)として伯父の家を出た。しかし、伯父の反対にあっても定五郎の決意はいささかもゆるがなかった。その足で、今度は母のすぐ上の兄で、通称東の伯父と呼んでいる瀬戸七五郎のところへ行った。
 七五郎は
 「うん、そりやいい。これからの若い者はそれくらいの意気がなければ駄目だ。あとのことは引き受けたから、行ってこい。行ってしっかりやってこい!」
 と大賛成で
 「おれがそう言ったと言って、もう一度伯父さんに頼んでみろ」
とも言ってくれた。
 定五郎は天にも登る気持だった。すぐ政五郎の家にとってかえし、その話をして頼むと、政五郎も定五郎の決意の固さを見てとってようやく同意を与えてくれた。
 こうして、保証人も60ドルの渡航費も両家で引き受けて貰えることになったが、ここにもう一つの難問が持ち上った。徴兵検査のくじびきがまだ決定しないことであった。甲種ならば当然兵役に服さなければならないのである。定五郎は毎日毎日その結果をイライラしながら待ちに待った。ほかの者も最初のうちは心配してくれたが、いよいよ出発の日が迫った。ここまでせっぱつまると最早定五郎一人のために延期することは出来なかった。
 「あとから来いよ。待ってるぜ」
 と口々に言いながら、国府津から汽車に乗って横浜へ向って行った。定五郎は歯を食いしばって見送るのみであった。
 定五郎は力も根も尽き果て、孤独の悲しみの中に、終日うちひしがれていた。
 ところが何ということか。夕方、出発した連中がみんな帰って来たのだ!
 「どうしたんだ! どうしてみんな帰って来たんだ!」
 定五郎は叫んだ。
 「船が延びてしまったのだ。別の船を探さなければいけなくなった」
定五郎の顔に歓喜の色が走った。よかった、今度はきっと行けるぞ!
 和吉が奔走して、他の船を探してくれた。ちょうどその時徴兵検査も乙種と決定したので、ようやくみんなと同行できることになったのである。
 定五郎たちは、ノルウェーの貨物船タイラー号のデッキにならび、決意と別離の情をこめたまなざしで、離れて行く横浜をいつまでも視つめていた。
 明治32年(1899)6月27日、定五郎が満20歳の時であった。

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