有形民俗文化財・玉寳寺の五百羅漢像 526基 (ぎょくほうじのごひゃくらかんぞう)
概説
五百羅漢像は、仏陀の入滅後に経典編纂(へんさん)に集まった羅漢500人への信仰から生じたものです。
玉寳寺には、像高24.0cmから60.0cmの羅漢像500体余りが本堂内に並びます。
享保15年(1730)に、旧多古村(現小田原市多古、扇町二~六丁目の一部)の出家者、智鉄(ちてつ)が信者から寄進を求め、7年間に170体が造立されました。
智鉄の病没後は弟の真澄(しんちょう)がその遺志を継ぎ、智鉄の発願から28年目にあたる宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。
その後、嘉永、安政の大地震で像が損壊したため、万延年間(1860~1861)に修理が行われています。
天桂山玉寳寺は、曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺で、天文3年(1534)北条氏の家臣垪和伊予守(はがいよのかみ)の建立によるもので、開山は香雲寺四世実堂宗梅(じつどうそうばい)和尚です。
なお、平成9年度からの五百羅漢像の修復事業で像を解体したところ、中に多数の胎内文書が納められていたことが明らかになりました。
五百羅漢像が揃うことは、神奈川県内でも珍しく、貴重です。
玉寳寺には、像高24.0cmから60.0cmの羅漢像500体余りが本堂内に並びます。
享保15年(1730)に、旧多古村(現小田原市多古、扇町二~六丁目の一部)の出家者、智鉄(ちてつ)が信者から寄進を求め、7年間に170体が造立されました。
智鉄の病没後は弟の真澄(しんちょう)がその遺志を継ぎ、智鉄の発願から28年目にあたる宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。
その後、嘉永、安政の大地震で像が損壊したため、万延年間(1860~1861)に修理が行われています。
天桂山玉寳寺は、曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺で、天文3年(1534)北条氏の家臣垪和伊予守(はがいよのかみ)の建立によるもので、開山は香雲寺四世実堂宗梅(じつどうそうばい)和尚です。
なお、平成9年度からの五百羅漢像の修復事業で像を解体したところ、中に多数の胎内文書が納められていたことが明らかになりました。
五百羅漢像が揃うことは、神奈川県内でも珍しく、貴重です。
アクセス
鉄道 | 大雄山線五百羅漢駅から徒歩3分 小田急線足柄駅から徒歩5分 |
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地図
関連情報リンク
この情報に関するお問い合わせ先
文化部:文化財課 文化財係
電話番号:0465-33-1717