第13章 マンザナアの収容生活

 日本海軍の真珠湾大空襲は世界各国に大きな衝撃を与えると共に、日米両国民を驚愕と興奮のうずの中に巻き込んだ。ことに、太平洋を間にして日本と向いあっている西部海岸諸州は、今にも加えられるかも知れぬ日本の襲撃に怖れおののいた。刻々に戦況を報ずるラジオのアナウンサーの声はうわずり、号外をまきちらす新聞売子は声をからした。街の要所要所には直ちに警戒網が張られて凄愴な気がみなぎっていた。
 まさか戦争にまでは・・・とひとしく考えていた在米同胞は、一世であると日系米人である二世、三世であるとを問わず、この夢想だもしなかった現実に色を失い、何等為す術を知らぬ有様であった。昨日まではアメリカの善良な市民として自らを誇っていた彼等は、一朝にして敵国外人として白眼視される悲運に突き落されたのである。
 夕刻から同胞検挙の手が伸び、日本人会、邦語学園、軍友団、新聞社、武徳会、海軍協会等の重要メンバーは続々警察に連行され、どこかへ姿を消して行った。その日は日曜日であったため、結婚式その他種々の会合が催されていたが、その会場から着のみ着のままの姿で連れ去られる者も相当あった。
 翌日、対日宣戦を布告すると、ルーズベルト大統領は、在国日本人、イタリア人、ドイツ人を敵国人として、その行動を取締る布告を発した。
 これによって日本人の行動は厳重に制限され、監視されることになったのであるが、少しでも凝わしい者は一応取り調べるという方針であったので、すべての一世はいつ連行されてもいいように、身廻り品をスーツケースに入れて用意するという風であった。
 そういう不安な状態の中で、同胞をさらに悩ましたものは、非常時にはつきものである誤報や流言ひ語であった。
 真珠湾奇襲後の戦線の様子ははっきりせず、ハワイから入ってくる情報も不正確であったので、日本軍の上陸や日本機の来襲が口から口ヘ伝えられ、大都市では何回も空襲警報が鳴らされた。また日系人が飛行場に通じる道路をトラックでふさいだとか、飛行場へ信号を送ったとか、あるいはまた野菜物に毒物を混入したとか ― これらの虚報は、ある時は全くの誤報として、またある時は日系人を窮地に陥れる目的で流された。調査の結果はすべて事実無根と判明したが、一度日系人に対して抱いた恐怖心がにわかに解消するはずはなかった。しかも、日系人に対する比島人の暴行事件がしきりに伝えられて、不安な生活をいやが上にも不安なものにした。
 こういう中にあって、日系市民協会の指導者たちは委員会を組織して、積極的に当局を援助することをきめ、ボウロン、ロスアンゼルス市長はじめ国防関係の各機関代表の前で「卒直に日本と縁を切ること」を声明した。また当時の全米市民協会長城戸三郎氏は、
 「我々は米国市民としての義務をあくまでも果たすものである― 今こそ我らの誠心を尽すべき時が来た。日米開戦は最も不幸な出来事であるが、戦場に送られるといえども我らの忠誠は不変である ― 我らの父母は法律の下に米国市民たることを許されないが、しかし米国市民の父母として善良なる居住民としてあくまでも我らと共に進むことを信じて疑わないものである」
 という声明を発表して、日系人二世の態度を明らかにした。当時の二世の苦衷(くちゅう)がいかなるものであったかよく察せられるのであるが、戦後日系人に対するアメリカ人の態度が予期以上に好転したのは、多数の二世がこの声明を実践に移した結果であると言われている。
 この声明に続いて、二世団体はつぎつぎにアメリカに全面的に協力を捧げるという態度を表明し、一世の団体もいずれもこれにならった。
 しかし、東洋の戦線における日本軍の連戦連勝は一般アメリカ人の敵愾心を高めるばかりで、一世の資金凍結や禁足令、制限区域等がつぎつぎに日本人の自由を制限し、翌年1月29日、ついに指定地区立退命令が出されるに至った。
 この命令についてはアメリカの内部でも賛否両論があり、ことに一世はともかく、すでにアメリカの市民権を有する二世にまで適用することには相当強い反対があったようである。しかし「日本人は市民権をもち『米化』はしていても彼等の体内を流れる血は少しも変っていない ― 現在重要な太平洋沿岸一帯に11万2千以上の敵性人がいる。これらが自由行動がとれるのは困る」という世論が勝利を占め、2月19日の大統領令によって強制立退が行われることになった。
 集団立退は、マンザナアがレセプションセンターとして西部司令部の手で建設されているだけで、他の転住所はまだ出来ていなかったので、一応15ヵ所の仮収容所が充てられたが、その後、トパス、ポストン、ヒラリヴァ、グラナダ、ハートマウンテン、ジェロム、マンザナア、ミニドカ、ローウァ、ツールレイクの10ヵ所の施設が出来ると、順次そこへ収容されたのであった。
 定五郎は集団立退のことが発表され、メルノール教会が転住所へ行く世話をするということを知ると、3月21日に転住申込の手続きをとった。土地、建物、商品その他の財産は、財産管理局が設置されて保護してくれるようになっていたが、住宅アパートなどは安く貸し、店はアメリカ人の支配人に頼んで、店賃を積み立てておいて貰うことにした。また250箱の酒その他の標語類、食料品は倉庫に詰めて、これまた支配人に保管を依頼した。
 転住先はマンザナアであった。マンザナアはロスアンゼルスの北方360キロの地点にあり、土地はよく肥え、野菜類、メロン類のよく出来るところで、収容能力は1万であった。ここはロスアンゼルス市がシェラネバダ山系の水をとるための用水路を作った時、市のものとなったもので、以前は農園や果樹園があったが、定五郎の加わった先発隊が着いた時には雑草に覆われた荒野になっていた。
 先発隊の人々はその雑草を堀りかえして道路を作り、バラックを建てた。シェラネバダの山々を背景にして、たちまち新しい村ができた。そして、家ができあがるとそれぞれここへ家族を呼び寄せた。
 転住所のまわりには鉄柵が張りめぐらされ、サーチライトを備えた櫓には番兵がいて昼夜見張っていた。家は狭く殺風景で、外には樹木一本あるわけではなかった。すべて不自由で、不愉快な生活であったが、それでもバラックのまわりに花壇を作り潅木を植え、あるいは芝生をこしらえた。水の充分得られるところでは小さい池さえも作った。こういう環境美化の努力と住み慣れるということで、自然にこの土地に対する親しみも深まって行くのであった。
 各個人には能力に応じて仕事が与えられて賃金が支払われ、食事も給せられ、そのほか衣服なども配給された。
 毎日の生活は衆議にしたがって日課がきめられ、料理の講習会や演芸会、あるいは踊り、碁、将棋、謡などのレクリエーションがさかんに行われた。食料にしても与えられるもののほかに、金さえ出せば、酒、ビール、ワインなども飲めるし、どぶろく作りをすることもあった。食物の残りを肥料にして、なす、きゅうりを植えるとよくできたし、ウサギやハトなども飼育した。そばは年に3度もとれるので、そば粉をひいて食べることもできた。とうふやしょうゆも作り、よもぎを植えて、その葉を干し、もぐさまでも作るという風であった。
 転住所入りした一世は、短い者でも25年、長い者は40年、50年の年月を裸一貫からたたきあげ、子供たちを育ててようやくほっと一息ついた、その矢先、この戦争で住み慣れた家も家財道具も一切投げすててきたのであるから心身ともに疲れ切っていた。しかし、不便ながら転住所生活に慣れてみると、今まで金もうけに夜も日も明けなかった者はどうあがいても仕方のないことをさとり、また生活に追われていた人たちはその心配をする必要はなく、転住所は皮肉にも一世の強制休養所となったと言ってもよかった。
 一方でアメリカの生活を楽しみ、同時に生れ故郷の日本に深い愛着を感じながら生きてきた一世にとって、日本人ばかりの遠慮のない毎日を過すことのできることは確かに一つの喜びでもあった。
 もちろん、待遇の問題、二世徴兵の問題、そのほか幾多の事件があり、ある時は不利な状況に追い込まれ、またある時は好結果を生むということがあったが、アメリカの取り扱いは概して寛大で、始めは境界線より外へは出さなかったが、後には自由に町へ出ることも許されるようになった。ことに転住所から徴兵に応じ戦線に参加した二世部隊がシシリー島その他イタリヤ戦線で輝かしい武勲をたててからは、アメリカの二世に対する感情はきわめて同情的になった。
 定五郎はこういう中で家族と共に与えられた仕事につとめていた。
 1941年(昭和17年)3月9日、故郷では父鉄五郎が死亡した。矢作からは早速赤十字を通じて知らせたのだったが、これは定五郎の許へは届かず、北京からの便りで定五郎ははじめて父の死を知ったのだった。
 定五郎は日本に向って合掌した。指を折ってみると92歳になる。年には不足はないが、戦争のさなか、充分なこともできなかったのではあるまいか。いつ終るかわからないが、せめて戦争の終るまでは生きていて貰いたかった。それに母がどんなに落胆し、淋しがっているだろうかと、思いははるかの空へはせて行くのだが、こちらも抑留の身、どうする術もなく、ただ瞑福を祈るばかりであった。
 戦況は短波ラジオをひそかに聞いていたが、日本とアメリカの放送は全く正反対で、はじめはどちらを信じてよいかわからず、一喜一憂していた。しかし、次第に日本の不利が明かとなり、ついに8月15日の天皇放送によって敗戦となつたことを知ると、さすがに一世は息を呑んだ。
 かくて戦争は終結し、12月17日、「来る1月2日より太平洋沿岸を開放し、日系人全部に沿岸への帰還を許可する」という発表があり、長い転住所生活に終止符がうたれたのであった。

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