史跡・小田原城跡 (おだわらじょうあと)
史跡小田原城跡指定地リスト PDF形式 :278.2KB
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概説
小田原城は、中世から近世にかけての城で、最盛期にはその城域が約400haに及びました。
現在このうち約30haが史跡小田原城跡として国の指定史跡となっています。
大森氏が最初に築城したと伝わりますが、詳細は明らかではありません。
明応5年(1496)以降、伊勢宗瑞(いせそうずい・北条早雲)が手中に収めたのち、戦国大名北条氏の本城として拡大・発展を遂げました。
戦国時代の小田原城は、土塁と空堀・水堀で囲まれていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、城下町をも取り込む全周約9㎞の総構の土塁や堀を巡らし、豊臣勢を迎え撃ちました。
戦国時代の遺構は、丘陵部では県立小田原高等学校周辺や、小峯御鐘ノ台、低地部では早川口遺構、蓮上院土塁などに土塁や空堀が良好に残ります。
特に小峯御鐘ノ台大堀切は、堀の幅が20m近くもあり、堀がクランク状に折れ曲がる様子や、小さな曲輪と複雑に組み合わさる様子が見てとれます。
現在城址公園となっている本丸・二の丸周辺は、寛永9年(1632)の稲葉正勝の入封(にゅうほう)以後、大規模に改修され、主要な曲輪に石垣を積むなどして近世城郭への変貌を遂げました。
そのため、地表に戦国時代の遺構の姿を見ることは困難です。
しかし、発掘調査では近世の遺構の下から様々な戦国時代の遺構が確認されており、 特に御用米曲輪では建物を伴う池や庭園の跡が発見され、戦国大名北条氏の文化の一端をうかがえるものとして注目されています。
現在このうち約30haが史跡小田原城跡として国の指定史跡となっています。
大森氏が最初に築城したと伝わりますが、詳細は明らかではありません。
明応5年(1496)以降、伊勢宗瑞(いせそうずい・北条早雲)が手中に収めたのち、戦国大名北条氏の本城として拡大・発展を遂げました。
戦国時代の小田原城は、土塁と空堀・水堀で囲まれていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、城下町をも取り込む全周約9㎞の総構の土塁や堀を巡らし、豊臣勢を迎え撃ちました。
戦国時代の遺構は、丘陵部では県立小田原高等学校周辺や、小峯御鐘ノ台、低地部では早川口遺構、蓮上院土塁などに土塁や空堀が良好に残ります。
特に小峯御鐘ノ台大堀切は、堀の幅が20m近くもあり、堀がクランク状に折れ曲がる様子や、小さな曲輪と複雑に組み合わさる様子が見てとれます。
現在城址公園となっている本丸・二の丸周辺は、寛永9年(1632)の稲葉正勝の入封(にゅうほう)以後、大規模に改修され、主要な曲輪に石垣を積むなどして近世城郭への変貌を遂げました。
そのため、地表に戦国時代の遺構の姿を見ることは困難です。
しかし、発掘調査では近世の遺構の下から様々な戦国時代の遺構が確認されており、 特に御用米曲輪では建物を伴う池や庭園の跡が発見され、戦国大名北条氏の文化の一端をうかがえるものとして注目されています。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、天守や門や櫓が解体された後、明治34年(1901)から昭和5年(1930)までは、「小田原御用邸」が所在しました。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災で石垣も崩落しました。
城址公園で見られる現在の石垣は、その多くが震災後の積み直しです。
このような歴史を経て、小田原市教育委員会は、昭和58年(1983)から本来の小田原城の姿が理解できるよう本格的な史跡整備を進め、発掘調査など各種調査成果に基づき、馬出門(うまだしもん)と馬屋曲輪(うまやくるわ)、銅門(あかがねもん)、住吉堀(すみよしぼり)等、城址公園では近世後期の小田原城の姿の復元を目指した史跡整備を実施しました。
現在は、御用米曲輪の整備を進めています。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災で石垣も崩落しました。
城址公園で見られる現在の石垣は、その多くが震災後の積み直しです。
このような歴史を経て、小田原市教育委員会は、昭和58年(1983)から本来の小田原城の姿が理解できるよう本格的な史跡整備を進め、発掘調査など各種調査成果に基づき、馬出門(うまだしもん)と馬屋曲輪(うまやくるわ)、銅門(あかがねもん)、住吉堀(すみよしぼり)等、城址公園では近世後期の小田原城の姿の復元を目指した史跡整備を実施しました。
現在は、御用米曲輪の整備を進めています。
この情報に関するお問い合わせ先
文化部:文化財課 史跡整備係
電話番号:0465-33-1718