史跡・稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔 2箇所
(いなばいちぞくのぼしょとてつぎゅうおしょうのじゅとう)
稲葉一族の墓所 | 鉄牛和尚の寿塔 | |
---|---|---|
所在 | 入生田467 | 入生田454 |
形状等 | 東西約20m | 高さ2.65m |
概説
稲葉一族の墓所
墓所は、旧東海道から現在の紹太寺(しょうたいじ)の脇道を約700m入った長興山(標高209m)の中腹、310段ほどの石段を登り参道を進んだ先にあります。
この墓所は長方形の墓域をなし、三面は低い石垣で山際を区切り、正面は東を向いています。
石段を登ると正面に3m近い堂々とした7基の石塔が横一列に並びます。
供養塔は、稲葉美濃守正則(いなばみののかみまさのり)だけ位牌型で、そのほかは五輪塔です。
石塔は、向って左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝(いなばたんごのかみまさかつ)の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、稲葉丹後守正通(いなばたんごのかみまさみち)の後室、稲葉美濃守正則の兄の供養塔となっています。
なお墓所北縁の五輪塔は、丹後守正勝の近臣で、正勝の死に際し殉死した塚田木工助正家(つかだもくのすけまさいえ)の供養塔で、その忠節を称えて建てられたものです。
この墓所は長方形の墓域をなし、三面は低い石垣で山際を区切り、正面は東を向いています。
石段を登ると正面に3m近い堂々とした7基の石塔が横一列に並びます。
供養塔は、稲葉美濃守正則(いなばみののかみまさのり)だけ位牌型で、そのほかは五輪塔です。
石塔は、向って左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝(いなばたんごのかみまさかつ)の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、稲葉丹後守正通(いなばたんごのかみまさみち)の後室、稲葉美濃守正則の兄の供養塔となっています。
なお墓所北縁の五輪塔は、丹後守正勝の近臣で、正勝の死に際し殉死した塚田木工助正家(つかだもくのすけまさいえ)の供養塔で、その忠節を称えて建てられたものです。
鉄牛和尚の寿塔
この寿塔は、長興山紹太寺の開山鉄牛和尚の還暦を祝い、貞享4年(1687)に紹太寺二世の超宗和尚により造立されたものです。
塔の形状は、二段の基壇の上に反花座(かえりばなざ)と請花座(うけばなざ)を造り、その上に円形板状の塔身が立っています。
塔は天然記念物の枝垂桜(しだれざくら)背後の山中にありますが、かつてはこの場所も広大な紹太寺の境内であり、庭園の一角でした。
鉄牛和尚は、黄檗宗の隠元禅師(いんげんぜんじ)に出会い、その弟子の木庵(もくあん)に師事した後、稲葉正則により小田原に招かれ、寛文9年(1669)紹太寺の開山となりましたが、元禄13年(1700)8月に没しています。
紹太寺は、小田原城主稲葉正則が寛永12年(1635)に父母の追福のため城下の山角町(やまかくちょう・現南町)に建立した菩提寺を、寛文9年に入生田に移したものです。
黄檗宗の大きな寺院でしたが、幕末の火災で堂塔が焼失してしまったため、稲葉一族の墓所と寿塔は当時の隆盛をしのぶ貴重な遺跡となっています。
塔の形状は、二段の基壇の上に反花座(かえりばなざ)と請花座(うけばなざ)を造り、その上に円形板状の塔身が立っています。
塔は天然記念物の枝垂桜(しだれざくら)背後の山中にありますが、かつてはこの場所も広大な紹太寺の境内であり、庭園の一角でした。
鉄牛和尚は、黄檗宗の隠元禅師(いんげんぜんじ)に出会い、その弟子の木庵(もくあん)に師事した後、稲葉正則により小田原に招かれ、寛文9年(1669)紹太寺の開山となりましたが、元禄13年(1700)8月に没しています。
紹太寺は、小田原城主稲葉正則が寛永12年(1635)に父母の追福のため城下の山角町(やまかくちょう・現南町)に建立した菩提寺を、寛文9年に入生田に移したものです。
黄檗宗の大きな寺院でしたが、幕末の火災で堂塔が焼失してしまったため、稲葉一族の墓所と寿塔は当時の隆盛をしのぶ貴重な遺跡となっています。
アクセス
鉄道 | 箱根登山線入生田駅から徒歩約20分 (稲葉一族の墓所・鉄牛和尚の寿塔とも) |
---|
地図
この情報に関するお問い合わせ先
文化部:文化財課
電話番号:0465-33-1717