清水新田(慶安2年ごろ開発)
江戸時代の農業は、一般に財政の基盤となる米の生産に力が注がれた。小田原地方においても、収穫量の増加を図るため、稲の品質改良、各種施肥の試み、農具における技術改良などが幕末に至るまで行われた。また、江戸時代初期には下新田(鴨宮)をはじめとして、多くの新田も開発された。
しかし、これらの改良や事業にもかかわらず中期以降、収穫量に次第に限界が見えはじめ、年貢の収量も頭打ちとなり、藩側としては田畑の拡大(畑地・荒地の水田化)に力を注ぐようになった。そのあらわれが藩費による瀬戸堰・荻窪堰などの開発であった。だがこれは地域的には増収もたらしたが江戸時代末期まで、小田原領内の農村は一般に慢性的な疲弊に悩まされていく。その原因としては年貢の増加、打ち続いた災害、作柄の不良、そして主穀(米)生産が中心で、たばこや木綿のような商品作物の生産が少なかったことがあげられる。
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