最終更新日:2012年03月07日
北条早雲とは、その死後に付けられた名前です。早雲自身は出家以前には「伊勢新九郎盛時」を、出家後は「早雲庵宗瑞」と名乗っています。早雲の子氏綱が、伊勢から北条へ改姓しました。なお、幼名の「新九郎」は北条家の長男に代々引き継がれていきます。
早雲は、成人すると室町幕府に出仕し、八代将軍義政の弟義視に仕えます。応仁・文明の乱で、義視が伊勢国へ逃れると早雲もこれに従います。
義視はその後京に戻りますが、早雲はこれに従わず、そのまま姉妹のいる駿河今川家に仕えます。十年ほど駿河に滞在した後、京へ戻った早雲は、幕府申次となっています。
早雲は、武力をもって次々と領国を増やしたかのように見られがちです。確かに早雲の後半生は戦いの日々が続いています。しかし、自らの欲のために領国を増やしたのではなく、当時の中央並びにその地域の政治状況に的確に応じた、その結果と言えるでしょう。早雲は、農民が負担する年貢を減じていますし、戦う意志のない者まで攻め滅ぼすような行為には及んでいないのです。
早雲は、大徳寺で禅を学んでいます。「早雲寺殿廿一箇条」という早雲作と伝えられる家訓が知られていますが、ここでも「仏神を信じること」を挙げています。また、この家訓では、和歌をたしなむことや、常に懐に書籍を入れておくことなどを説いています。子の氏綱が積極的に京の文化を取り入れたことは有名ですが、こうした素養は、父早雲から引き継がれたものと言えるでしょう。
早雲は、「早雲寺殿廿一箇条」で、掃除に水を使うにあたり、適任者に掃除をすべきところを調べさせてから、水を使うように説いています。また、同時代に生きた連歌師宗長は、早雲を「針すらも蔵に蓄えるが、戦いがあれば高価なものでも打ち砕いてしまう」と評しています。早雲が常日頃倹約に努めていたことを伝えるエピソードです。
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