浮世絵で読む小田原の歴史

浮世絵で読む小田原の歴史

浮世絵で読む小田原の歴史

※拡大画像を見る 「東海道五十三次・小田原・酒匂川(歌川広重)」

江戸時代から明治時代にかけて摺られた「浮世絵」には、かなりの数の小田原を題材にした作品が存在するようです。今回紹介する浮世絵は、そのほんの一部ですが、市販浮世絵の画集などでは紹介されていない作品も多く、まだ皆さんが見たことのない作品も沢山あるのではないかと思います。

この「浮世絵で読む小田原の歴史」は、平成9年度「広報おだわら」8月1日号と10月1日号で紹介した浮世絵と小田原の関係を扱った特集を、さらに多くの作品と故・岩崎宗純さんの解説のもとに作成した、小田原市オリジナルページです。

最も精細なイメージでは、当時の改印(あらためいん:出版を許可する印)や作者の落款(らっかん:作者のサイン)さえも読むことができるような画質で収録しています。

浮世絵に描かれた小田原の歴史を、どうぞ、お楽しみください。

石橋山合戦

源頼朝が鎌倉幕府を築いた1192年に先立つこと12年の治承4年(1180)、小田原市内の石橋で、反平家の旗をかかげた源頼朝と平家の軍勢が衝突しました。頼朝方の勢力はわずか300騎。十倍以上の勢力の平家に、頼朝はあっけなく敗退しますが、数カ月後には頼朝に従う数十万の勢力が富士川で平氏と対峙しています。この石橋山合戦は、浮世絵の題材として数多く描かれました。石橋は小田原の西方、早川の少し先にある古い地名です。ラジオの渋滞情報などでこの地名を聞くことがあります。道沿いの道路の山側に石橋山古戦場の標識が立っているのが見えます。

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佐奈田与一と俣野五郎

石橋山合戦で、佐奈田与一(さなだよいち)という一人の若武者が討ち死にしています。この悲劇は浮世絵の題材として多く描かれました。石橋山合戦の中のワンシーンだけが独立して、これだけ人気のある題材となっているのです。なお、相手方の俣野五郎(またのごろう)は、相撲の名手であり、この石橋山合戦の四年前、伊豆での狩の折に、俣野五郎が曽我兄弟の実父である河津三郎祐道と相撲をとっているシーンを描いた広重の作品があります。いささか不公平すぎると思うのですが、勝者である俣野五郎は常に悪役のように醜く組み伏せられて描かれています。

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石橋山の組み討ち

石橋山合戦での佐奈田与一と俣野五郎の組み討ちのシーンは、江戸時代人気を博した題材で、多くの作品が描かれました。ご覧いただければわかるように、作品の構図はどれも似たりよったりです。ですから、武者絵や戦闘シーンとは一見全然関係のないシーンを描いているようでありながら、人物の配置やポーズ、人間関係などを見て、「あ、これは石橋山合戦を下敷きにして描いたものだな」と誰でもわかったようです。それほど、江戸時代には石橋山合戦というテーマは有名だったようです。こうした状況から、石橋山合戦をネタにした一種のパロディ、見立て、焼き直し、なぞらえ、とでもいうべき作品が生まれました。

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酒匂川の渡し

江戸時代の旅行者にとって、大きな川というものは不便きわまりないものだったようです。酒匂川も、寒い冬季には仮橋を架けたものの、それ以外の時期は川越人足の肩にのって渡るか、蓮台にのって渡河するしかありませんでした。天気に恵まれず雨が続けばたちまち川は増水し、川を渡ることができるまで宿泊しながら待たなければならないわけです。しかしながら、この不便さによって、小田原と酒匂川の渡しは江戸時代の人々に強く結びついた印象を与え、浮世絵を見てみても、三島のように町並みを描くのでなく、小田原というとまず酒匂川の渡しが描かれ、おまけのように遠景に小田原の城や町並みが描かれるといったケースが多いように思われます。

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城下町としての小田原

小田原という城下町を作ったのは北条氏でした。江戸時代になってからも小田原は重要な軍事拠点の一つだったようですが、ただ小田原城だけを描いたという浮世絵はなく、東海道を行く旅行者や酒匂川の渡し場を渡る旅人の遠景に、あまり正確とはいえないタッチで描かれた天守が見え隠れするといったケースが多いようです。女性は丹精を込めて描いているのに、城の方は全然実物を見ないで描いたのではないかと思われるような英泉の作品があるかと思うと、簡単な筆致ながらリアルな印象が強い、北斎が描いた小田原城(北斎のその作品は「外郎売」のコーナーに登場するので、そちらを参照してください)もあります。旅行ガイド、旅人からのまた聞き、他人の作品の真似、自分で見た記憶・・・いったいどうやって浮世絵に登場する小田原が描かれたのかは、非常に興味深い問題ではないでしょうか?

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海の城下町

小田原の海は、現在に至るまで、私たちに豊富な海の幸(さち)を与えてくれています。今の小田原では鯵(あじ)が有名ですが、江戸時代、あるいはそれ以前の北条氏の時代には、鰹(かつお)漁が盛んで、初がつおという言葉の起源は小田原だという説もあるほどです。 また、江戸時代の小田原の海岸線は、海岸沿い、街道沿いに松並木が並び、とても印象的な景色だったようです。鰹も松並木も時間の彼方にありますが、浮世絵で江戸時代の小田原の海岸風景を眺めてみるという趣向はいかがでしょう?沖合いに白帆の浮かぶ海景は、私たちの心をほっとさせてくれると思います。

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黒船来航と小田原

小田原の歴史と「黒船」は無関係ではありません。左の作品は浮世絵(木版画)ではなく、アメリカ海軍のペリー提督の遠征記録に添えられたリトグラフですが、ペリーの艦隊から見た「オダワラ湾」を描いた作品なのです。同じ時期に、小田原藩士が浦賀で黒船を観察した記録なども残っています(郷土文化館所蔵)。黒船の描き方や波や山といった自然の描写法が、同じ時代の版画であるにもかかわらず、東洋と西洋で大きな隔たりがあることを観察してみてください。
なお、蛇足ではありますが、アメリカの艦隊を浦賀で接待するために料理を作った人物は小田原の料理名人でした。彼は明治時代に文学者の村井弦斎が小田原で「喰道楽」というグルメ本のはしりを執筆する手助けもしています。ところで、その名人の料理のアメリカ側の評判は、あまり芳しいものではなかったようです。この時代、洋の東西では、味覚も大きく隔たっていたということになりますね。

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足柄山の金太郎

小田原で五代百年にわたって栄華をほこった北条氏は、京都の絵師に一幅の絵巻物を描かせました。酒呑(天)童子を描いたその絵巻物(現在はサントリー美術館が所蔵)では、伝説的なゴーストバスターであった源頼光一行が酒呑童子の本拠地である大江山に山伏に変装して乗り込んでいき、酒呑童子を退治しています。その妖怪退治のメンバーの中に、坂田公時、つまり金太郎も含まれているのです。小田原と金太郎(坂田金時・公時)の関係は、このように因縁浅からぬものがあります。その金太郎を描いた作品をいくつかご紹介します。

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外郎売

小田原に住んでいても、小田原の名物「ういろう」について詳しく知っている人はあまり多くないのではないでしょうか?お菓子のういろうだけでなく、薬のういろうもあるのです。しかし、ういろうは、外郎売として歌舞伎の市川家の十八番の一つとなり、葛飾北斎に浮世絵として描かれ、元禄時代のエンゲルベルト・ケンペルの日本紀行の中でも言及され、また、江戸時代の小田原の町並みを描いた浮世絵の中には、独特の「八棟づくり」の外郎家が描かるなど、小田原名物という範疇をはるかに超えて小田原の歴史の一部となっています。このコーナーでは、その「ういろう」に関する浮世絵作品をご紹介しています。

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この文章について

『浮世絵で読む小田原の歴史』に関する文書(コンテンツ)情報を表示しています

【出 典】「浮世絵で読む小田原の歴史」のための書きおろし(オリジナル)
【出版年】平成9年3月31日
【著者名】岩崎宗純・小田原市広報広聴課
【著作権/編集著作権】小田原市 1997-1998

【お読みください】

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