黒船来航と小田原

黒船来航と小田原

くろふねらいこうとおだわら

嘉永6年(1853年)6月8日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4艘の蒸気船等が浦賀沖に姿をあらわした。黒船と呼ばれるこの異国船の来航は、長い間鎖国の夢をむさぼっていた幕府を震撼させた。ペリーの遠征隊は、相模湾小田原沖を通り、東京湾に向かった。

小田原湾(BAY OF WODOWARA)

近代日本の夜明けを告げる大事件を記録した画集に小田原の地名が登場する点が注目される。

小田原湾(BAY OF WODOWARA)

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UK07-001-072
ウィリアム・ハイネ
小田原湾(BAY OF WODOWARA)

小田原湾(BAY OF WODOWARA)の中央(部分)

同じ黒船を、西洋の描法で描くと、このようになる。ほぼ同じ時期に、浮世絵という表現方法で黒船を表現した日本と比較してみてほしい。

小田原湾(BAY OF WODOWARA)の中央(部分)

なお、この作品はリトグラフ(石版画)であり、木版の浮世絵と技術的な見地から比較してみるのも面白いと思われる。

小田原湾(BAY OF WODOWARA)の下(部分)

Heine(ハイネ)が風景を描き、Walker(ウォーカー)が船を描いた。それをSARONY & Co. New York(サロニー アンド カンパニー ニューヨーク)が石版画にした。浮世絵も同じように、絵師が描いたものを版木に彫る職人がいる。

小田原湾(BAY OF WODOWARA)の下(部分)

小田原の表記がWODOWARAとなっている。なお、この図はペリーの東インド艦隊の遠征報告書に付されたものである。いわば、黒船から見た小田原が描かれている図であり、浮世絵ではないが重要だと判断して敢えてこのライブラリーに収録した。

米船渡来旧諸藩士固之図

相模湾沿岸に領地を有する小田原藩にとって海岸防備は緊急の課題となった。真鶴をはじめ5カ所に砲台が築かれ、藩士たちは、幕府の命令で海岸防備のため、下田、浦賀へ出動した。

米船渡来旧諸藩士固之図

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東州勝月
米船渡来旧諸藩士固之図
大錦三枚続横絵 明治22年(1889)

米船渡来旧諸藩士固之図の中央(部分)

この作品は明治に入ってからの作品であり、当時を想像して描いた作品だが、幕末にウィリアム・ハイネが描いた黒船とこの黒船を比較してみてほしい。

米船渡来旧諸藩士固之図の中央(部分)
米船渡来旧諸藩士固之図の中央(部分)
米船渡来旧諸藩士固之図(部分)
 
 
 

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