さなだよいちとまたのごろう
建久元年(1190)正月15日、二所詣(にしょもうで)に進発した源頼朝は、伊豆山権現に詣でる途中、石橋山の佐奈田与一、郎党文三の墳墓を訪れ、往事を思い出し、哀傷の念にたえず、「御落涙数行に及」だという(吾妻鏡)。
二所詣の途中でのこのような行為は避けるべきであると、以後二所詣の順路は、箱根・三島に参詣し、伊豆山を詣でるように改められた。
頼朝が涙を流したという佐奈田与一と郎党文三の死は、治承4年(1180)年8月の石橋山合戦の時のことである。
同月23日、石橋山の谷を隔てて平家方と対峙した頼朝は、決戦の時が迫るのを知ると、諸将に向かって、平家方の先陣となって来ると思われる大庭景親(かげちか)、俣野(またの)五郎に誰を立ち向かわせたらよいか、と問うた。
すると岡崎義実(よしざね)がすかさず我が子佐奈田与一義忠を推挙した。頼朝は与一に先陣を命じた。命を受けた与一は、郎党文三に後事を託し、出陣しようとしたが、文三は幼いころから苦楽を共にした殿を見捨てることはできない、と言い張った。
与一と文三は敵の先陣めがけて突進した。与一の姿を見て平家方の武士は組み討ちしようと我れ先にと進んだが、与一の奮戦になす術を知らなかった。
与一の前に平家方の剛者俣野五郎があらわれた。大力の俣野は海の中へ落ちる断崖の上で、与一に組み付き、二人は上になり下になりの格斗を続けた。
戦いは一瞬与一の有利に働いたが、俣野の加勢にかけつけた長尾新五と弟の新六の手により、遂に与一は二十五歳の若さで討ち死にした。郎党文三も稲毛重成(しげなり)の兵に囲まれ、奮戦の末、主人と死をともにした。
【出 典】浮世絵が語るおだわら
【出版年】平成4年
【元形態】紙媒体(広報おだわら連載記事)
【著者名】岩崎宗純
【著作権/編集著作権】小田原市 1992-1998
UK02-001-025
歌川国芳(うたがわくによし)
大錦三枚続横絵 天保6年(1835)
組み討ちしている二人の足下が、ドラマチックな表現をするために海として描かれている。
実際に組み討ちが行われ、佐奈田与一が討ち死にした場所には、草木が生えないという伝説があった。
三枚続のうち中央(部分)
佐奈田与一である。なお、彼の名前にはこの作品のタイトルにみられる「真田与一」ほか、複数の表記がある。
三枚続のうち右側(部分)
組み敷かれている俣野五郎。しかしこの組み討ちの最終的な勝者は、この俣野五郎であった。
作者歌川国芳の落款と改印
歌川国芳(1779-1861)は初代豊国門下の浮世絵師で、数多くの武者絵を描いた。
この作品での号は一勇斎。
(部分)
佐奈田与一
作者歌川国芳の落款と改印
歌川国芳(1779-1861)は初代豊国門下の浮世絵師で、数多くの武者絵を描いた。
この作品での号は一勇斎ではなく朝桜楼となっている。
作者歌川国芳の落款と改印
歌川国芳(1779-1861)は初代豊国門下の浮世絵師で、数多くの武者絵を描いた。
この作品での号は一勇斎である。
作者歌川芳艶の落款と改印
作者初代豊国の落款