新・北条五代記

佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)

佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)

平治の乱(1159年)によって敗れた源義朝の子頼朝は平家方に捕らえられたが、池禅尼の助命によって、翌永暦元年(1160年)伊豆蛭ヶ小島に流されてきた。治承4年(1180年)8月17日、源頼朝は以仁王の平家追討の論旨をかかげ、北条時政の援けを得て伊豆の目代山木兼隆を夜討ちにかけ、源氏再興の旗上げをした。そして、近隣諸豪の援軍を得て鎌倉に向かう途中の8月23日夜、石橋山で平家方の大庭景親の軍勢3,000余騎の急襲にあった。これが「石橋山合戦」である。頼朝勢は北条時政の親子及び土肥実平などわずか300余騎でこれを迎え討った。
頼朝方では真田(佐奈田)与一義忠が郎党15騎を率いて先陣についた。これに対して平家方では総大将大庭景親の弟俣野五郎景久が75騎を従えて真田の陣にかかり、戦闘が開始された。
しかし、10倍を超える敵の大軍を受けて戦いに利なく大敗して、箱根山中をさまよい、8月29日頼朝主従は、わずか7騎で真鶴から海路安房へ逃れて、九死に一生を得た。
そして、1ヶ月後に鎌倉に入り、やがて建久3年(1192年)鎌倉幕府を開いたのである。

識別子 ODA20120055
年代 不明
地域 早川・片浦地域
撮影場所 小田原市石橋
カテゴリ 文化
産業・観光
災害
関連キーワード 佐奈田与一石橋山古戦場

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