広域交流拠点整備 小田原駅のあゆみ
小田原駅(熱海線)の開業
熱海線は、明治42年(1909年)11月に東海道線の国府津から沼津へ抜けるために箱根新線という名で計画され、大正5年(1916年)12月に国府津からの分岐工事が始まり、大正9年(1920年)10月21日に小田原駅間6.2キロが開通した。小田原駅もこの工事に沿って、現在地に建設され開業した。
こうして、小田原の町は京浜と直接に結びつく大きな交通路を有することができ、町はその開業に沸いた。
さらに、熱海線が全通すると、今まで軽便鉄道で早川口に出ていた片浦、真鶴方面の人々も小田原駅へ出るようになり、商店街も駅を中心にして新しく形成されていった。
丹那トンネルの開通
丹那トンネルが開通するまでの東海道本線は、天下の険、箱根を避けて御殿場を経て沼津に通じていたが、急勾配が連続しており、長大列車を快速力で走らせることができなかった。
そこで、国府津から小田原、熱海を通って沼津へ抜ける新線が考えられたが、箱根から伊豆半島に向かって続いている山脈に穴を開けない限り沼津には出られないことが難問題であった。
丹那トンネル計画は、明治42年(1909年)に始まり、大正7年(1918年)に起工したものの、大湧水や崩壊事故により工事は難航を極め、「魔の丹那」といわれたが、16年の苦しい工事の末、昭和9年(1934年)11月30日に遂に開通した。
こうして、東海道本線は、勾配の減少により輸送力を2倍に上げ、その影響で日本の鉄道輸送も、このときから飛躍的に増大した。
この丹那トンネルの開通によって、小田原は、ローカル線の立場から東海道本線の主要駅として再び日本の交通幹線上に復帰し、以後その地位は揺るぎないものとなった。
東海道新幹線の停車
東海道線は、日本の交通の大動脈であったが、根本的には明治22年(1889年)に全通したもので、曲がりくねった狭軌路線であり、将来の輸送需要には限界が予測された。そこで、最も効率的な大量輸送施設である新幹線を増設することとなった。
かくして新幹線の工事は、昭和34年(1959年)4月に新丹那トンネルの起工によって開始された。昭和37年(1962年)6月には、鴨宮・大磯間12キロの試運転が開始され、近代科学の粋を集めて試作された特急電車がこの沿線で見られ、小田原の鴨宮基地は一躍時代の脚光を浴びた。
そして、昭和39年(1964年)10月1日、東海道新幹線は開業日を迎え、こだま1号車は、小田原駅開業日、丹那トンネル開通に次いで三度目の市民こぞっての喜びのうちに小田原駅に停車した。
自由通路建設前の小田原駅
小田原駅東西自由連絡通路の開通によりその役割を終え、平成15年5月、82年の歴史の幕を閉じた。
自由通路完成時の小田原駅
写真右手前のかまぼこ型の屋根の部分が大雄山線、その右奥のグレーのアーチが小田急線、左中央の箱型になっている部分が駅ビルを貫通する自由通路、その上部の白いアーチが東海道本線、左奥が新幹線である。
現在の小田原駅
平成15年12月に東西自由連絡通路が完成し、平成16年3月には西口駅前広場が、平成18年3月には東口駅前広場が再整備された。また、平成16年3月には西口側の新幹線高架下に新たな店舗が、平成17年6月には駅ビルがオープンし、アークロードに面した店舗とあわせて、多くの人で賑わいをみせている。
小田原駅は、JR東海道新幹線、JR東海道本線、小田急線、大雄山線、箱根登山線の5路線が乗り入れ、背後に富士箱根伊豆国立公園を控え、1日約19万人の乗降客数を数えるなど、神奈川県西部の交通の要衝として、また、広域的なアクセスの結節点として大きな役割を担っている。
周辺地区は、就業・就学・消費活動・行政サービス・医療など、県西地域の社会経済の中心地であるとともに、小田原城を始め、数多くの歴史的・文化的資産が散在しており、歴史・文化拠点ともなっている。
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