小田原城は、1417年大森頼春(よりはる)の時に城郭を整備した。1495年に北条早雲が小田原城を奪い、その後、豊臣秀吉に開城するまで栄華を極めた。徳川家康の命を受けた大久保忠世(ただよ)は、北条時代の城郭を基礎に江戸初期の1632年以降、近世城郭への大改修が進められ、その際、二の丸への正門として江戸城の大手門と同じ格式を持つ、銅(あかがね)門が建設され威容を誇っていたが、明治3年の廃城後、明治5年に解体された。
―棟梁は宮大工と呼ばせていただいてよろしいのですか?
宮大工ってのはさ、お寺さんとかお宮さんとかね、専門にやる棟梁がいるわけなんですよ。小田原ってところは昔から器用な大工さんが多くてね、棟梁たるものはお宮さんだってお寺さんだって茶室だってね、何でもできなきゃいけないってところがありましたよ。また、そういう建物をつくる金持ちってのは、小田原には意外と多かったね。 鈍翁(どんのう)さんとか幻庵(げんあん)さんとか耳庵(じあん)さんとか小田原にも茶人がいたけどね、あの人たちがいなくなった時代からピタッと終わったみたいね。その後を継ぐ人がいなくてね、人手に渡って細かく分譲されたりとかで、技術が伝わらなくなっちゃったね。
―子供の頃の話を聞かせてください。
俺は昭和12年生まれなんだけど、当時は頭のいい子でも、いろんな事情で学校に行かれない場合が多いわけだよな。俺なんかだと弟や妹もいて5人兄弟で、おじいさんが40代で亡くなってるもんだから親父も苦労してるわけだよ。だから小さい時から金を稼ぐってこと、新聞配達とかね。朝5時頃でも間に合うんだけど、3時に起きて箱根の塔ノ沢まで配りに行ってたよ。戦前だからね、車も木炭車で、交通量も多くなかったからよかったけど、そのかわり冬になると雪が降るんだよね。そうすっと、1尺以上積もってるから自転車が全然だめで、山崎のあたりに置いて、後は駆け足で、一番上は一の湯と環翠楼で、塔ノ沢だけで10軒ばかりあったかな。あの当時、新聞配達だと300円くらいなんだけど、俺は千円くらいもらってて、兄弟に何か買ってやったりしてたよな。野球もやってたけど途中でやめちゃって、中学卒業してからは大工の修行を始めたんだよな。
―技術の習得は?
15歳くらいから始めて、普通は年季が明けるまで大工組合からお墨付きはもらえないんだけど、俺の場合は身内の親方連中が大勢いたもんで、一度も他人のところには出ないで掛け持ち掛け持ちで、25、26歳くらいまでその親方連中が元気でいてくれたからね、すごく心強かったですよね。だから、厳しいとか辛いとかは全然なかったね。でも、所帯持って仕事を自分で取り始めてからは結構苦労したね。昔は腕さえよけりゃすぐに親方になれっからっていってた時代から、機械化されてきちゃった。それで、腕を見せるってことが減ってきたっていうか、仕事が粗雑になってきたね。食うには困りはしなかったけど、いい仕事が無くなっちゃったね。それも、ハウスメーカーが出始めてきたんだね。施主さんも世代が代わり、早い、安いが求められるようになってきて、もう、腕がいいやへちまじゃ飯食えねえやって、早目に切り替えなきゃなって思ったね。なんかね、さもしくなったっていうか、やり切れなさがあったな。せっかく腕を磨いてきたけど何にもなんねえやと思ったね。
銅門は、櫓門の飾り金具に帯状の銅が貼られていたことがその名前の由来だったといわれている。完成から10年を経た今でも、銅色に輝く。
―棟梁は何代目ですか?
俺はね、四代目なんだけど、本家は静岡県の沼津の奥の方らしいですよ。親父の弟が調べてみるよって調べたらしいんだけど、その人も早く死んじゃったから、何か書いたもんがあったんだとは思うんだけどね。芹澤って在所があったっていってたね。
―大工は安定した職業ですか?
馬鹿(ばか)は職人にしろなんて時代だったからね。やってみると確かに食えるわね。でもね、親方、棟梁となるとできないね。昔は雪隠大工(せっちんだいく)ってのがいて、大工としていくら修行しても、上達できねえ者もいたわけですよ。それでもそれなりに飯は食えたわけだよね。一軒の家を建てると必ずトイレとか小屋とかそういう場所があるからね。だからどの現場にも、一人や二人はそういう大工さんはいましたよね。それでもそれで満足していた時代だね。嫌がらなかったよ。自分にはこれっきゃできないんだという観念があったよね。今でもそういうところはあるんじゃねぇかな。親方には、「おい芹澤よう、50軒家を建てりゃ、建て替え建て替えで代々飯が食えっから」ってこういうわけだよ。だから仕事があっても無くても、盆暮れの挨拶(あいさつ)は欠かさず行けよって、そういう教えは受けてたよね。やっぱり顔を出さなきゃだめなんだよね。今はもうそんなこともやらなくなっちゃったからね。だからどんどん住宅メーカーのセールスマンに取られちゃったよね。
―棟梁と呼ばれるには?
責任者だよね。一軒受けるときはすべて受けるわけだから、どんな些細(ささい)なことでも棟梁に責任があるわけだよね。瓦屋には瓦屋の親方がいるわけだけど、棟梁がいて職しょく方かたがいるわけだからね。いろいろな波もあるし、気に入らないと替えるわけだけど、うちはほとんど替えないですよ。もう、何十年もずーっとね、70歳頃まで使ってるけどね。やっぱり取り替えて、最初に頼むときの見定めみたいなのがあるみたいね。職方がよくなければ、いい棟梁には絶対なれないですよ。
―道具について教えてください。
いい道具を使うようにはしてたね。道具屋のおじいさんがね、すっかり気に入ってくれて、「おまえ、金は出世払いでいいから、その一番いい道具を使え」って、ウィンドウから持ってきて、貸してくれたわけだよな。いい道具は全然違うよ。銅門の時で180万円くらい道具代に使ったから、みんなびっくりしてたね。早くうまく仕上げるには、いい道具を使わないとね。伊勢の宇治橋をやった棟梁が、「親方、小田原では道具はどこで頼んでんだ」っていきなりこう来るわけだ。「いや、そこいらの金物屋だけど」って言ったら、そんなんじゃだめだって。ましてこれから文化財をやっていくようになると思うけども、やっぱり、一流の道具を使わなきゃだめだよって。それで鍛冶(かじ)屋さんとかみんな手配してくれて、あの人にはほんと頭が下がったね。
美しい釿(ちょうな)の跡が入った梁(はり)が何本も連なり、複雑な木組みと合わさって重厚な構造を見せる見事な職人技である。
―文化財の仕事は面白いですか?
面白いねぇ。毎日やってても飽きないね。吉野木材のおじいさんがね、丸太をごろんと転がして、どっちが東西かわかるかって。そりゃ、ぱっと見りゃわかるよって答えたらね、奈良にもいい大工は沢山いるけど、わかる大工はなかなかいないよって。それで、東なら東って一字だけ書いてやるらしいんだけど、それも癖になるからあまりやらないらしんだ。でも、結局それが材料の基本なんだよ。北東の木は日が当たらなくてしぶといから、そういうのは日陰で縁の下の力持ちのように使ってやると何百年も持つんだけど、そんな木を表の東南に出しちゃうとすぐ狂っちゃうし腐っちゃう。住吉橋は反り橋だから曲がった木を使わないと、鉋(かんな)で削っても直ぐ元に戻っちゃうよって。そりゃそうだ。材木屋の方が大工より詳しいわけだ。それでね、材木屋に気に入られてね、俺も面白くてしょうがなかったよ。
―一般住宅に対して思うところはありますか?
日本古来の木造建築って、もう一部のお金持ちにしかできない時代で、逆に欲しいっていう人も少ないんじゃないかね。小田原はうんと金持ちが多いけど、それでも少なくなってんだろうね。俺がやった家は、ほとんど出桁(だしげた)造りになってるわけ。これは手間がかかってお金もかかるわけだけどね。でも、お金を出すんだったら軒先が出た、多少のことでは土台まで雨のかからない長持ちする住宅も必要じゃないのかなって言ってやりたいな。俺はね、施主さんと建てる前にまず土地を見るんだ。方角や隣近所はどうなってるのか、おてんとう様がどっちから出るのかを見て、それから棟(むね)の位置や間取りを決めていくんだ。施主さんと何度も会ってると、相手の気心も知れてきて、やっと建ぺい率と照らし合わせて図面ができ、坪単価を決めていくわけだ。それから、檜(ひのき)でいくのか、杉でいくのかを決めるんだ。俺は地元の木材を丸太でもらって製材にかけ、半年くらい乾燥させたものを使ってるね。また、屋根を瓦にするか、銅板葺きにするかも決め、棟上げの日どりが決まれば、晴れて引き渡しとなるわけだ。
銅門にて、当時の袢纏(はんてん)に袖を通す芹澤伸明棟梁
―息子さんも棟梁として後を継がれていますね?
俺は、継がせるつもりでしてたね。息子はどうだったかわからないけど、これから住吉橋やるんだっていう時に、そんじゃやってみるかなって、腰を上げてきた。それがね、普通の大工の仕事だったらならなかったかも知んねぇな。やっぱり文化財で、宮内庁だ何だって話が出てくるもんで、そんな終世まで残るもんだったらって気構えになって、最初から周りはベテラン連中ばっかりで、俺が教えなくてもみんなキチッと教えてくれるし、俺はもう絶対やらせたかったね。半月以上、朝から晩まで本当に切れるようになるまで鉋を研いでたよ。だから、基本的なことはしっかり身に付いてるから、後は細工だな。それはもう、盗んで覚えないとどうしようもねえしな。だから、出だしの環境としては本当によかったんじゃねえかと思うな。
住宅産業は、今のようになるって容易に予測できたよね。その通りになってきた。息子は希少な大工になりつつあるんだよね。そうなると、一般の住宅をやらなくても、その方が息子もよいと思うんだよね。やっぱり、時代に合うように仕向けてやんなきゃだめだと思うしね。
清閑亭で修復を行う芹澤毅棟梁。
―数寄屋(すきや)建築の決まりって何かあるんですか?
家屋の中に、茶室のデザインとか、要素とか取り入れたものが、数寄屋って呼ばれるようになったんじゃないかなって思います。また、現代の新建材を使いながらもこれは数寄屋だっていう人もいるし、その場合は思想的なことで呼んでるんだと思います。僕は数寄屋っていうと桂離宮に集約されていると思っているし、17世紀に小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんをはじめ、著名な茶人達が腕を振るって造った、いわば数寄屋造りの原点だと思います。
―どなたのもとで勉強されましたか?
京都に安井杢(もく)工務店て、数寄屋で有名な工務店があるんですよ。私が教えていただいていた先生は、そこの副社長で、安井清先生っていうんですけど数寄屋の技術を残さなきゃいけないっていうんで「清(せい)塾」っていうのを興されて、私も35、36歳の時、そこに参加させていただいたんです。昨年、病で亡くなられたんですけど、それまでの6年くらいは京都に通い詰めて、仕事をさせてもらったり、いろいろなところに連れて行ってもらったり、ここに行ってなかったら古建築はやってなかったかもしれないですね。
住吉橋は木造の反り橋で平成2年に復元された。 右・芹澤伸明棟梁、左・芹澤毅棟梁。
代表的な大工道具、釿(ちょうな)と指矩(さしがね)で「水」という文字を作る。水は水盛りを表し、 建物の水平出しを意味する。
―文化財修復士の資格をお持ちですが、全国的にそんなにはいらっしゃられないのですか?
そうですね、関西より関東の方が建物も少ないんで、しょうがないんですが、関東の方が圧倒的に少ないんです。神奈川県では私も入れて3人だけですね。
―奈良や京都に行く方が仕事は多いように思うのですが?
それはね、奈良は奈良、京都は京都ってまた特別なものがありますので、なかなか入り込めない枠があるんです。僕も安井先生がいたから京都で仕事をさせてもらってましたけど、関東の人間が京都で仕事をするなんて、普通はありえないですよ。昔から奈良のものは奈良で、京都のものは京都で守るという文化があるんでしょうね。だからあれだけのものが残ってるんだと思いますよ。小田原のものは小田原の人達で守るってことが必要だし、ただ値段だけ天秤に掛けて、知識のないものにやらせるんじゃなくて、勉強しながら小田原の人で、人も建物も残していくということが必要なんじゃないかと思います。
―清閑亭(せいかんてい)の修復はいまやっているところなんですか?
平成22年の春先の突風でね、屋根が捲(めく)れてしまって、それをきっかけに緊急に何とかしなきゃいけないってことで、ちょこちょこっと。ことし調査をして、改修の計画を立てるってことだけど、部分的なメンテナンスも多いんで、少しずつやってます。
―これからの方向は?
古建築って、昔から何百年も経ってる建築が真に事実であり、何の疑いもないものであって、そう信じて古建築をやってるんだけども、そんなこともあって自分の得意なことを生かして、好きなことをやるにはどうしたらいいのかなって考えたら、やっぱり古建築をやるしかないかなって思いましたね。それで、勉強がてら他にどんなところがあるんだろうと出かけて行くと、同じことを思っている仲間がそこには集まってるわけですよ。そこから交流の輪を広げて、仕事が無かったら手伝いに来いよとか、そういうやり取りや勉強もしながらお互い刺激し合い、それで10年経っていろんな資格も取らせてもらってという、今はそういう段階なんです。
「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。
発行:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
問い合わせ:小田原市広報広聴課 事務局(0465-33-1261)
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