技人

つなぐべき小田原の智恵 技人(WAZABITO)

小田原漆器 池谷元弘 表紙

vol.12【小田原漆器】 池谷 元弘

これしかない、ここしかない、これきりない。

「japan(ジャパン)」と西洋で称される漆芸品は、16世紀後半ポルトガルによってヨーロッパに伝えられ、漆が持つやわらかな光沢は、神秘的な日本の美を代表する工芸品となった。ポルトガル人の通訳ジョアン・ロドリゲスは、『日本教会史』の中で、「漆の木は日本以外に中国、ベトナム、カンボジア、タイにもある。しかし、日本人はこの技術に卓越していて、この漆でいろいろなものを作るが、それは光り輝く清らかな革でできているかのように見える。」と記している。
漆芸品は、中国の揚子江下流から出土した約7千年前の漆椀わんが最古とされていたが、平成12年、北海道の南茅部町(みなみかやべちょう)(現・函館市)垣ノ島B遺跡から漆で塗られた副葬品が大量に見つかり、年代測定の結果、約9千年前のものと判定され、漆の文化や発祥地などの定説を覆す新たな発見となった。
小田原漆器と呼ばれる小田原の漆芸品は、室町時代中期、箱根山系で切り出した木をろくろにかけて、お椀などの器に削り、それに生漆を塗ったのが始まりとされている。ゆがみが少なく木目が美しい欅(けやき)の木地に、漆をすり込むように何度も塗っては乾かす「すり漆塗」と、生漆を繰り返し塗っては乾かし最後に研いで仕上げる「木地呂(きじろ)塗」があり、いずれも木地の木目の美しさを残した塗りに特徴がある。
小田原蒲鉾 上村純正 表紙

vol.11【小田原蒲鉾】 上村 純正

みんなでいいもの作って、他との違いを出していくことが一番じゃないかなと思いますね。

蒲鉾(かまぼこ)は、平安後期に記された『類聚雑要抄(るいじゅざつようしょう)』の中に、関白右大臣が東三條へ移御(いぎょする)際の祝宴の献立が図になって残っており、現存する最古の記録とされている。また、室町時代の文献『宗五大双紙(そうごおおぞうし)』には、「かまぼこはなまず本也、蒲の穂を似せたるもの也」という記述があり、材料はなまずの身をすり潰し、細い竹にそのすり身をつけて火で焼いた、今でいう竹輪のようなもので、その形が蒲の穂に似ていることや、蒲の穂は鉾に似ていることから蒲鉾と呼ばれるようになった。
小田原での蒲鉾作りは、今から230年以上遡ることができる。当時の小田原では、たくさんの魚が獲れ、また東海道の宿場町としてもにぎわい、旅人だけでなく職人や料理人の出入りも多く、そういった人たちから蒲鉾作りの技が伝わったと推測される。現在の小田原蒲鉾は、原材料であるグチと小田原の水、本来の製造方法にこだわり、品質の保持と製造技術の伝承・発展に努めている。
足柄茶 田中康介 表紙

vol.10【足柄茶】 田中 康介

みんなで共に産地をやっていかなきゃいけないなって思いがあるんですね。

足柄茶は、大正12年に起こった関東大震災の産業復興策として、大正14年に清水村(現山北町清水地区)で栽培されたことが始まりとされている。大正13年10月に清水村役場から出された「有望ナル茶ノ栽培」という茶業現地調査報告書に基づき、全村一致で茶の導入を決定した。戦後、神奈川県の産業復興計画でも茶の振興が図られ、今日では、山北町、秦野市、南足柄市、小田原市、松田町、相模原市、清川村、湯河原町、愛川町など神奈川県の西部から県央にまで栽培地域も広がっている。
丹沢・箱根山麓一帯では、新芽が出るころに立つ朝霧が自然の寒冷紗(かんれいしゃ)となり、程良く日光を抑えることで、旨み成分のアミノ酸が多く、苦味の元であるタンニンが少ない、香りの高い柔らかな茶葉が作られる。火山砂さ礫れき土壌もお茶の栽培に適しており、「かながわブランド」や「かながわ名産100選」にも選定されている。

長唄三味線方 杵屋響泉 表紙

Vol.9【長唄三味線方】 杵屋 響泉

何か心にピンと感じていただければ、

それだけでもいいんです。

長唄(ながうた)は三味線音楽の一つである。曲によっては鼓、太鼓、笛などの囃子(はやし)を加えるが、基本的には三味線と唄(うた)の音楽である。江戸時代から歌舞伎と共に発展してきた。近代においては歌舞伎の伴奏音楽にとどまらず、独立した音楽としての地位を確立した。伝承音楽としての長唄にはアレンジやアドリブはないが、オーケストラでも指揮者によって演奏が違うように、長唄も立三味 線(たて じゃみせん)の奏者によって、その個性が出る。その顕著な例としての奏者が杵屋 響泉(きねやきょうせん)さんである。
400年近い歴史を持つ長唄宗家の家系に、五代目杵屋勘五郎の一人娘として生まれ、今春100歳を祝い、紀尾井ホールで記念の演奏会『百乃壽( もも のことぶき)』を開催。舞台や後進の指導にと、今なお現役で活躍されている。微妙な勘所(かんどころ)の音色の違いと共に、感性による曲の解釈の違いが演奏家の個性になる。今の時代に忘れがちな昔ながらのやり方が、かえって今の人には新鮮に映る。

定置網漁 高橋征人 表紙

vol.8【定置網漁】 高橋 征人

初めてのことに挑戦するということは大変です。

相模湾は黒潮の恵みを受け、生息する魚は1600種にも及ぶ日本でも有数の豊かな漁場といわれている。特に定置網漁は、神奈川県の沿岸漁業の漁獲高の70%を占め、かつては鰤(ぶり)漁で全国にその名を轟とどろかせた。環境の変化により鰤漁は衰退したが、今日でもほぼ毎日行われる水揚げは、鯵(あじ)、鯖(さば)、鰯(いわし)など、私たちの食卓を十分に満たしてくれている。
小田原は古くから西湘地域の漁業の中心地であり、岸から沖へ500メートルから1000メートルも離れれば、水深が100メートルにも達するという急深の地形に合わせて、定置網も発達してきた。魚の習性をうまく利用し、仕掛けた網に誘い込む定置網漁は、相模湾では約200年の歴史を持ち、江戸時代後期にまで遡さかのぼる。定置網はその漁場や漁獲種によって複雑に形を変え、設置場所や規模、その形状など、先人からの知恵がふんだんに詰まっている。

製材工 大山謙司 表紙

vol.7【製材工】 大山 謙司

柔軟に変化させるってことが必要だよね。

小田原の森は約4千ヘクタールで、かつて植樹した人工林が約6割を占める。これらの森林は、林業の担い手不足や木材の需要低迷のため森林の管理が行き届かず、手入れが不足した森林が大半である。以前は小田原城を中心に数多くの製材工が存在したが、木造建築の減少や一般住宅などへの国産材の需要減少に伴い、今は県西地域において数えるほどしか残っていない。 

鋳物師 柏木照之 表紙

vol.6【鋳物師】 柏木 照之

ひとつ作った先に、新しいものが見えてくる。

貞享3(1686)年大久保忠朝(おおくぼただとも)に従属し、佐倉藩を経て小田原の鍋町に移り住んだ柏木家が、元禄15(1702)年から鋳物業を営み、明治24(1891)年、柏木民治郎の時代に、山田治郎左衛門の東京転出に伴い、山田家の鋳物設備を居抜きで譲り受け、鋳物生産量を大きく伸ばした。

今日、すでに鋳物の生産地は埼玉県川口市などに移ったが、現在も砂張(さはり)や鳴物(なりもの)といった特長を持つ柏木美術鋳物研究所が、小田原で唯一その伝統を受け継いでいる。
大工 芹澤伸明 表紙

vol.5【大工】 芹澤 伸明

 日陰で育った木だって、うまく使ってやりゃ銘木になるんだよ。

銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古い写真、絵図などを参考に、石垣による桝ます形、内仕切門及び 櫓やぐら門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、当時の形式と本来の工法により、平成9年に復元された。

この復元工事の棟とう梁りょうとして白羽の矢が立ったのが、その8年前に銅門への通路にあたる住吉橋復元工事の棟梁を務めた、芹澤伸明氏である。

小田原提灯 山崎勇 表紙

vol.4【小田原提灯】 山崎 勇

おだやかに暮らしてりゃ、仕事も自然にくるよ。

JR小田原駅の改札口の頭上、小田原市のシンボルとして特大の小田原提灯がつられている。しかし、その小田原提灯、探してみても詳しい文献がまったくといっていいほど残っていない。江戸時代中期に小田原の甚左衛門という提灯職人が考案、道了尊(大雄山最乗寺)のご霊木を使い、魔除けとなり旅人を狐狸妖怪から守った。

相模人形芝居 下中座 岸 忠義 表紙

vol.3【相模人形芝居 下中座】 岸 忠義

ほんと、根気ですね。

一年二年で諦(あきら)めてちゃ なんにもできないですね。

淡路島をルーツとする人形芝居は、その興行によって全国に広がり、地方では、主に農家の跡取りの娯楽として各地に定着した。

神奈川県内には15座の人形芝居があったが、人形のカシラの構造や人形の操作方法など類似している点が多く、これらの人形芝居を総称して相模人形芝居と呼ばれている。

木象嵌 内田定次 表紙

vol.2【木象嵌】 内田 定次

これで満足ってこたぁ、一度もねぇなぁ。

箱根・小田原の木工と聞けば、寄木細工と答える人がほとんどだが、もう一つ木象嵌という細工がある。制作工程はそれぞれ違うが、特徴として寄木は直線的な幾何学横様に対し、木象嵌は別名木画とも呼ばれるくらい絵画的である。

 

足柄刺繍 上田菊明 表紙

vol.1【足柄刺繍】 上田 菊明

糸は生き物。息してるんですよ。

だから糸と会話しながら作品ができていくんです。

誰かに頼まれたわけでも、まして儲かるわけでもない。それでも気の遠くなるような時間をかけて、作り続けてきた。と聞くと、どれだけ巌しい人かと想像するが、足柄刺繍作家上田菊明さんは温和な笑顔でいつも優しく迎えてくれる。苦境に耐えてきた人間の怖さを感じさせない。しかし話し始めるといつも、その言葉は強く自信に満ちていた。

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