最終更新日:2013年07月17日
長唄(ながうた)は三味線音楽の一つである。曲によっては鼓、太鼓、笛などの囃子(はや
400年近い歴史を持つ長唄宗家の家系に、五代目杵屋勘五郎の一人娘として生まれ、今春100歳を祝い、紀尾井ホールで記念の演奏会『百乃壽 (もも のことぶき)』を開催。舞台や後進の指導にと、今なお現役で活躍されている。微妙な勘所(かん どころ)の音色の違いと共に、感性による曲の解釈の違いが演奏家の個性になる。今の時代に忘れがちな昔ながらのやり方が、かえって今の人には新鮮に映る。
―長唄とは何か教えてください。
長唄と申しますが、唄だけを指すものではございません。三味線音楽の中の、一つの独立したジャンルを大きく分けると「語り物」と「唄い物」になります。叙事的な「語り物」に対し、長唄は「唄い物」と呼ばれて、叙情的でメロディーやリズムなど、音楽としての面白味を重視しているんですね。
例えば3人三味線で、3人唄だとすると、舞台の真ん中の三味線方が立三味線、真ん中の唄方を立
唄(たてうた)といいます。三味線音楽はある意味、立三味線が洋楽でいうコンダクターの役目なんです。
―長唄はどのように始まったのですか。
長唄は歌舞伎の伴奏音楽として発展してきました。擬音とか擬態とか、歌舞伎の場の情景を盛り上げる音楽というのは長唄が多いですね。ヒグラシが鳴くようなことも三味線でチィチチチチチチチィって、静かな場面で聞こえてくると何だろうって、そういう情景を表すことも三味線でできるんです。昔の人はよく考えておりましてね、悲しいところには悲しいような三味線がございます。昔は、川の流れがありますと、芝居などではそれを表す手が決まっているわけなんですよ。
五代目杵屋勘五郎 この三味線を構える姿が、長唄三味線方にとって理想といわれてきた。
―現在の長唄はどう変わりましたか。
近代の長唄は、演奏形態が時代によって変わってきたんです。歌舞伎のものは黒御簾(く ろみす)※1音楽といって、それはそれで現在も残っております。それとは別に独立した形態として、ご贔屓(ひいき)などによりお座敷芸になり、その後、演奏会という形ができ上がってきたのが明治以降の長唄なんです。それ以前に作曲されるいいかたが大勢出てこられましてね、名前を申し上げると九代目杵屋六左衛門、このかたは有名な『越後獅子(えちごじし)』を作曲なさいました。六左衛門は現在十五代まで続いているわけですが、特に十一代目の六左衛門というかたは『紀州道成寺(きしゅうどうじょうじ)』や『橋弁慶(はしべんけい)』『綱館(つなやかた)』など名曲を残されました。先代のいいかた達が、長唄は長唄として立派な品格のあるレベルの高いものにしなくちゃいけないと頑張ってこられたんですね。
※1:【黒御簾】舞台の花道のそばに格子窓に黒い簾すだれがかけられた小部屋のこと。ここでは、歌舞伎の演技に合わせて長唄が唄われたり、効果音として太鼓や鼓などの楽器が演奏される。
―今は歌舞伎の伴奏として長唄を演奏することはないのですか。
明治初期には、うちの祖父は囃子頭
(はやしがしら)をしておりましたので歌舞伎座で演奏しながら、長唄の演奏会もやっていたようです。けれど現在は一つの音楽のジャンルとして独立しています。歌舞伎の伴奏音楽は「歌舞伎長唄」といわれ、演奏会とは別に黒御簾内でいたします。所作事(しょさごと)※2や『勧進帳(かんじん ちょう)』などの荒事(あら ごと)※3は、歌舞伎役者に合わせた演奏になりますので、演奏会の時とはまた違ったことです。中には演奏家として望まれて、歌舞伎で演奏されるという場合もあります。※2:【所作事】一般的には歌舞伎の舞台で演じられる舞踊。主に長唄を伴奏とするものを指す。
※3:【荒事】怪力勇猛の武人や超人的な鬼神などによる荒々しく誇張した歌舞伎の演出様式。
―お生まれは東京の築地だそうですね。
築地で生まれました。子どものころ肺炎を患ったりして、気管がちょっと弱かったんです。そしたら、お医者様が少し転地療養した方がいいよとおっしゃって。その頃、芸者衆の中に亀寿(かめじゅ)さんという威勢のよいかたが小田原から東京まで一人でお稽古に来られていたことがあるんですよ。そのかたにこの話をしましたら、「小田原は転地療養にいいところですから、ぜひいらっしゃいませんか」と言われて、それで小田原に参りました。
響泉さんは、孫の和久(わく)さんには、自分が母から稽古をつけてもらった時のように、今も厳しく稽古をつけている。
―いきなりご家族で小田原に引っ越されたのですか。
私がまだ子どもの頃ですのであまりよく覚えておりませんが、早川の浜のそばに「かめや」さんという旅館がありました。そこへ1週間ぐらい泊まって様子を見て、これなら大丈夫かなということで、小田原に来ることに決めました。まずは、鎌倉の大仏さんのすぐそばの所に方除(ほうよけ)で1か月、2か月おりまして、それから今度は小田原に越してきました。それが大正12年の震災の年なんです。その年の春、2年生の時に小田原の学校に入りました。その9月1日に震災に遭っちゃったんですよね。それで、母はさっそく東京に引き揚げようとしましたが、東京は全滅だって言われまして、築地の家も火災に遭ってしまって、それじゃあしょうがないって、小田原に落ち着いて現在に至ります
。
―何歳ごろから長唄の手ほどきを受けましたか。
4つの時に、父の三味線に合わせて『宵は待ち』を唄ったのが最初だと、母によく聞かされました。母の杵屋栄子も、東京で初めてできた女流演奏会のメンバーでしたので、傍でいろいろ教わりました。
昔から6歳の6月6日が芸事を始めるのにはよいといわれていましたので、私も6歳の時に道を開けていただきました。父を早くに亡くしましたので、父の芸を私に伝えて残さなくてはいけないと、事あるごとに言われました。ですから東京の父の弟子のところで教えてもらったり、随分通いました。
杵屋響泉さん(右)は、平成25 年3月23 日、100 歳を祝った演奏会「百乃壽」にて、父・五代目杵屋勘五郎作曲『賤の苧環(しずのおだまき)』を演奏した。左は娘の杵屋六響(ろくきょう)さん。
―
ふつうの家庭でも長唄を習わせていたのですか。昭和の初めの頃は、お稽古事といえばお裁縫かお三味線かっていう時代ですからね。今でいえばピアノやバイオリンですわね。皆さん初めは、お婆ちゃまとかお母さまが、三味線は小さい時からやらないと難しいからっておっしゃって、6歳になると連れていらっしゃいました。ですから6月6日にはお稽古場に、小さなお子さん達が賑(にぎ)やかでしたよ。
小学生のかたは学校の帰りにそのままお稽古に来られていました。順番を待つ間に女学校のお姉さんに宿題を見てもらったり、大人のお弟子さん達に遊んでもらったり。お三味線にしても、初めのうちは何が何だか分りませんが、だんだん弾けるようになってくると目がきらきらするんですよ。小田原には見番もございましたし、長唄に限らず毎日どこかしらでお三味線の音がしていましたね。
『紀州道成寺』の舞台から。上段中央の立三味線が杵屋響泉さん。
―長唄宗家の家系ということは、400年近い歴史があるわけですね。
94年間、三味線を弾き続けてきたその手は、今も柔らかくふくよかである。
―亡くなられたご主人(詩人・木村孝)のことを少し聞かせてください。
主人は小田原生まれの小田原育ちで、長唄がやはり好きな人でした。長唄を通して知り合いになりまして、私が28、29歳の頃からよく長唄を聴きに来られました。私よりひと回り若かったんですけれど、すごく芸を大事にしてくれましてね、私がやってることに対してもいろいろ厳しい批評をしてくれておりました。時には「今日の勧進帳は花火が上がったようでよかったよ」とか、「君の親父さんは立派な人だったんだなぁ」と言ってくださることもありました。私が曲目を自分なりに解釈してやっておりますと「あぁ、君はそういう風に解釈したのか、それもいいけど、そういうときはこういうものもあるんじゃないかなぁ」なんて、弾いているそばで私に教えてくれました。それが今になって、曲に対する解釈で随分勉強になりましてね、だから今があるのは主人のおかげじゃないかなって思います。
夜も晩酌が始まると文学の話ばかりで、またあの人の話が出た、またあの本の話だと、そう思いながらお酒のお相手をしておりましたけれど、聞いておりましたのが残りますね。聞き学問でございますね、私は。主人の話をそばで聞いてまして、始終勉強をさせていただきました。
―詩集を読ませていただくと、ご主人はお優しいかただったようですね。
ええ、とっても。静かな人でしてね、心の大きい人でした。怒るってことをあまりしない人でした。何でも「おお、おお」って言って受けちゃう人でね、だからお友達も多うございました。随分いろんなかたが見えてましたね。川崎長太郎さんと交友があったり、作家や詩人のかたはほとんど主人が家に連れて来て、お酒を飲んでました。お酒
の好きな人でしたから、皆さんいらっしゃると一晩中飲み続けるんですよ。ですから、いつも大変でした。その挙げ句に「1曲お聴かせしろよ」なんて言うんで、私が『勧進帳』をお聞かせしたりしますと、「凄(すご)いなぁ、奥さんの三味線、心にピンときたよ」なんておっしゃるかたがいらっしゃったりしてね。それから、子煩悩な人でした。娘が二人いるんですけど、よく可愛がって大事にしてくれました。杵屋響泉さん(中央)、六響さん(左:娘)和久さん(右:孫)、長唄宗家として現在も三代続いている。
-若い頃から長唄は生涯続けていく覚悟でしたか。
ええ、もう私はこの家に生まれまして、三味線で一生送るのかなと思ってました。主人のおかげで結婚もさせてもらいまして、家庭を持つ喜びを与えてもらって、それからまた人生が変わりました。それでなかったら、私は偏屈な女になっちゃったかも知れません。それまでは、人の話をゆっくりと聞くなんて余裕がなかったんですけど、それが主人のおかげで、いいお話を聞くと感激しちゃってすぐ涙が出るようになりました。それだけ心が広くなったんじゃないでしょうかね。いろいろ経験して、深く物事を考えられるようになったんだと思います。
昔、家におりましたときは朝起きて、お掃除するとすぐにお稽古が始まって、夕方までお稽古して1日終わるんですね。人間て毎日こんなことばかりして1日暮らしていくのかなって思ってたんですけども、主人と結婚しましたら、朝起きて大急ぎでお洗濯したり、お掃除したりして、それからお稽古して、それからまた御飯の支度して、ああ、これが人間の生活なんだなってそのとき思いましたね。それまでは朝起きたきり三味線持ったままの生活をしておりましたから、人間てつまらないな、なんて思っておりました。若うもございました。
主人のおかげで結婚させていただいて、人間としての苦労もいたしました。お金の無い時期もありましたし、いろんなことで随分苦労しましたけれども、家族明るく幸せでしたし、これが人間なんだなってことをしみじみ味わわせてもらいました。そういう意味では視野が広がりましたね。ですから、感情的なものも、以前よりずっと三味線の中に入れられるようになったんだと思います。人間の喜怒哀楽が三味線で出せるんですよ。そういう気持ちになっちゃうんです。それが楽しみでございますね。
明治44年、五代目杵屋勘五郎が、十四代目杵屋六左衛門襲名披露演奏会のために作曲した『都の錦』の長唄唄本。
続けてやっていただきたいと思いますね。若い人が減って、時代がどう変わっていくか分かりませんけれど、長唄だけはどうかなくさないように続けてもらいたいと思います。時代の変化は感じております。お客様によってはもっと分かりやすく変えていかなくちゃいけないんでしょうけれど、曲への自分の想(おも)いは出したいと思いますね。長唄を知らないかたが聴いてくださった時、曲の内容が分からなくても「胸にズンときたんだけどこれは何だろうな」って、何か響いてくれるものがあればそれでいいなって思ってますの。
私は、きつい人間なものですから静かな曲はあまり向かないんですよね。ストーリーがあって、ドラマチックな曲が好きなんです。『楠公(なんこう)』は、楠正成
(くすのき まさしげ)と息子正行(まさ つら)との親子の別れの曲でして、正成になったり正行になったり、自分が心で泣きながら弾いてしまうんです。
私はどうかその曲の心を表したいなといつも思っています。舞台は曲によって演奏人数が変わります。皆さんと手合わせするときは、「ここはこういう気持ち」、「ここはこうして」って、皆さん私の心に添ってくれるんですよね。そうすると、曲の中で私の感情が高ぶって燃えてきて、三味線の人も唄の人もお囃子の人たちもみんな燃えるんですね。1曲済んだ後、幕が閉まるとみんなで「やったー」って何ともいえない快感があるんです。つまり一体感です。それが一番大事だと思います。
一番やりいいのは、父が作曲しましたものを演奏するときですね。父は始終三味線の新しい手※5を考えているような人で、即興的な創作を含めると300曲以上作ったようです。作曲当初は譜面がなかったものですから、口伝えにより今も現存するものは数十曲です。その残った作曲が、演奏会の度に耳にするほど皆様に親しんでいただいています。父が曲に込めた想いを、次に伝えることが私の望みです。その思いを、私の娘も自然に受け取ってくれます。父の気持ちが私の身体に染み込んでいるように、親子というのは不思議と血の中に分かり合える部分があるのでしょうね。
※ 5:【手】音楽でいうフレーズ(一区切りのメロディー)。
―今でもお弟子さんにお稽古をつけておられるのですか。
前は1日座りっきりでしたけど、今は1日7、8人てとこでしょうか。やってみたいとおっしゃるかたがいらっしゃいましたら、喜んでお引き受けしますよ。私は教えるのが大好きで、弾けてくるとそのかたも楽しいですし、ここまで弾けるようになってきたなと感じると私も嬉しいんです。
ですから、一生懸命皆さんにお教えするんですけど、習う側にも根(こん)が必要です。私が納得するまで、1時間でも2時間でもお稽古をすると、相手のほうが足がしびれたり、集中力が無くなったりして、もういいですと言って逃げるように帰って行かれます。そこを我慢すると、ぐんと弾けるようになります。どうしても1年近くは辛抱しなくちゃいけませんね。
それでどうにか弾けるようになるには3年かかりますね。初めのうちは辛いかもしれませんが、ひとたび弾けるようになると「三味線は楽しいですね、長唄はいいですね」と面白くて仕方ないとおっしゃいますよ。私はそういうふうにして差し上げたいと思っています。どうか長唄に興味を持っていただきたいなって思うんですよ。
―最後に長生きの秘訣
(ひけつ)を教えていただけませんか。家族が一緒にいて、私に心を尽くしてくれるのは有難いことと思っています。それでも、一番は長唄でしょうね。いつでも長唄は自分の命より大事に思いますが、それほど長唄に魅みせられておりますね。曲の中に入ってしまうんですね。「あーいい曲だなぁ」、「この曲はここでちょっと気持ちを変えていかないといけない」とかやっていますと、とっても楽しいんです。それでいて緊張します。舞台の上では、それこそ白刃を突きつけられても揺らぐことの無い覚悟で弾いております。夢中で闘える場があるということが、自分の気持ちの支えなんですね。これだけは若い人にも負けないんだ、ってものを持つことが大切だと思います。
「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。
企画:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・(社)小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
発行:小田原市
問い合わせ:小田原市広報広聴課 事務局(0465-33-1261)
平成25年6月
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