技人

技人vol.1【足柄刺繍】上田菊明

糸は生き物。息してるんですよ。
だから糸と会話しながら作品ができていくんです。

誰かに頼まれたわけでも、まして儲かるわけでもない。それでも気の遠くなるような時間をかけて、作り続けてきた。と聞くと、どれだけ巌しい人かと想像するが、足柄刺繍作家上田菊明さんは温和な笑顔でいつも優しく迎えてくれる。苦境に耐えてきた人間の怖さを感じさせない。しかし話し始めるといつも、その言葉は強く自信に満ちていた。

―子供のころはどのような時代でしたか?

 子供のころは親が繍箔(ぬいはく)を家業にしていたもんで、5歳か6歳ごろから集配の仕事はしていました。世の中はちょうど日中戦争が始まって、兵隊さんが出て行き、南京陥落で旗行列とかそのような時代でしたね。それでも刺繍の仕事は外国に輸出するためにあったようです。

―当時の刺繍産業は分業化されていたそうですが?

 そうです。刺繍自体が当時この辺では栄えた産業で、二千人も三千人も従事していたんですけど、問屋さんは小田原にも5、6軒ありまして、糸を染める人とか絵型を彫る人とか集配する人とかそういう人を雇って、また刺繍する人は工場があって、そこに人を集めて仕事をさせたり、農村の副業とか漁村の副業として仕事を出してたわけです。

―明治の頃の刺繍は?

 親に聞いた話ですけどね、昔は大和土産といって横浜の港で着物の背中に刺繍を付けて、初めは売ってたそうです。それが凄くもてはやされて売れ行きがよかったので、馬車道あたりにスーベニアというお店ができまして、そういうところに並べて随分売れたそうで、それがだんだん発展していって輸出になったようです。

―国府津の駅ができたことでこの辺りに刺繍が広まったようですが?

 それはもっと後の話で、話が戻りますが、明治5年に東京から桜木町まで鉄道が敷けると横浜の田舎の方に、田舎といっても弘明寺とか上大岡の方とかほんとの農村地帯で、その辺の産業として随分栄えたそうです。明治20年ごろだったか、国府津まで鉄道が敷けると横浜の港に近いということと、この辺の地域に産業が無いということで、農村や漁村の副業として大勢の人が従事していたようです。

―先ほど先生のご自宅も繍箔をされていたとお伺いしましたが?

 祖父の代は箱根に住んでいましたが、私の親が小田原に出てきて家業として繍箔を夫婦でやっていました。終戦後の話ですけど、両親と兄2人と姉さんと私と6人くらいで仕事をしてました。当持は凄い繁盛で、家族6人でやっても朝から晩まで仕事かあって、20人ぐらい女工さんを雇って2階で朝から晩まで剌していましたし、それ以外にも方々の家庭に内職として出していましたので、その集配なんかも私がやっていました。

『巡る季節』 P50号

『巡る季節』 P50号

農作業の様子

自宅の裏の菜園では、今も作品のモチーフになる草花や、妻と2人、食べるだけの野菜を栽培している。

5、6歳のころから家業のお手伝いをされてたということですが、先生が繍箔としてお仕事されるようになったのはいつごろからでしょうか?

 私は戦争中の子であまり学校も行ってませんし、勉強はしないで3年生から6年生くらいまでは兵隊さんと一緒に山の方へ行ってました。ちょうど高等科を卒業したころが16歳だったか、それを期に家業を手伝うようになりました。

先生が家業を継がれたというのは自然の流れですね?

 自然の流れっていうか、その内に仕事がだんだん無くなり最後は作家になったんですが、もとはそういうことに携わっていましたので、それが幸いしたっていうことでしょうか。

なぜ小田原の刺繍産業は衰退していったのですか?

 衰退といっても戦争が終わって進駐軍か横須賀や横浜に進駐してきたころは5、6年は凄い景気で、刺繍自体はものすごくよかったようです。その後は高度成長の時代で、産業として小田原にも色々な商売の方が来て、昔は小田原には大きな工場なんて無くて、パート収入も無かったから刺繍に人が集まったんですけど、昭和30年頃から注文も無くなり衰退していったんですよね。それと女工さんも高齢化して、仕事もないし作る人もいないので、繍箔という仕事は自然と絶えていくようになりましたね。

産業としての刺繍は衰退していくにも関わらず残したいと思われたのはなぜですか?

 それはもっと先の話で、その前に日本の着物とか帯とかを手掛けた後、足柄刺繍と名を付けて始めたことなんですけど。

40年ほど前の話になりますけど、日本の刺繍の中には一段くらい芯肉(綿)を入れているものもありますが、4段も5段も芯肉が入って立体的なことと、それよりも糸のぽかしっていうのが私が見たり聞いたりした中では、世界中で見たことも聞いたことも無かったので、是非これは残したいとかねがね思っていたんです。

刺繍を残そうとすると、下絵や糸の染めなどすべての工程を1人でやらなければいけないようになりますが技術の習得はどうされましたか?

 糸なんかは見よう見まねで家でも染めてましたからわかりましたけど、ただ作家ものとして創るには従来の繍箔の技法じゃ駄目なんですよ。もっと緻密で繊細な仕事に仕上げないといけませんからで独学で研究して徐々に仕上げていったんですけど、その間は大変なことですよ。生活もかかってましたしね。

上田氏40粛ごろ、やす子夫人と共に

上田氏40粛ごろ、やす子夫人と共に

商品化せずに刺繍作家として生きる決断は容易では無かったと思うのですが?

 昭和25年ごろから仕事も無くなって、食べるに困って勤めに行こうかという話もあったんですけど、ワイフが「おとうさんはいい腕を持ってるんだから、頑張ってやりなさいよ。生活の方は私が何とかするから」っていってくれましたし、その頃は裏に畑がありましたからモチーフにする野草を植えたり、野菜も植えていましたので、後は日常のものにお金が掛かるくらいでそんなにお金が掛かりませんでしたね。

 仕事が無いときは山に入って自然薯を掘って市場に卸したり、川に行って鮎をとっては魚市場に卸したりして、人によっちゃよくそんな避ぶ暇がありましたねっていわれるんですけど、それは遊びじゃなくて生活のためにやったことでね、あと鳥なんかもエアライフルで繋って焼鳥屋なんかにも売ったりしてました。色々考えると遊びみたいな仕事なんですけど、それは大変なことでそうして生活を補ってきました。

まだ、知名度も低いときは作家活動といっても発表の場所も制限されるし少ないと思うのですが、どのような活動を続けてこられましたか?

 昭和57年か小田原に小田原工芸協会っていう手仕事の協会が出来たんですよ。10年くらいで駄目になっちゃったんですけど、そこが小田原商工会議所で毎年のように発表をしていましたので、その会に入れていただいて10年くらいは毎年一点ずつ出展していました。その当時に足柄剌繍って名前を付けたんです。はじめは夫婦で小田原剌繍って名前を付けるつもりでいたんですけど、「おとうさん小田原じゃ範囲が狭いから、足柄地方で一大産業として栄えた刺繍ということで、足柄刺繍にしましょうよ」って当時大学生だった子供と夫婦3人で考えた名前です。

1980年代からいろいろな所に出展されていて、大きな賞も取られているのですが、いちばん記憶に残っているものはどれですか?

 県展なんかでは賞では無くて入選はしていましたけど、やっぱりシルク博物館に最初に出したのが、全国絹業協会って絹の業界の賞をいただいたんですけど、それか一番最初ですからね。他の賞もみんな嬉しいもんですよ、賞を貰えるということはなかなか大勢の中から優れたものしか貰えないですからね。

足柄刺繍の知名度が上がってきたのはいつごろですか?

 それはなかなか知名度なんか出ないですね。だいたい10年経って少し出たくらいかなあ、新聞かなんかにちょこっと載ってね。あとテレビの取材で来ていただいたのはいつ頃だったか、ちょっと忘れてしまいましたが「小さな旅」っていうテレビに出していただいて、関東、甲信越地方だけで全国放送ではなかったんですが、それでもそれが凄い反響で、習いたいとか、売ってくれとか、どこに行ったら見れるんだとか、何百件も問い合わせをいただいて、もうぴっくりしました。

NHKの番組「鶴瓶の家族に乾杯」でかなり知名度が上がったように思うのですが?

  それより前に、平成6年ごろか神奈川県の後援で、横浜のシルク博物館で私の個展を開いてくれたんです。そのときNHKが日曜美術館ていう番組で、個展の案内を出したいからっていうんで取材に来られて、作品を東京まで持っていって、番組として3、4分もやってくれたのかしら、桜井アナウンサーがハンドバッグとか額とか手に持って、それが全国放送で凄い反響でしたよね。

その日の内に沖縄から来られたり、能登半島の輪島から来られたり、一月ほどやったんですけど日本中から来ていただきましたし、そういう風に報道されるにしたがって随分知られるようになったんですけど。鶴瓶さんの時は、鶴瓶さんが突然来られて、それも全国放送でしたので、それも凄い反響で、全国から習いたいとかどこに行ったら見れるんですかとか、今でもまだ電話をいただいたり、小田原市にも問い合わせがあるそうです。取り上げていただくということはありがたいもんです。

縫の技

日ごと10時間以上も針を刺し続ける縫の技、増築した明るいアトリエも今は使わず、妻の介護のために妻の眠る隣の部屋で制作する。

今までで、何点くらい制作されていますか?

 作家とか物作りになりたいと思ったのが昭和25年ぐらいですからね、あまり年数は経ってないんですよ。それまでは商売ながら職人ですからね、自分でやったり商売したりしながらだから、でも大きいものから小さいものまで入れて150点くらいはあると思います。

制作にはどれくらいの時間がかかりますか?

 大きさにもよるんですけど10号っていうと53センチの45センチくらいで300時間くらいかかるかなあ。1日10時間から12時間やるんですけどそれでもかなりかかりますね。

 小さいものでも、いくら小さいといっても1ミリのところに3本くらい糸が入って線を作ったり、花を作ったりするんですよ。だから小さい花でも3日くらいはかかっちゃいますから、小さくても値段の高いものになってしまんですよね。箱根やなんかのおみやげ物やさんからの問い合わせもいただきましたけど、それから上乗せすると10万円以上になっちゃいますから普通の人は買わないですから、そうすると自分でもってたほうがいいってことになるんですよね。生活には困りますけど、後世に残したいと思ってね、だんだんそう思うようになったんですけど。

現在でも材料は思うように手に入りますか?

 そう、材料というのがなかなか大変なことで、特別足柄刺繍の糸は自分で注文して糸屋さんに作ってもらわないといけないんですよ。それも何グラムじゃなくて、それなりに纏まった量を注文しないと駄目なんです。白い原糸っていうんですけど、それを作ってもらわない限りは足柄刺繍は成り立っていかないんですよね。

完成した作品たち

完成した作品のほとんどは、額装し積み上げられ、出展の日を待つ。空調設備の無い部屋では作品の管理に苦労している。

着物に刺繍される時は奥さまとの阿吽の呼吸が必要だと伺っているのですが?

 ええ、それは大変なもんで、着物自体は台張りって台に張ると3センチくらい伸びちゃうんですよね。だから繋いだところが3センチ台から外すと戻るので、花でも線でも1ミリでも違うと絵になってきませんからね。私のワイフがそういう手仕事ができて縫ってもらったので、夫婦ですから呼吸があってぴしっとしたものができ上がってますよね。

これから作家として生きようとする人たちに対して何か心構えみたいなものを教えてください?

 生意気なようなんだけど、作家なんか思ってもそう売れるもんじゃないし食べていけないで、私自身は工芸協会って所に入ってからも40年近くもやって、やっと人に見せられるものができる、それも他に勤めに行ってるわけじゃなく毎日やってるんですよ。

 手仕事はなかなか大変で10年や15年じゃなかなか一人前になれないんじゃないかと思うんですよね。それに早めに世に出たり人に教えたりしても、技術がないと種が無くなっちゃうんですよね。ひらめきもやっぱり20年や30年と沢山時間をやって埋め込んでおかないと、なかなか作家ってなれないんじゃないですか?それに名が出て売れなきやならないですから大変なことですよね。やっばり自分の努力もさることながら数をやることですね。50過ぎになれば一人前になってくると私の考えではそう思いますよね。

エ芸と芸術の境目があるとしたらどういうところでしょうか?

 境目って、難しくってそんな大それたことはいえないんだけど、工芸って手仕事で一部機械も入りますけど、用と美を兼ね備えた美術的価値のあるもので、芸術となるとその人独特のもので、人の目に留まって何百年と持つようなものを芸術だと思ってますけどね。夢のような話なんですけど、私の作品も何年か経って私がいなくなったあと、人が見て心に残るような作品だと思ってもらえれば、後世に残るんじゃないかと、そのようなことを夢見ながらやってますけど。芸術かどうかは見た人が評価することであって私はそのつもりでやってます。

今後の活動は?

 夢みたいな話ですが、後世に残したいと思ってやってますけど、思うだけでさっきもいったように周りの人に私の作品を見ていただいて、これは残した方がいいとか評価するのはみなさんの決めることで、わたしはただそう思ってやっているだけです。ただ、販売するわけではないんで発表する場がなかなか無くてそれが問題なんですけど。 

「縫の会」の生徒さん達と共に

生徒さん達と共に。「縫の会」の教室は3ヶ所、今も35人ほどの生徒を教える。まれに生徒を募集すると、口伝てに大勢の応募がある。

俊継者についてはどのようにお考えですか?

 「縫(ぬい)の会」で生徒はいますけどね。後継者は今のところ大変で、材料とか染色とか図案とか考えると私自身も歳になりましたので、もう遅いんじゃないかと思うような始末で、技術だけだと3年から5年やれば随分上手になるんですけど、この仕事は材料を一から目で見て仕入れてこなきゃいけないし、人に見てもらうものですからありふれた絵じゃつまらないし、また人も評価してくれませんから、独学でも勉強して人のやらないようなものを創ってとなると、30年も40年もかかってしまうんですよね。糸と会話しながらやってるんですよ。糸自体は生き物で、そのことは生徒にもよくいうんです。だから長く持つんですよ、息してるから。素人にはわからないんですけど、着物なんかでもよそに出して返ってくると、ボソボソに糸が風邪引いちゃってるんですけど、またタンスにしまっとくと収まってくるんですよ。糸を刺してても表と裏があるんですよ。慣れると表が見えてくるんですけどね。10年ぐらいやってないと表が出てこないんじゃないかなあ、そういうもんなんですよ。それから針使い糸使いっていうのもあるんですよ。器用不器用もあるんですけど、今まで100人以上教えましたけど、後継者といえるには絵が描けて糸が染められて、生徒の前で色取りや刺し方をひらめかないと駄目ですね。

生徒さんやこれから足柄刺繍を習ってみたいと思う方に何かメッセージを

 根本的には刺繍が好きで好きでたまらないということ、あとやる時間があるということですね。お稽古の範囲では糸を染めたり図案を教えたりまではできないですけど、そういうことを踏まえて自分で勉強することが基本になると思います。教室にこられても1割くらいしか教えられないんですよ。あと9割は自分の宿題ですから。これは後継者云々の話とは別ですが、刺繍が好きな人が初めは好きなものを4、5年縫ってだんだん技術を高めていくってことですよね。

制作の面でも暮らしの面でも奥さまの支えが大きかったように思いますが?

 そうです。今わたしがこうしていられるのも、作家として刺繍をみなさんに知っていただけるのもワイフのおかげと、苦労かけましたがすごく感謝しています。一緒になってもう55~56年経つんですけどずっと苦労かけ通しで、それでも耐えて付いて来てくれたことに感謝しています。いろいろアドバイスもしてもらって「おとうさんは好きな仕事が出来てよかったわね」っていってくれるんです。だから感謝しています。

上田菊明(足柄刺繍) 略歴

1932年 神奈川県小田原市生まれ

1986年 「染織展」横浜 シルク博物館 日本絹業協会会長賞受賞

1989年 「日本伝統工芸染織展」日本工芸協会賞受賞

1991年 足柄刺繍「巡る季節」小田燎城天守閣永久保存

1995年 「繍の美・蘇る足柄刺繍展」横浜 シルク博物館 主催

1996年 小田原市民功労賞受賞

2000年 神奈川県知事より感謝状(芸術・文化の功績により)

2002年 「上田菊明刺繍展」町立湯河原美術館 主催

2004年 ユリージョン現代美術世界展(ドイツ)・ハンディクラフト賞

2005乍 パリ国際サロン(フランス)・特別賞受賞

2006年 日・仏・中現代美術世界展(中国・天津国立博物館)推薦出品

2009年 「うえだきくあき・わざ」開成町あしがり郷瀬戸屋敷

「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。

 

発行:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・.小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
問い合わせ:小田原市広報広聴室(0465-33-1261)

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