技人

技人vol.2【木象嵌(もくぞうがん)】内田定次

これで満足ってこたぁ、一度もねぇなぁ。

箱根・小田原の木工と聞けば、寄木細工と答える人がほとんどだが、もう一つ木象嵌という細工がある。制作工程はそれぞれ違うが、特徴として寄木は直線的な幾何学横様に対し、木象嵌は別名木画とも呼ばれるくらい絵画的である。まずは、少し木象嵌の歴史を学んでみよう。

 象嵌そのものは遠くシリアが発祥の地といわれ、シルクロードを経由して、飛鳥時代に日本に伝わったとされている。木象嵌は江戸時代からの指物の一つとして、手彫りによる彫り込み象嵌という技法が伝わってきたが、明治25年ごろ、箱根湯本の白川洗石氏によって、糸鋸ミシンを用いた挽き抜き象嵌技法が開発され、また、明治40年ごろには、特殊な大鈎(かんな)を使って種板を何枚にもスライスする、量産方法が完成した。その後も木象嵌師達によって、染料で木を染める染木やボカシなど、様々な工夫や改善がなされてきた。

 制作工程は、絵を作りそれに合わせた木を選ぶ。桧を地板に写す、糸鋸の歯を絵に合わせて何本も作る。くり抜く地板と嵌め込む板を2枚重ねて同時に挽き抜く。接着剤をつけて嵌(は)め込む。種板(嵌め込んだ板)を大鉋で薄くスライスする。ズク(薄くスライスしたもの)をアイロンで伸ばし、和紙で補強のため裏打ちし、完成品とする。

内田定次さんは「現代の名工」と呼ばれているにもかかわらず、驕(おご)ることもなく、取材の途中で、たまにいたずらっぽく笑う願が印象的だ。若いころからそうだったのかは想像も出来ないが、家族に対する愛情や母親に対する愛情が非常に深いことを後で聞いた。5日間もの取材でご迷惑をおかけしたにもかかわらず、いつも車が出るまで入り口で見送ってくれた。内田さんの作品には、自然木の温かさと、そんな心の温かさがふわっと重なっているように感じられる。

―内田さんは何年のお生まれで何歳になられましたか?

 大正9年 89歳。

―生まれも育ちも小田原ですか?

 生まれは秦野なんだけど、小田原の内田って家は子供がいなかったので、私が養子に来たんだよ。親父は漁師だったけど、病気で半身不随になって、私が4歳のとき亡くなってしまった。

糸鋸ミシンで木を合わせ挽き抜く。

糸鋸ミシンで木を合わせ挽き抜く。緻密な作秦で手元が陰にならないよう、手元を左右の照明で照らしている。

―木象妖を始められたきっかけは?

 親父が亡くなってからは、小学生ながらお袋の手伝いをしていたんだけど、お袋が手に職を付けた方がいいって言うんだよ。それでね、お袋の妹が親方木象嵌師油田治雄氏)のところに嫁いでいたので、尋常小学校の高等科を卒業する14歳を待って、弟子入りするようになった。今でいえば中学3年生くらいかなあ。

―木象嵌はまず何から学びますか?

 最初は子守や掃除、膠(にかわ)の火入ればかりで、手取り足取りは教えてはくれないよ。時間をみては、見よう見まねで糸鋸の歯を作ったりしながら、少しずつ覚えていったね。

―見習い中は辛いことや他にやってみたいことはなかったですか?

 この道に入ってからは辛いと思うことも特になかったし、他のことをやってみたいとかもなかったねえ。

 

木象嵌師として一人前になるにはどれくらいの時間が必要ですか?

 一人前になるには普通は10年ていうけど、そうは思わないね。その人の性恪でね、一年でも二年でも本人がやる気さえあればすぐに一人前になれるよ。ただ、一つ一つ工夫しながらやんなきゃいけないんでね、同じものでも2回目は作り方が違ってくるんだよ。そういうところは一生勉強だね。

歌麿 三美人

歌麿 三美人 写真では木地に描いた絵にも見えてしまうが、着物や帯の柄一つひとつから、綿や文字にいたるまで、すべて色や濃淡の異なる木を、それも嵌め込んで制作していると聞かされると、その細密さに圧倒される。この作品は小田原城天守閣に展示されている。

木のストック

同じ種類の木でも産地や取る部分によって色が違ってくる。絵に合わせて木を選ぶため、沢山の木をストックしている。

使用する糸鋸の歯は、時計のゼンマイをこ自身で加工すると伺いましたが、当時から当時はすべて職人さんの手作りでしたか?

 そうだね、道具はほとんどが手作りだね。

いまでも技術的に難しいところはありますか?

 そりゃ、あるよ。うんとあるよ。まずは糸錦の歯だね。これで仕上がりがかなり違ってくるよ。二年前に仕事をやめたのも、自転車で転んで足の骨を折って満足に糸鋸の歯も作れなくなったからなんだよ。目が悪くなったのもあるんだけど、一番の理由は糸鋸の歯だね。

木象嵌は組み合わせる木の種類によって模様や濃淡を出していますが、使用する木の種類は何種類ぐらいありますか?

 昔は国内の木ぱかりだったんだけど、最近では色のはっきりした外材も使うようになったね。木の種類としては数えたことはないね。何十種類だと思うけど、同じ木でも産地によっても取る部分によっても色が違うからね。そういう意味では何百という種類になるかも知れないね。木象嵌に使うのは広葉樹ばかりで、針葉樹は薄く切るとボロボロになるんだよ。

 親方はね、一種類の木を染めた方が綺麗だと言ってたんだけど、今の染料は太陽とか蛍光灯の光にあたって時間が経つと色が変わってしまうんで、以前は少し染めたりしたのもあるんだけど、今は染めずに木の色だけで作ってるよ。

大きさや細密さにもよりますが、一点制作するのにどれくらいの時間が必要ですか?

 二ヶ月から三ヶ月はかかるよ。歌麿の三美人は一年かかったなあ。性格にもよるんだけど、私の場合は気が散るからいろいろ作るより、一点に集中して制作するね。

箱根・小田原で木工が栄えた理由は?

 周りが山で木が豊富にあったことや、箱根は湯治場で湯治客の土産物としての引き合いも多かったように聞いてるよ。それよりね、貿易商がいて、輸出品として売れた方が多かったように思うね。戦争に行ったとき、インドのベンガル湾にあるアンダマンの島で、自分が作った作品を見つけたときはびっくりしたよ。シンガポールから始まり、南方に足かけ六年兵隊として行ってたけど、警備とかで実際戦うことは無かったし、終戦後、現地でマラリアにかかったりで亡くなる戦友もいたけど、体は丈夫だし運も良かったね。

一つの種板からズクは何枚とれますか?

糸鋸の振幅が3cmほどなので、種板をそんなに厚くは出来ないんだけど、鉋の歯を磨いで2cmの種板から200枚ほど削ったこともあるよ。一枚いくらだから出来るだけ薄く削るようにしないと儲からないよ。

道具

糸鋸の歯から始まり、ほとんどの道具は手作り。桜の枝が良いのか、ヤスリの柄はすべて桜にしている。

浮世絵からキティーちゃんまで図柄の幅が広いですね?

 浮世絵や鶴、鯉などは、自分の好みで制作しているけど、図柄は問屋さんから依頼を受けて制作するものも多いよ。百合とかは県の花として、県から依頼を受けて制作したね。若い頃は土産物ばかり作ってたけど、50代になって問屋さんと相談して、少しずつ浮世絵など手の込んだものを手掛けるようになったね、細密になればそれだけ手間もかかるので、商品としては値が張るものになるけど、当時はそういうものが珍しかったので、それなりに引き合いはあったよ。それに、今までと違い難しいけど、随分勉強になるよ。何にしても作った後は、やはりああすれば良かったって反省するし、満足することは無いね。

木象嵌人生70年ということになりますが、比鮫的取入は安定していましたか?

 私は365日、朝から晩までひたすら作り続けるだけで、暮らしのことや仕事のことの一切は女房が仕切ってくれてたよ。それはまた、看護婦として勤めだしてからも変わらなかったね。

 収人は波のように浮き沈みがあったし、朝鮮戦争のころは廃業した仲間もいたけど、土工でしのいだりして閉めることはしなかったね。女房の理解もあったし、看護婦として勤めていたから好きにさせてくれたと思うよ。

糸鋸ミシンの一部

糸鋸ミシンの一部分。昔のミシンを改造したため、ミシンの面影をそのまま残している。

種板を削るときは、奥さまと二人で大鉋をかけられていたと伺っていますが?

 そうだね。男でも素人が力任せに手伝ってくれるより、女房の方が力加減が良いよ。それに削った後のアイロンがけは、全部女房がやってくれてたよ。

内田さんは自ら展覧会に出品されたりということは無いのですね?

 頼まれてここに出してくれっていわれて出すことはあっても、自分から出すことは無かったねえ。職人はそんなことしちゃいけないんだよ。ただ、作り続けるだけだよ。

 確かに浮世絵とか、手の込んだものを手掛けるようになってからは取材も増えたように思うけど、それで変わったということは何もないよ。

糸鋸ミシン

この糸鋸ミシンは、内田さんの木象嵌人生と共にある。見続けていると何か語りかけているようにも思う。

勳六等瑞宝章

勳六等瑞宝章 この取材や撮影等、ご協力いただきました山口幸一さん(木象嵌師)に、あらためて感謝申し上げます。

内田さんは卓越した技と、長年にわたる功績で勲六等瑞宝章を受勲されていますが、そのときはやはり嬉しかったですか?

 嬉しくないといったら嘘になるけど、みんな女房のおかげだよ。

内田さんに習いたいという若者が出てきたらどうされますか?

 そりゃー嬉しいよ。だけどもう無理だね。もう、教えられないよ。

最後に振り返ってご自身の木象嵌人生には満足されていますか?

 まだまだ、満足なんかしてないよ。満足のいく糸鋸が出来ないので、中途半端な仕事は残したくないからもう作らないけどね。もし、それが出来るようになったら、最後に仏画をやってみたいよ。

 この取材や撮影等、ご協力いただきました山口幸一さん(木象嵌師)に、あらためて感謝申し上げます。

内田定次 略歴

1920年 秦野市生まれ

1935年 木象嵌師 油田治雄氏に師事

1941年 出兵

1946年 復員

1948年 木象嵌師として独立

1962年 小田原ロータリークラブ表彰受賞(伝統工芸技術保持者)

1977年 小田原市第一回褒賞状受賞

1984年 神奈川県知事賞受賞

1988年 神奈川県卓越技能者表彰受賞

1989年 通商産業省(現・経済産業省)生活産業局賞受賞(伝統的工芸功労者)

1992年 労働大臣卓越技能者賞受賞

1995年 勳六等瑞宝章受賞

「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。

 

発行:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・.小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
問い合わせ:小田原市広報広聴室(0465-33-1261)

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