最終更新日:2012年04月11日
相模国(神奈川県中西部)における鋳物(いもの)の歴史は古く、平安末期の毛利荘飯山(もうりのしょういいやま)(現・厚木市飯山)において、すでに行われていたと推測されている。小田原では、後北条二代・氏綱(うじつな)の関東進出に伴い、天文3(1534)年に河内国(現・大阪府東部)から移り住んだ山田治郎左衛門(やまだじろうざえもん)が、新宿鍋町(しんしゅくなべちょう)(現・市内浜町)で鋳物業を営んだのが始まりであると、江戸末期に書かれた「新編相模国風土記稿」に記されている。
―鋳物業を継ごうと思われた経緯をお聞かせいただけますか?
就職活動のときに決めたんですけれども。19歳の頃から鋳物工場にアルバイトとして入っていて、ちょっとわかっていたということと、もう一方でシステムエンジニアとかプログラマーとか、コンピュータ関係の方にいこうとも思っていて、そのどちらかにと考えていたんですが、調べていくうちに、工場の規模が小さいので、入るからにはゆくゆくは継ぐということまで見据えて、技術だけでなく、経営も含めた方向から自分で考えてやるのも面白いかなと思いましたね。
―何かを作り出す仕事をやりたかったということですか?
営業方面にいくよりは、そっち側だと自分では思うんですけども。悩みはしましたけど、どちらの方にいっても技術職というか、方向としては同じかなと。まぁ、現代の技術屋と昔からの技術屋と、歴史の差はありますけど、どちらもその道で腕を磨いてやっていくという面では、一緒なのかなと思いましたね。
―現在33歳ということですが、本業にされて何年ですか?
10年ほどですね。先代の重範さんを手伝いにきていたアルバイト時代をいれると13、14年くらいですね。 今は徒弟制度もなくなっちゃったから、大工の質が全然違うわけですよ。口うるさく言う親方もいなくなっちゃったしね、だから腕なんか上がんないわけですよ。やっぱりね、同じものを何十回もやって腕に染みついて覚えていくわけだから、誰だって最初からできる人はいないんだよね。結局、錬磨だからね。数をこなさなきゃ早くうまくはできないね。
製作途中の鋳型
―家業の鋳物屋はどのように見えていましたか?
小さい頃から身近にあったものなんで、特別なものを作ってるって感じはなかったですね。使い込んだ鉛筆の工場に行ったら、こんなふうに作られてたのかっていうように、身近にあったものがこうやって作ってたのかってわかったくらいで、小さい頃から当たり前のように受け入れてましたね。
―先代から「跡を継いでくれ」と言われたことはなかったですか?
ないですね。父親は別の仕事でしたけど、家族からも「継げ」と言われたこともなかったですね。
―先々代の晴光さんや康兵さん、四郎さん、宏之さんから教わったということですか?
教わるっていうより自分で試行錯誤して、そのあとで雑談程度に話をしていると、ヒントになるという感じでしたね。宏之さんは、仕事をやめた後もちょくちょく顔を出して、話を聞いたり、見てもらったりしていましたね。
―今、柏木さんはすべての工程を自分でされてるわけですね。
まぁ、自分でやるしかないので自分でやりますし、小物のデザインとかは自分で作ったりもしますが、自分に美術的なセンスがあるとも思ってないんで、どっちかっていうと、やっぱり技術関係の四郎の家系なんでしょうね。一つのものに手を掛けて作るってのもそうですが、職人としてって言ったら変ですけど、商売として量産される中で磨かれる技術もあると思うので、ある程度数をこなさないと手についてこないものもあるように思います。
型から外された製品は、次々と容器に纏まとめられていく。
―アルバイト時代と後継者として入られたときとでは、違いはありましたか?
最初の頃は、ほとんど変わりませんでしたね。端で見てるだけだとただ溶かして、型に流し込むだけっていうように思ってましたからね。でも実際、自分でやってみたら全然違っていて、実感も何も駄目な商品が目の前にあるんですからね。
―駄目というのはどのような状態ですか?
―現場で経験を積みながら学んでこられたということですね。
本当にそうですね。基礎的ないわゆる学術書とかは読んで学習しましたけど、最後の詰めのノウハウはやっぱり書くようなものでもないでしょうし、また、砂張なんて他ではあまりやってない特殊なものをやっていて、鳴物用に混ぜ物をしていたり、少しようすが違うんで、うちで使っている金属のノウハウは積み上がってるけど、それが別の地方の鋳物産業に飛び込んだらすぐに使えるかというと、危機管理的なノウハウは使えるかもしれませんけど疑問ですね。応用は利くかも知れませんけどね。
―砂張のお話がでましたが、砂張=小田原鋳物ということですか?
「小田原鋳物って何ですか?」って聞かれてしまうと困るんですよね。城下町として発展してきたっていう歴史は語れるんですけども、じゃあ、「これが小田原鋳物です」って製品を見せることはできないんですよ。技術的なノウハウは詰まってるかもしれないですけども、小田原鋳物を象徴する一品といわれてしまうと、うちを象徴している一品といわれれば、砂張とか鳴物関係を出せるんですけど、それは決して小田原鋳物の歴史を象徴した製品ではないんで、なかなか難しいんです。
―柏木さんのところの鋳物の特長といえば砂張ということですか?
そうですね、砂張であったり、もうちょっと大きく鳴物といってもいいかもしれませんね。以前だったら茶道具や華道具など、美術品もかなりやっていたので、それも言ってもいいのかなとも思いますけど。
―砂張についてもう少し教えてください。
砂張は「佐波理」とも書くんですが、銅に錫(すず)を20%以上含んだ合金のことで、正倉院御物の中にも佐波理製の仏具や食器がたくさん見られますし、安土桃山時代以降、茶人によって茶道具としても取り入れられ、砂張と書くようになったようです。
―国会の振鈴(しんれい)や黒澤明監督の映画「赤ひげ」でも使われたと伺っているのですが、その当時すでに注目されていたということですね?
鋳込んだ後、型を外す。まだ中の金属は赤く高熱。
シンバルはかつて柏木美術鋳物研究所の主力商品だった。
品物もそうですし、型もそうですし、型一つとっても、何か変な凹(くぼみ)があったとしても、何かしらの理由があるわけなんですよね。湯口を見てもその位置だったり、大きさだったり、品物からは見えてこないけど、型を見るとそういう意図があったとか、何かしらの意図があっていろんなものが設計されているんです。たとえば先々代の四兄弟は亡くなってしまいましたけど、型はかなり残っていますし、それに一つの製品でも改良ごとに型を作り直してるんで、昔の型と今の型を見比べれば、どういうふうな改良を施したってわかりますね。
―シンバルはもう挑戦されないのですか?
する気はあるんですけれども、なかなか時間に追われてしまって。一度鋳込んで雰囲気はつかめてるんですけど、本気でやるんだったら型をちょっと作り直すことは考えないといけないかなとは思ってますし、技術的なことは他の製品でも使っているので、今作っているものを形を変えるってことでやってみたいと思っています。銅鑼(どら)も以前作っていたんで、シンバルよりはまず銅鑼かなって思ってはいるんですけど。できれば今年は挑戦してみたいと思ってるんです。
―いろいろな注文が入ってくるんですか?
レギュラー品として、量産まではいかないですけども、ある程度の数は作り置いてあるんですが、舟形の花生けは一品もので、注文をいただいてからできるまでに結局一年以上かかってしまったんです。一品もので、一つ注文だから一つ作ってという訳にはいかないんで、いくつか作った中から一番いいものを納めるんですが、まぁ、いい経験ではあるんですけどね、正直、採算とかは取れていないと思うんです。それでもこんな機会は滅多にいただけるものでもないんで、勉強のつもりで受けて、今年は、舟形の花入れを作って、お仏壇の大きなおりんを作ってってところですね。小田原提灯の小鈴なんかも作りましたけど、レギュラー品をやりながらだと、受けられてもこれくらいですね。
―風鈴などはこれからも力を入れていかれますか?
そうですね、でも風鈴は季節物ですからねぇ。鳴物関係はいろんな人に聞いてもらえればなぁ、と思うんですけどね。そうすると、たまに音楽やってる人が来て使ってもらえたりとか、そんなこともありますし。実際、持って使っていただければ、こっちとしては戸棚にしまわれるよりはいいですね。小鈴とかって、どうしても日用品として必要なものでもないじゃないですか。それでもなおかつ、身近に置いてもらえれば嬉しいですよね、やっぱり。
型を製造中の柏木照之氏
―小田原で鋳物屋さんが柏木さんのところ一軒になってしまったのは、いつ頃からなんですか?
市の郷土文化館に昔の地図があって、それを見るかぎりでは、大正の初め頃には鋳物・鍛冶屋さんも含めてだと思うんですけど、柏木家系列が二軒と、他にも何軒かあったみたいですけどね。大正になってしまうと、輸送もそれなりの発達がありましたし、鍋・釜なんて小さい工房で作るというよりは、溶鉱炉もできてましたしね。
―柏木さんの工房は、鳴物に特化されたことで残ってこれたということですか?
風鈴は昭和の初めにはすでにありましたし、それから鈴だったり。箱根は観光地で、戦後すぐはまだ土産物がそんなにいろいろあったわけではなかったみたいで、うちの物は目新しいんで、結構売れてたみたいですけどね。でも、戦後すぐの一、二年くらいは、晴光も康兵も南方の方に行っちゃってて、戦争からまだ帰ってなくて、宏之も海軍兵学校を卒業した直後で、復員船を操縦してたとかで、祖父の四郎のほうは中国でけがをして早々に戻ってきて、一家を支えてたみたいで、アルミの工業用品なども作っていたみたいなんですが、それ以後は、たぶんメインはシンバルや半鐘だったと思います。
―今後の方向は?
メインは鳴物になるとは思うんですね。外から見れば風鈴がメインと思われるかも知れないんですけれども、経営的にはまだまだそれほどではないので、なんとか風鈴などを一本の柱になるような形に持っていきたいとは思ってますね。10年後に何を作っているかっていうことは、正直、何とも言えないですけども、それこそ新しいお客さんが入ってこられて、何か新しいものを作って欲しいということで、新しい道が開けることもあるわけで、最近だとストラップもその一つだと思いますし、今、看板みたいなものを作れないかっていう問い合わせもいただいています。
繊細な曲線の舟形の花入れ。注文から納品まで一年以上を要した。
街かど博物館「砂張ギャラリー」:砂張や真鍮の風鈴が並ぶ。
―今後の後継者についてどのようにお考えですか?
たとえば自分に子供がいたとして、強制する気はないですけども、それなりに技術を身につければ、今のところは食べていけるんです。ただ時代が変わればそれも変わってきますので、この技術を持っても生活していけるのが前提だとは思うんです。この技術が残る残らないは、結局、外の環境に決められてしまうことが結構多いと思うんで、うまくその時代時代にあったものを作り続けていく技術が必要だと思うんですね。うち独自の技術ももちろんありますけども、根本的な技術は他の地域にも残っていますので、残していくからにはちゃんとその時代にあったものが作れるぐらいの腕がないと、それはその程度のものだと思いますし、残していく価値もないと思います。品物を残していくというよりは、形が変わっても、技術や方針を残していく方が大切だと思いますし、鋳物関係なんて、まだまだ変化できる余地はたくさんあると思います。正直、自分自身がまだまだ未熟だと思ってますし、その分伸びしろもあると思ってますので、まだまだやれることはいっぱいあると思います。多分、一生かかってもやりきれるものではないと思うので、その余白に関しては、それこそ次世代に受け継いでいけばいいと思いますし、また、時代によって、その余白はどんどん広がっていくと思います。それは生活の変化であったり、技術的な進歩も含まれると思うんですね。たとえば新しい砂がまたできたとか、新しい方式が工業的にできたとか、新しい技術を取り入れるぶんには自分自身は躊躇(ちゅうちょ)しませんし、金属の性質は変わらないので、その基本を理解した上で、その方式を取り入れて、よりいいものを作っていくぶんにはいいと思います。もちろん古い技術の方が綺麗にできるものもあるんで、それはそれで伝えていけばいいと思います。
―新しい合金を考えられているってことはないですか?
「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。
企画:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
発行:小田原市
問い合わせ:小田原市広報広聴課 事務局(0465-33-1261)
平成24年3月
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