最終更新日:2013年02月27日
相模湾は黒潮の恵みを受け、生息する魚は1600種にも及ぶ日本でも有数の豊かな漁場といわれている。特に定置網漁は、神奈川県の沿岸漁業の漁獲高の70%を占め、かつては鰤(ぶり)漁で全国にその名を轟(とどろ)かせた。環境の変化により鰤漁は衰退したが、今日でもほぼ毎日行われる水揚げは、鯵(あじ)、鯖(さば)、鰯(いわし)など、私たちの食卓を十分に満たしてくれている。
小田原は古くから西湘地域の漁業の中心地であり、岸から沖へ500メートルから1000メートルも離れれば、水深が100メートルにも達するという急深の地形に合わせて、定置網も発達してきた。魚の習性をうまく利用し、仕掛けた網に誘い込む定置網漁は、相模湾では約200年の歴史を持ち、江戸時代後期にまで遡(さかのぼ)る。定置網はその漁場や漁獲種によって複雑に形を変え、設置場所や規模、その形状など、先人からの知恵がふんだんに詰まっている。
―高橋さんはおいくつになられましたか?
昭和18年生まれで、今年で70歳です。
―漁業は小さい頃から継がれるつもりでしたか?
中学を卒業したのは昭和34年、蜜柑
しかし、そこに目をつけられて、三浦半島で獲れたわかめも東京湾で獲れたわかめもみんな小田原市場に出荷されるようになってしまい、出荷調整もなくどんどん攻め込まれて、結局単価安になってしまいました。そういうわけで、地元の年配の方4人と定置網を2か所で始めました。その後、年配の方達がおやめになって、私がそれを引き継ぐ形になりましたね。
若い作業員達の仕事を見守る高橋組合長
―25、26歳の頃に蜜柑はもう駄目だなと思われたのはなぜですか?
私が高校を卒業する2年ほど前に、国(農林省)の政策で蜜柑の生産を増やす政策が採られたんですね。それは国の補助金で山を購入して集団で営農し、開拓から始めなさいということで、九州、四国、中国地方の瀬戸内海を中心に始まったんです。片浦でも、我々は15人で大磯に山を買って始めたんですが、蜜柑は5、6年で出荷できるようになり7、8年でかなり取れるようになるんですね、7、8年経った頃から加工業者も買いきれないくらい蜜柑が全国一斉に出荷され始めたんです。そうすると、神奈川県の蜜柑は、西の生産地に比べ栽培条件がはるかに悪いわけですよ。あの頃、神奈川県は蜜柑栽培の北限だったんです。神奈川県の蜜柑は酸っぱいということで、加工業者も敬遠するようになり、近い将来、神奈川県の蜜柑農家はやっていけないなと、身にしみて感じるようになりましたね。
親父が苦労して開墾した畑だから、やめるってなかなか言い出せなかったし、蜜柑をやめるってことで、年配の人たちから「おめぇは馬鹿じゃねぇか?蜜柑はまだ大丈夫だよ」って散々(さん ざん)言われましたけど、結局、蜜柑は立ち直れなかったですね。
今は、最後まで蜜柑をやるんだ、という本当に骨のある人達だけがやってるんで、蜜柑もレモンもきちっとした美味しいものができて、ブランドになってますけど。それは何の商売でも同じでしょうけどね。
―米神の定置網は1866年から146年の歴史があるということですが?
この辺りでは、国府津の手前の小八幡の定置網が若干古かったと思いますが、米神もそれぐらいの歴史はあると思います。うちの組合(小田原市漁業協同組合)と隣の真鶴、今はないですけど、小八幡、二宮、この辺りの定置網はいずれも100年以上の歴史があると思います。
―高橋さんは何代目になりますか?
何代目になるんですかね?米神の定置網は組合の経営だし、組合長っていうのは世襲制じゃないですからね。
定置網を個人で経営できるようになったのってほんとに最近で、小田原では昭和の初め頃から相海(そう かい)漁業っていう定置網漁の経営体があって、お金持ちが資本投下して漁場をいくつか持ったんです。その中に漁業組合もいくつか資本参加して、漁場を形成していたんです。それが、昭和の終わり頃になって、10年以上不漁が続いたんですよ。それで、相海漁業っていう組織そのものが解体していってしまうんですね。
締めた定置網にタモ網を入れ一気に魚をすくい上げる。
―漁業というのは、今までも組織形態で行われてきたのですか?
要するに、農業は個人の財産の中で経営していますね、漁業というのは国の財産の中で行うわけですよ。だから、海は個人の所有にはならないわけです。あくまでも漁業権免許をもらってやる。免許も10年に一回更新をされるんです。
―相模湾の特長ってありますか?
昔の人からするとこの相模湾の漁場ってのは漁場的にはいい漁場といわれていますね。それで、特に西湘地区、大磯、二宮辺りから西の方は、昔はほとんど定置網だけで経営をしていた。あとは、個人の人は釣りをやるぐらいで、昔から定置は本業だっていう流れですよね。
鰤が獲れたのは、昭和10年代後半くらいじゃないですかね。相模湾の特に米神漁場では、かつては日本一の漁獲量を誇ったことが何年もあるんですね。
―
魬(はまち)の養殖が始まったのが昭和30年代の初めなんですよね。要は、養殖するための稚魚、鰤の一番小さいのをモジャコというんですけど、このモジャコを巻き網で巻いちゃうんです。それを養殖の種にするんですけど、それが乱獲状態になったんですね。結局、南から上がってくるモジャコを南で獲ってしまうわけですから、相模湾まで来ないわけですよね。
でもね、定置網ってのは、かつては一番原始的な漁業っていわれたんです。
なぜかっていうと、定置網は入った魚は必ず全部獲れるっていう構造じゃないんです。入口があるわけですから、その入口は出口にもなるわけです。それから、通常定置網は1回入った魚の歩留まり率は2割か、3割しかないんです。だから、残り7割か8割は1回入っても出ちゃう。かつて一番原始的っていわれたんですが、今は一番環境に優しい漁業っていわれてるんです。資源管理をするのには全てを獲ってしまうわけではないんで一番いいっていうことなんですが、経営者としてはそれだと困るわけで、やっぱり入った魚は全部獲りたい。だから、だんだん網の構造が複雑化してきてるんです。
それと、真鶴道路や飯泉の取水堰(せき)の影響も多分にあると思います。真鶴道路は昭和34年の9月1日に開通してますけど、その3年くらい前ですから昭和30年になってすぐに工事が始まったんだと思いますが、その頃から鰤の獲れる量が少しずつ減ってますよね。中学を出たのが34年ですから、高校生の頃、35、36年頃は一網で1万本くらい獲れてましたけど、20年代後半のように、毎日何万本というのはなくなりましたね。だから、真鶴道路は一つの境目でしょうね。それから飯泉の取水堰ができて川の水が止まると、だんだん海の環境が悪くなってきましたね。それが全てではないんでしょうけど、私 は大半それが要因だろうなと思います。
―定置網の網の目の大きさが60センチくらいあるって聞いたんですが?
それは、定置網の構造の中を部分的に見てるわけで、そういう大きな目もあれば小さいところもあるんです。魚が泳ぐ道を遮るように垣網(かきあみ)ってのがあるんですが、これなんかは目が粗いんです。魚の習性として、障害物にぶつかると深いところに逃げたがるんです。
そのために魚を獲るところが沖合にあるんです。網に魚が入ってくると運動場といって魚が一旦息をつく場所があるんです。そこから傾斜があって、漏斗(じょうご)のような形状をした登網(のぼりあみ)があって、だんだん網の目が小さくなってくるんです。一番最後に、箱網 (はこあみ)って魚を獲る網があるんです。鰯を獲るのにそれなりの目の粗さというのがありますが、今は環境とか資源管理とかって話もありますから、2センチくらいで、昔のようにものすごく目が細かいっていうことはないんですね。
―ここにこのような形の定置網を設置するというのは誰が決めるのですか?
片浦の蜜柑畑より米神の定置網を望む
―山、川、海の関係について高橋さんはどのようにお考えですか?
飯泉の取水堰ができて、山から自然の水が流れない。管理者に言わせると、「取水堰があろうがなかろうが山の水は海に流れてるじゃないか」ということなんですが、1日、何万トンという水を、飲料水や工業用水として横から取ってるわけなんです。もう一つは、同じ大雨になって土砂崩れで水が流れても、取水堰がなければ泥水でも途中で止まらないでそのまま流れてくるんですけど、取水堰で一旦止めてしまうと、その泥が浚渫(しゅんせつ)しないために、2年も3年も経てば腐ってくるんですよ。結局、腐りかかった泥水が海に流れてくるんです。次に、豪雨がくると取水堰が溢れないために今度はその泥水も流すわけです。そうなると、もう自然の水じゃないわけです。
だから本当は、我々も森の管理に関心を持たなきゃならないと思います。すでに全国では、特に東北の方では、漁業者が森林管理に直接関わったりしてるんです。小田原市でも鰤を復活させるためのプロジェクトチームがあって、我々漁業者も何人か出してます。組合そのものが川に対して注文を付けるんだったら、我々も森林管理にもっと関心を持って手伝わなきゃいけないと思いますね。
―40年、50年の間に小田原の海にも変化はありましたか?
あります。私は若い頃から潜りもしたんです。そうするとね、中学生の頃は夏は銛(もり)で魚を突いてそれを晩のおかずに持って帰って来たんですが、あの頃は水深5m、6mの所でも魚が結構いたんです。中学生の頃なんていうと素潜りですけど、定置網をやって何年かして、近所にダイバーがいたもんで、その人にダイビングを教えてもらって、定置網の中を自分で潜って調べたんですが、その頃には魚が泳いでないんですよ。15、16歳の頃と40歳頃と全然違うんですよ。それだけ海が変わっちゃってるんですよ。
中学生の頃なんて、根魚(ねざかな)っていうんですけど岩礁地帯に泳いでる魚、石鯛(いしだい)だとか黒鯛(くろだい)だとか鰤だとかめじなとか体にぶつかってくるぐらい魚がいたんですけど、自分でタンク背負って潜るようになった頃には、どこに魚が泳いでるのって感じでしたね。
いい森の表現を黒い森っていいますけど、海もやっぱり海藻が茂って黒々してなきゃいけないんですね。それが毎年でっかい台風がくると、海の中の海草類が育つ間がなくって海が白くなっちゃうんですね。被害があまりないから感じないんですけど、毎年結構でっかい台風がきてるんですね。道路や取水堰に加えて、温暖化の影響もあると思いますね。かつて、日本海を泳ぐ鰤なんてのは、佐渡ぐらいまでしか行かなかったんです。昔は水温が低すぎて津軽海峡を鰤は超えないって言われたんですが、今は稚内(わっかない)まで鰤が行くんですね。
―東日本大震災での影響はありましたか?
放射能による直接的な影響はないですよ。だけど風評被害、これはありましたね。今まで春は石鯛、なまこを業者を介して韓国に輸出してました。これが、韓国から日本の魚は食えないって取り引きが止まっちゃったんです。そのために、今度は国内販売にしたんですが、国内では食べきれないくらい獲れちゃうわけですよね。それで価格の暴落。これには酷(ひど)い目に遭いましたね。1年経った今年も、最盛期の2割くらいしか輸出できてないと思うんですね。
―水揚げされた漁港が産地になるということですが、遠方より魚が持ち込まれることもあるんですか?
和歌山の鰹(かつお)船が小田原に持ってくることはあるんですが、10トンクラスの船で持ってきても1トンから2トンくらい。それが3隻くらいありますね。釣ってる場所は、たぶん伊豆七島付近で、東北の方まで漁には行ってないと思います。
昭和30年代、高知、宮崎県南郷( なんごう)、こういうところから50トン60トンの船がここに来たんです。しかし、小田原には餌(えさ)がないんですよ。網代には巻き網漁があって鰹船用の餌を獲ってるんです。だから、網代に寄って餌を積んでまた沖へ行く。そういう関係で、だんだん小田原港には来なくなってしまったんです。
―新聞でも取り上げられていましたが、今、若い人たちの漁業就労者が多いのはなぜですか?
全国的には漁業従事者の若者は減っているが、小田原市漁業協働組合では平均が30歳と若い従事者が多い。
フィッシュポンプで船から陸揚げされた魚はすぐに選別される。
今さら取水堰を戻せって言っても戻るわけじゃないですしね。ただ、言えることは、もう、これ以上森林開発をしないこと。それと反対に、山を持っておられる方が高齢化して廃業されている方もいて、山が雑木林のようになってますよね。だから海の人たちも関心を持って、森林の再生を手伝うということがまず一つ。
地球の温暖化なんて遙(はる)かにスケールがでっかいものに一事業者が太刀打ちするったってできるわけがないんで、人工的に海藻を海に植えつける。海藻が付きやすい環境づくりと、平たくいえば人工的な漁場造成、まずこれをやるべきだと思います。海藻が育てばそこにプランクトンが付いて、それを食べるために魚が来ますので、山も海もきちっとした管理をして造成をするべきだと思いますね。私は魚を回復させるだけだったらそれだけで十分だと思いますけど。栽培漁業になりますけど、そこに稚魚を放流するっていうことですね。
「技人」
温暖な気候と豊かな資源、そして地理的な条件に恵まれたまち・小田原には、いにしえよりさまざまな「なりわい」が発達し、歴史と文化を彩り、人々の暮らしを豊かなものにしてきた「智恵」が今に伝えられています。本シリーズは、その姿と生きざまを多くの人に知っていただき、地域の豊かな文化を再構築するきっかけとなれば、との願いが込められています。
企画:地域資源発掘発信事業実行委員会
・小田原二世会
・小田原箱根商工会議所青年部
・小田原商店街連合会青年部
・(社)小田原青年会議所
・特定非営利活動法人 おだわらシネストピア
・特定非営利活動法人 小田原まちづくり応援団
・小田原市
編集:相模アーカイブス委員会
写真・文:林 久雄
発行:小田原市
問い合わせ:小田原市広報広聴課 事務局(0465-33-1261)
平成25年2月
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