小田原市

早雲出自の謎

早雲出自の謎

北条早雲画像(早雲寺写し)

北条早雲画像(早雲寺写し)

今年は、北條早雲が明応四年(1495年)に大森藤頼(ふじより)を遂(お)って小田原城に入ってから、ちょうど五百年になる。 [注:この記事は平成7年度に広報おだわら紙上に連載]

 この、早雲に始まる北條氏を、鎌倉時代の執権北條氏と区別して、後北條氏といっているが、後北條氏五代およそ百年間、小田原は関東の政治・経済の中心だったのである。さて、五代百年にわたる繋栄の基礎を築いたのはいうまでもなく初代の早雲であるが、一代でのしあがったということもあって、その前半生については謎の部分が多い。まず出自(しゅつじ)、つまり、どのような家系で、どこで生まれたのかについても諸説ある状態なのである。現在までのところ、出自については次の五つの説が出されている。


  1. 山城宇治説
  2. 大和在原説
  3. 伊勢素浪人(すろうにん)説
  4. 京都伊勢氏説
  5. 備中伊勢氏説
 このうち、最も一般的なのは、「伊勢素浪人説」で、早雲を扱ったほとんどの小説や映画、さらにテレビドラマなどが「どこの馬の骨かも知れない根っからの素浪人」という描き方をしたため、この説が定着していった。

 ところが、研究者の間では「京都伊勢氏説」を支持する声が多かった。一介の素浪人などではなく、室町幕府の政所(まんどころ)執事(しつじ)を務めた名門京都伊勢氏の一族だったというのである。

 そして、戦後になってにわかにクローズアップされてきたのが「備中伊勢氏説」である。「早雲が備中から京に上った」という記述は、すでに江戸時代、小瀬甫庵(おぜほあん)の著した「大閣記」や、今川氏の家譜である「別本今川記」などにもみえ、全くの新説というわけではないが、学問的に厳密な論証を経て提唱されたのは戦後になってからである。

 口火を切ったのは、岡山大学の藤井駿(すすむ)氏だった。藤井氏は「北條早雲と備中荏原(えばら)荘」(「岡山大学法文学部学術紀要」第五号)という論文で、荏原荘(岡山県井原(いばら)市)に伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)という名前の武将がいたことをつきとめ、この伊勢新九郎盛時こそ北條早雲その人であると考えたのである。

 ちなみに、ふつう北條早雲といいならわしているが、早雲自身は一度も北條を名乗ったことはなく、伊勢新九郎で通し、出家して早雲庵宗瑞(そうずい)と号している。

 この藤井論文をうけて、小田原市の立木望隆(ついきもちたか)氏が「北條早雲素生考」を著し、綿密な現地調査と系譜研究を行い、早雲を、備中高越山(たかこしやま)城主伊勢盛定(もりさだ)の子新九郎盛時としたのである。このように、早雲の出自をめぐって出されている諸説の中では、備中伊勢説が可能性としては一番高いように思われる。しかし、いつまでも備中にいたわけではない。時期は不明であるが、京都伊勢氏の一族伊勢貞高(さだたか)(貞道(さだみち))の養子となり、京に上っている。
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