小田原市

北條早雲の伊豆討入

北條早雲の伊豆討入

韮山城址

韮山城址

 興国寺城は伊豆の喉元(のどもと)といってよい位置にあった。いまでも、興国寺城址に立つと、伊豆半島がよく見える。当時も伊豆の情報はよく入ったものと思われる。

 『北條五代記』におもしろい記述がある。

 新九郎違例となぞらヘ、伊豆国修善寺の湯にしばらく入て、伊豆の国の様子をつぶさに聞届、伊豆の国を切てとらんと思慮をめぐらさる…


 つまり、早雲自らごくふつうの老人になりすまし、修善寺の湯につかりながら、伊豆の情報収集(しゅうしゅう)をしたというのである。そして、こうして得た情報から、早雲は堀越(ほりごえ)公方の内紛を知る。

 当時、伊豆で最大の勢力をもっていたのは堀越公方であった。堀越公方というのは、本来は鎌倉府のトップとして鎌倉公方になるべく、将軍義政の弟政知が関東に下されたもので、鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越(現在の静岡県田方郡韮山町)に居を定めたため、まわりから堀越公方の名でよばれていたのである。

 初代堀越公方足利政知には三人の男子がいた。長男が茶々丸(ちゃちゃまる)、二男が潤童子(じゅんどうじ)、三男が清晃(せいこう)である。茶々丸だけが先妻の子で、あと二人は後妻円満院(えんまんいん)の子であった。

 円満院がわが子潤童子をあとつぎにしたいため、先妻の子茶々丸をささいな罪で牢(ろう)に入れてしまった。

 延徳三年(1491)四月、足利政知が病死したとき、そのどさくさにまぎれ、茶々丸が牢から脱出し、円満院と潤童子を殺し、自分が二代目堀越公方になることを宣言した。ところが、茶々丸と、政知のときからの堀越公方の重臣たちとの間はしっくりいっていなかったのである。早雲はそのあたりの情報をつかんだ。

 従来、早雲の伊豆討入を延徳三年とするのが通説だった。しかし、延徳三年は、政知の死、円満院、潤童子の死んだ年であって、早雲の伊豆討入は二年後の明応二年(1493)とみるのが妥当と思われる。

 さて、早雲の方であるが、興国寺城で作戦を練り、今川氏親、さらに葛山(かずらやま)氏からも兵を借り、五百ほどの兵で堀越御所を夜襲した。茶々丸はそこで討たれたとも、近くの守山(もりやま)に逃れ、そこで自刃したとも、さらには落ちのびていったともいわれるが、その時点で堀越公方の政治生命が絶たれたことはまちがいない。

 『北條五代記』によると、そのとき早雲は、伊豆の国中に「風病」が蔓延しているのをみて、薬を取りよせて治療させたり、年貢をそれまでの五公五民から四公六民に軽減したりしたとする。同書が、「伊豆一国は一か月で平定された」と記すのは誇張だとしても、「民政」に意を用いたことは事実だったと思われる。それにしても、実に鮮やかな国盗(と)りだった。堀越御所の近くに新たに城を築き、そこを居城として移っていった。これが韮山城である。
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