小田原市

四代氏政の時代

四代氏政の時代

北條氏政画像(早雲寺所蔵)

北條氏政画像(早雲寺所蔵)

 氏康は、永禄二年(1559)十二月、隠居して、家督を氏政に護っている。このとき氏康は四十五歳だった。それまでの代替わりをみると、いずれも当主の死の直前に家督継承が行われているので、このときの元気なうちのバトンタッチは珍しい。

 もっとも、あとを継いだ氏政はまだ二十二歳と若かったので、隠居したとはいっても氏康は小田原城の本丸に留まり、「御本城様(ごほんじょうさま)」と呼ばれていた。

 この氏政のときに、後北條氏の領国はさらに拡大されていくが、同時に多難な時代でもあった。家督を継いでわずか二年後の永禄四年(1561)三月、長尾景虎(上杉謙信)に小田原城を包囲されたことなどは、その具体的な表れであった。
 
 しかもその長尾景虎は、翌月、すなわち閏三月十六日、鎌倉の鶴岡八幡宮社前で、上杉憲政から、上杉の名宇と関東管領職(かんれいしき)を譲られ、上杉政虎(のち輝虎)と改名し、実際に関東支配に乗り出してきたのである。


 さらに、ちょうどそのころから、固い同盟と思われていた「甲相駿三国同盟」が揺らぎ始めた。そして、ついに氏政は武田信玄と手を切るのである。氏政の正室は信玄の娘であったが、離縁し、信玄のもとに帰っている。

 永禄十二年(1569)十月には、信玄の大軍が小田原城を包囲し、そのあと、三増峠(みませとうげ)の戦いで両軍のはげしい戦闘があった。

 こうした厳しい状況の中で、元亀二年(1571)十月、隠居していた氏康が死んだ。氏康は死の間際、「信玄と再び手を結べ」と遺言していたのである。氏政はその遺言通り、信玄との同盟を復活させている。

 信玄が死んだ後、武田氏の家督は四男の勝頼が継いだ。氏政は、この勝頼とのきずなを強めようと、自分の妹を勝頼に嫁がせている。しかし、この外交政策は結論からいえば失敗だった。というのは、そのころすでに、武田氏の栄光に陰りがみられていたからである。そうした情勢判断の甘さ、もっといえば、的確な情報蒐集を怠ったことが、こののち、後北條氏にとってマイナスに作用することになる。

 そしてもう一つ、永禄四年と同十二年の二回、戦国を代表する名将といってよい上杉謙信と武田信玄の攻撃を、氏政が小田原城に籠城してはねのけたということが、氏政の自信過剰につながってしまったという点をみておかなければならない。小田原城に対する過信の気持ちで、これが、のち、豊臣秀吉の攻撃を小田原城でくいとめようとする発想につながったのであろう。

 なお、氏政は、そのあとで武田勝頼と手を切っている。上杉謙信死後、氏政の弟氏秀(景虎)と景勝の二人の養子があとを争ったとき、勝頼が景勝の側を応援したことを知ったからである。氏政は、織田信長に好(よしみ)を通じ、勝頼と戦っている。

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