23日・24日の二日間、福島県相馬双葉地方を訪ねました。24日に開催された伝統行事「相馬の野馬追」に、相馬市の立谷秀清市長からお招きを頂いた機を捉え、震災発生後何度となくお訪ねし復興へのご支援をさせて頂いた同地方の現在の様子をこの目で確認したく、各所を廻らせて頂いたものです。
23日は朝に小田原を出立、午後から大熊町・吉田淳町長、浪江町・吉田栄光町長、南相馬市・門馬和夫市長を各役場にお訪ねし、夕刻に立谷市長と再会。24日には、中村神社で開催された野馬追の宇多郷出陣式に参列、その後飯舘村にて中川副村長と山田課長、浪江町にて伝統産業である相馬大堀焼の会館、大熊町の駅前に建設された地域振興施設、浪江町旧請戸小学校、南相馬市の「浮舟の里」の久米靜香さん、「OWB株式会社(旧株式会社小高ワーカーズベース)」の和田智行さんをお訪ねし、夕刻からの相馬市主催「歓迎の夕べ」に参加。翌日朝からの小田原市水防訓練を控えていたため、終了後に出立し、日付が変わった頃に小田原に帰着。たいへん中身の濃い2日間の訪問・再会の旅となりました。
2日間の行程にまつわる細かな紹介は別の機会に記すこととし、ここでは、震災から14年を経た相馬双葉地方を訪ねる中で特に印象に残った点を書き留めておきたいと思います。
まずは、景色が変わったということ。前回までは、除染された土などを入れた黒いフレコンバックが至る所に山積みとなり、復興への重い足かせの象徴となっていましたが、中間貯蔵施設にその大半が持ち込まれ、一部の山間部を除いて、沿道にも農地にもあの黒いバックは無くなりました。数年前に「全国植樹祭」が行われたことも、バックの片付けに大きく貢献したようです。
沿岸部で津波が襲い、塩水に浸かってしまった農地や、放射線量の問題で作付けを見送っていた内陸部の農地は、しばらくは荒れるに任せている状態でした。今は、汚染土の剥ぎ取りや圃場整備も進み、水が張られ田植えを待つ田んぼや、土壌改良もかねて小麦が栽培されている畑など、再び息を吹き返している農地がかなり拡大、作付けができなくとも草刈りや耕運で荒廃が防がれていました。
そして、復興。常磐線沿線では、駅周辺の整備事業が動き出し、国からの手厚い支援もあって、市街地開発や拠点建設が進んでいます。前回までは帰還困難区域として国道6号線から一歩も中に入れなかった大熊町では、町役場や学校、駅前の産業交流施設「CREVAおおくま」などが着々と整備されるなど、まだ町域の一部ではあるものの、新たな町の姿が現れ始めています。また、沿岸部で津波を被った広大な農地やかつての集落部は、太陽光発電パネルが見渡す限り並ぶ発電施設となり、水素エネルギーやロボット開発など最先端の企業なども立地を始めています。
課題は、住民の帰還。大熊町、浪江町、飯舘村など、住民が全国各所に離散した町では、災害発生から長い年月を経たため、住民の帰還がなかなか進まない状態が続いています。浜通りでは企業が進出し雇用の場も増えつつあるものの、住民が増えないため働き手が十分に確保できていない現実もあります。一方、大熊町などでは元の住民ではない移住者も増え始めているとのこと。
江戸時代後期、今でも地域の皆さんが敬意を表して「御仕法」と呼ぶ、二宮尊徳翁の一番弟子である富田高慶が手がけた報徳仕法が行き渡った、相馬双葉地方。国内で唯一、苛酷な放射能汚染による故郷喪失の危機に瀕し、なんとか乗り越えようとしている皆さんの歩みを、報徳のご縁で結ばれた小田原として引き続き応援していきたいと、強く感じた訪問となりました。