この3Dプロジェクトで再現されたエリアは、戦国時代末期の壮大な小田原城を元にしています。総構(大外郭)と言われるこのエリアについて解説します。
そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これが総構です。
総構の面影は今も市内各所に残っています。「稲荷森」と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、小田原市谷津では総構堀が埋め立てられて、そのままの位置で茶畑として使われています。また、東町には「蓮上院土塁」という総構の土塁が残っています。南町にも「早川口遺構」と呼んでいる土塁が公園として整備されています。
137年の時を超えて、小田原城の正規登城ルート完成!
小田原城は、戦国時代には小田原北条氏による関東支配の中心拠点として、拡大を続け、戦国時代末期には日本最大規模の城郭となりました。江戸時代には、近世城郭として生まれ変わり、江戸幕府の西の守りを固める防衛上の要衝として、また、幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担いました。明治時代になると廃城となり、大正12年(1923)の関東大震災では壊滅的な被害を受け、一部の堀などは埋め立てられました。小田原城は、昭和13年以降6次にわたって国の史跡として指定され、現在までに本丸・二の丸のほとんどと三の丸外郭や総構の一部が国の史跡として保護されています。