小田原城について

小田原城の総構

-戦国時代最後の巨城・小田原城-

三の丸新堀

この3Dプロジェクトで再現されたエリアは、戦国時代末期の壮大な小田原城を元にしています。総構(大外郭)と言われるこのエリアについて解説します。

天正14年(1586)、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となった小田原では、来たる秀吉軍との決戦に向けて小田原城の普請が進めらました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する「三の丸新堀」が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。

そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これが総構です。

総構の全長は周囲9㎞に及び、これまでの発掘調査で明らかになっている堀は、堀幅16m、深さ10m以上の規模を有するものです。堀底には堀障子と呼ぶ、掘り残して造られた障壁が造られており、このような堀は障子堀と呼ばれ、小田原北条氏が多く用いた堀の構造です。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は京都発し、約220,000人の軍勢が関東へと向かいました。小田原攻めには秀吉が直接率いた約148,000人の軍勢が動員されました。守る小田原勢は約34,000人。小田原北条氏は籠城戦での応戦を選択し、総構を頼りに秀吉軍と対峙しました。籠城戦は3ヶ月に及びましたが、ついに7月5日に当主北条氏直は降伏し、隠居氏正も10日に城を退きました。これを期に豊臣秀吉の天下統一は成ったのです。
 
3ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなく総構の存在があったからでしょう。この時の小田原合戦に際して籠城し、後に『北条五代記』を記した小田原北条氏家臣の三浦浄心は、「去年小田原の城惣がまへ有によて落城せず」と記しています。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。先の『北条五代記』には、駿河の中村一氏が、小田原城を手本として「府中の城に惣がまへの堀をはらしめ給ふ」と、総構を掘っている様子を記し、「京まで海道の城々、みな惣がまへの堀普請ありつるを見たり」と、京都に向かうまでの街道沿いの諸城では、総構を普請するための工事が進められていたことも記されています。
このように、小田原城では秀吉との対決に向けて総構が構築され、その要害性・防御力は小田原合戦において遺憾なく発揮されました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。総構に囲まれた内側は「小田原府内」「府中」などとも呼ばれ、現在もその範囲を「小田原」と呼称する風習も残っています。
稲荷森

総構の面影は今も市内各所に残っています。「稲荷森」と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、小田原市谷津では総構堀が埋め立てられて、そのままの位置で茶畑として使われています。また、東町には「蓮上院土塁」という総構の土塁が残っています。南町にも「早川口遺構」と呼んでいる土塁が公園として整備されています。

 
 
関東の覇者としての小田原北条氏が作り・用いた総構は、歴史の証人として今も小田原の町に生き続け、私たちに小田原で起こった歴史上のできごとを語りかけてくれます。

馬出門が完成!平成21年3月29日に一般開放しました!

137年の時を超えて、小田原城の正規登城ルート完成!

平成21年3月29日(日) 一般開放となりました。
 
馬出門は、小田原城の大手筋に位置し、二の丸を守る重要な門です。
2009年春、総工費5億円余、江戸時代の姿によみがえりました。
あなたも往時の藩主気分で、枡形石垣・門・土塀の美しさに導かれ、いざ登城!

-小田原城と馬出門-

小田原城は、戦国時代には小田原北条氏による関東支配の中心拠点として、拡大を続け、戦国時代末期には日本最大規模の城郭となりました。江戸時代には、近世城郭として生まれ変わり、江戸幕府の西の守りを固める防衛上の要衝として、また、幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担いました。明治時代になると廃城となり、大正12年(1923)の関東大震災では壊滅的な被害を受け、一部の堀などは埋め立てられました。小田原城は、昭和13年以降6次にわたって国の史跡として指定され、現在までに本丸・二の丸のほとんどと三の丸外郭や総構の一部が国の史跡として保護されています。

 
小田原市では、史跡の管理団体として本丸・二の丸の国指定史跡を永久に保存管理し、その活用を図るため、平成5年に「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を策定し、現在、二の丸から本丸へと至る大手筋の整備を進めています。馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続しました。小田原市では、文化庁・神奈川県の補助を得て、住吉堀、住吉橋、銅門の復元整備に続き、平成15年度から20年度にかけて、馬出門の復元整備事業を行いました。
史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想
馬出門

江戸時代の小田原を再現したCGファイルを映像で!

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