曽我の仇討ち

曽我物語と浮世絵1(解説:岩崎宗純)
曽我の仇討ち

 本年から800年前の建久4年(1193)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩の陣屋で、曽我五郎・十郎は、父の仇工藤祐経(すけつね)を討ち、宿年の思いを果たした。『吾妻鏡』は、その時の様子をつぎのように伝えている。

 「廿八日、癸巳。小雨降る。日中以降霽(は)る。子の剋(きざみ)、故伊東次郎祐親(すけちか)法師が孫子、曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね)、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門尉祐経を殺戮(さつりく)す」


 この時祐経は、宿所で備前国の住人王藤内(わとうない)と、手越の少将・黄瀬川の亀鶴等の遊女を交えて酒盃を重ねていた。祐経が兄弟によって討たれると、遊女たちは泣き叫び、大声で異変を告げた。

 「これによって諸人騒動し、子細を知らずといへども、宿侍(しゅくじ)の輩は皆ことごとく走り出づ。雷雨鼓(つづみ)を撃(う)ち、暗夜燈を失ひて、ほとほと東西に迷ふの間、祐成等がために多くもって疵を被る」

 といった状態になった。

 兄弟は駆けつけた部下たちと渡り合い、十郎は朝比奈四郎に討たれた。五郎は頼朝の御前目指して奔参したが、大友能直(よしなお)に制せられ、小舎人五郎丸に捕らえられた。騒ぎが静まると、頼朝の命で和田義盛(よしもり)・梶原景時によって検死が行われ、死骸が工藤祐経であることが確認された。

 翌29日。五郎に対する尋問が行われた。頼朝を中央に、左右には北条時政以下主だった御家人たちが居並ぶ中、狩野介・新開荒次郎が夜討ちの本意をただした。五郎は将軍の面前で直に言上したいと言いはり、許されてつぎのように述べた。

 「祐経を討つ事父の尸骸(しがい)の恥を雪(すす)がんがために、ついに身の鬱憤の志を露はしをはんぬ。祐成九歳、時到七歳の年より以降(このかた)、しきりに会稽(かいけい)の存念を挿(はさ)み、片時も忘るることなし、しかうしてつひにこれを果たす。」と。


 ついで五郎は、拝謁を遂げた後は面前で自害するつもりだったといい、皆を驚かせた。頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首を申し渡した。

 曽我五郎・十郎の父河津三郎祐泰(すけやす)が工藤祐経の従者によって暗殺されたのは、安元二年(1176)十月、伊豆奥野で行われた狩の帰途であった。暗殺の背景には、祐泰の父伊東祐親と工藤祐経との間に伊豆久須美荘をめぐる所領争いがあったという。

 夫祐泰の横死後、兄弟の母、満江(まんこう)御前は、舅の祐親にすすめられて、相模国曽我庄(小田原市)の曽我祐信(すけのぶ)と再婚する。兄弟はここで成育するのだが、五郎は一時、箱根権現に稚児として預けられた。曽我に再嫁してからの兄弟の母は、身辺の平穏を望み、わが子に仇討ちの志を捨てさせようとするが、兄弟の父への思慕と、仇祐経に対する憎しみは強く、兄弟は仇討ちの初志を貫こうとする。

 兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣であった。その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆であった。従って仇討ち成就は死を覚悟しての行動であった。『吾妻鏡』が、五郎が頼朝の面前で心底を述べ、成就の暁には自害するつもりであったと、記していることはそのことを意味している。

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