横死した兄弟の霊が、さまざまの災厄や虫害をなすという民間伝承が東国の各地に伝わっている。曽我五郎・十郎の菩提所である小田原市曽我谷津城前寺では、毎年兄弟が討入りした5月28日に傘焼き(写真)が行われる。各家庭で使い古した唐傘を集め、無事息災、至福繁昌を祈って焚きあげる行事である。この行事がいつ頃から行われていたか定かではないが、江戸後期にはすでに行われていたという。江戸時代には傘がカサ(病根)にも通じる意味もあって悪疫退散を祈っての行事であろうが、関東の御霊信仰と結びついた伝統行事と思われる。
御霊信仰と結びついた曽我兄弟の仇討ちは、修験比丘尼・絵解(えとき)法師などに語り継がれ、物語としての骨格を整えていくが、固定した編著者については『神道集』を生み出した安居院の唱道者集団、時宗教団、上野国ゆかりの神人団などさまざまな説が考えられているが定かでない。
語り物として形成された『曽我物語』が、どの時代に書物の形態をとるようになったか、『保暦間記』によると、南北朝の初頭にはすでに成立していたと考えられるが、それがどこまでさかのぼるか、明らかでない。
『曽我物語』の成立については、ぼう大な研究の積み重ねがあり、門外漢がそれを咀嚼して解説を書くには、時問も能力も必要なので、これ以上触れることはできない。ただ、『曽我物語』は、真字本系と仮名手本系にわかれ、その編著者を前者を安居院の唱道者、後者を箱根山の僧を比定する人が多いようである。
『曽我物語』は、幸若舞・謡曲・浄瑠璃など中・近世芸能の絶好の題材ともなった。幸若舞では、「切兼曽我(一満箱王)」「元服曽我」「和田酒盛(和田)」「小袖曽我(小袖乞)」「剣讃歎」「夜討曽我」「十番切」の七番の曽我物を生み、そのうち「和田酒盛」「夜討曽我」「十番切」などが特に好んで上演された。謡曲も「調伏曽我」「元服曽我」「小袖曽我」「夜討曽我」「禅師曽我」その他十数番の曽我物が作られている。近世に入り「曽我物」を取り上げたのは近松門左衛門である。近松は、「世継曽我」をはじめとする曽我物の浄瑠璃を数多く書いている。