小田原ゆかりの優れた建造物
静山荘(旧望月軍四郎別邸) (せいざんそう・きゅうもちづきぐんしろうべってい)
概説
静山荘は、明治25年(1892)に建築された民家を、長年財界で活躍した望月軍四郎が昭和14年(1939)に上府中村(現市内上府中)から現在地に移築した別荘です。
この建物は、農家を別荘にした珍しい建物で、書院造の座敷と民家風の広間がよく調和しており、材料的にも技術的にも高い価値があります。
屋根は日本瓦葺きで、落ち着きと優雅さを見せています。欅材の大梁、柱、神棚は大きく、太く、がっしりとしていて重量感があり、手入れが非常に行き届き、欄間は概ね建築時の組子欄間で細工が見事です。
重厚な建物と庭は、外の世界から遮断された独立した空間を構成しています。
この建物は、農家を別荘にした珍しい建物で、書院造の座敷と民家風の広間がよく調和しており、材料的にも技術的にも高い価値があります。
屋根は日本瓦葺きで、落ち着きと優雅さを見せています。欅材の大梁、柱、神棚は大きく、太く、がっしりとしていて重量感があり、手入れが非常に行き届き、欄間は概ね建築時の組子欄間で細工が見事です。
重厚な建物と庭は、外の世界から遮断された独立した空間を構成しています。
望月軍四郎(実業家)(1879~1940)
明治12年(1879)静岡県に生まれ、明治43年(1910)には望月商店を開設した。大正7年(1918)に米国に派遣され、ニューヨークの株式市場を実情調査して帰国した。教育界にも関心を示し、大学や学術研究機関に多額の寄付を継続した。昭和5年(1930)には京浜電気鉄道の取締役会長となり、現在の京浜急行電鉄の基礎を築いた。
諸戸邸(旧諸戸清六別邸) (もろとてい・きゅうもろとせいろくべってい)
概説
諸戸邸は、実業家で山林王の名で知られる諸戸清六の次男で、諸戸家の当主であった清太が、清六の植えた木を用い大正6年(1917)に建築した別荘です。
この建物は、諸戸家専属の大工が建てたため、柱間(畳)寸法が関東地区とは異なる中京間(ちゅうきょうま)の別荘です。細やかな配慮と丁寧な造りが特徴で、材料的にも良く選ばれた面皮柱(めんかわばしら)、磨丸太(みがきまるた)などの杉の良材が使用されています。特に同じ太さで伸直性(しんちょくせい)の高い丸太長押(まるたなげし)は素晴らしく、網代編(あじろあみ)と紙張りの市松模様の障子や腰壁網代張(こしかべあじろばり)などに意匠上での特徴が見られます。
庭は、南側のみかん園と相模湾を借景にした眺めの良い庭です。
この建物は、諸戸家専属の大工が建てたため、柱間(畳)寸法が関東地区とは異なる中京間(ちゅうきょうま)の別荘です。細やかな配慮と丁寧な造りが特徴で、材料的にも良く選ばれた面皮柱(めんかわばしら)、磨丸太(みがきまるた)などの杉の良材が使用されています。特に同じ太さで伸直性(しんちょくせい)の高い丸太長押(まるたなげし)は素晴らしく、網代編(あじろあみ)と紙張りの市松模様の障子や腰壁網代張(こしかべあじろばり)などに意匠上での特徴が見られます。
庭は、南側のみかん園と相模湾を借景にした眺めの良い庭です。
諸戸清六(実業家)(1846~1906)
弘化3年(1846)に木曽川沿いの伊勢国(現三重県)桑名郡加路戸新田村の庄屋で豪農であった諸戸清九郎の次男に生まれた。家督を継いだ清六は、先祖が遺した巨額の負債を米相場などにより一代で返済し、その後、大隈重信、大倉喜八郎、松方正義らと知己を得て大実業家として成長し、短期間に巨万の富を築いた。また、大隈重信らの勧めで植林事業も手掛け、山林王と呼ばれた。
岩瀬邸(鴨宮) (いわせてい)
詳しい情報はこちら
※岩瀬邸は国の登録有形文化財にもなっています。
※通常非公開です。
(令和4年現在、文化財建造物観覧会で年1回公開されています)
※通常非公開です。
(令和4年現在、文化財建造物観覧会で年1回公開されています)
岩瀬邸
山月(旧共寿亭・大倉喜八郎別邸)(板橋)
(きゅうきょうじゅてい・おおくらきはちろうべってい)
詳しい情報はこちら
※山月(旧共寿亭・大倉喜八郎別邸)は国の登録有形文化財にもなっています。
※現在公開していません。
※現在公開していません。
関連情報リンク
この情報に関するお問い合わせ先
文化部:文化財課
電話番号:0465-33-1717